「語る」と「魅せる」。映像作品は、この2つのベクトルの合力として成り立っている。
1月下旬に相次いで公開・配信された長編アニメーション3作品――『クスノキの番人』『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』『超かぐや姫!』――は、この「語る」と「魅せる」のバランスが、皆それぞれに異なっている。そして皆それぞれに魅力的に出来上がっていた。  

『クスノキの番人』は東野圭吾の同名小説をアニメ映画化した作品。「その木に祈れば願いが叶う」といわれる神秘的なクスノキを中心に、複数の家族の物語を浮き上がらせていく内容で、3作品の中では一番「語る」の成分に偏った作品だ。そしてその「語り」は、アメリカ発の脚本術の土台の上にあるようだ。  

映画監督の黒沢清はこう書いている。「とても悲しい物語があったとする。それを実に上手く語ったとしよう。そうしたら間違いなく悲しいわけで、観客は皆等しく涙するであろう。これは当たり前といえば当たり前の基本だ。忠実にこれを実行するだけで、アメリカ映画は弛まぬ繁栄を続けている」(「物語を紡ぐことこそ映画だと、そこんとこわかっているのか、みんな」/『映像のカリスマ 黒沢清映画史 増補改訂版』エクスナレッジ刊)  
この「上手い語り」というのが『クスノキの番人』の目指したところだろう。  

本作は主人公・直井玲斗を含む3人の若者が物語の軸で、その3つのラインが交互に登場することになる。
この3つのラインをひとつにまとめ、映画全体の大きな流れを作り出すために本作では「語り」に丁寧な工夫が凝らされているのだ。  

まずクライマックスの直前に、彼らが一番感情的に沈み込むタイミングがあるのだが、まずこのタイミングをなるべく揃えるようにシーンを構成している。そして、その上で底まで落ちた玲斗の気持ちが反転する様を、音楽と小道具の100円玉、そして彼自身の比喩でもあるマスコットキャラクターのコノハズクを使って描き出す。玲斗の感情の転換を境にして、次のクライマックスに向けての展開が始まる。  

そしてクライマックスも、鍵となるピアノの演奏シーンに、2つの回想を入れ込むことで、3つの軸の感情的なピークがひとつに重なるように構成している。物語の時制だけ取り出して考えると、ちょっと複雑な並び順ではあるのだが、ピアノの演奏がエピソードを一体のものとしてまとめており、観客はそこに素直に身を任せることで、カタルシスを感じられるようになっている。どのように語るか、ということについての明確な戦略が、本作を間口の広いエンターテインメントに仕上げているのだ。  

ちなみに本作は、ピアノ演奏のクライマックスのあとに、さらにもうひとつ玲斗の物語の山場が用意されていて、多段ロケットのようにさらに観客の感情を盛り上げていく。このとき、セルアニメとは異なる、パステル調の質感の画面が採用され、ここで本作の「魅せる」ベクトルが最大限に発揮される。  

なお本作は、シンプルな切り返しを「ここぞ」というシーンまで温存する一方、観客に意識してほしい一瞬になるとカメラが大胆に動くとか、あるいは鏡像を使って登場人物の自問自答する心境を感じさせたりといった演出もさまざまな工夫が凝らされていた。  

機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』は、3部作の第2作目。本シリーズは、反連邦政府組織のリーダー・マフティーとして活動するハサウェイ・ノアの物語で、今回の第2作目はヒロインであるギギ・アンダルシアの心境の変化も重要な要素として描かれる。
 

本作は、冒頭の「砂煙が巻き上がる中で戦闘を撮影した動画」から始まり、ラストが「夜から次第に未明へと変化していく中での戦闘」で締めくくられる。この「見える/見えない」の綱引きによって生まれるルックは前作に続き本シリーズの特徴といえる。  

さらに第2作の今回は、潜水艦の存在がキーになるほか、客観と主観の使い方など、ルックだけにとどまらず、さまざまなレイヤーにおいて「見える/見えない」がポイントとなった作りになっている。そして本作の「語り」は、この「見える/見えない」の延長線上に位置づけられる。  

まず本作には、登場人物が歩いているカットがとにかく多い。部屋に入る、部屋から出ていく、階段を登る降りる、廊下を歩くなどなど。これによってその空間がリアリティや存在感をもって迫ってくる。ここで描かれているのは、客観的に「見える」空間である。  

この「客観的に見える光景」で構成された流れの中に、要所要所で、他人からは見ることができない登場人物視点の主観カットが挟まれる。一番印象的なのは、ホテルのプールで水にたゆたうギギが、自分の身体を見ている視点だろう。この主観のカットの前後で彼女は自分の心を見つめ、そしてひとつの重要な結論を出す。  

そしてクライマックス。
ハサウェイはΞガンダムを操り、連邦軍のモビルスーツ、アリュゼウスと戦う。だが、その戦いは彼のトラウマ、封印されていた記憶を解き放ってしまう。このハサウェイの記憶の映像は、やはり主観映像として描かれており、「記憶の中」で「主観」という二重に、他人からは「見えない」映像として表現されている。  

『素晴らしい映画を書くためにあなたに必要なワークブック シド・フィールドの脚本術2』(シド・フィールド、訳:菊池淳子/フィルムアート社刊)にこんな記述がある。 「ウォルド・ソルトは言っている。フラッスバックは「フラッシュプレゼント」[「プレゼント」は現在という意味]である。なぜなら、登場人物はいつでも現在だからだ。(略)フラッシュバックの映像やイメージは、過去の記憶・思い出・幻想であったとしても、それはあくまでも登場人物が“今現在”感じたり考えたりしていることなのだ」  

同書では、フラッシュバックとは物語の都合で入れるものではなく、登場人物が「現在」感じている意識の流れの中に入れるものだ指摘をしている。クライマックスの戦闘シーンはまさに、ハサウェイがその瞬間感じていることとして、彼の過去がインサートされている。そしてその先に、彼の想像上のアムロとの対話シーンも描かれている。  

この進行形のハサウェイの意識の流れを断ち切るのが、ギギの言葉である。「見えない」世界に入り込んでいたハサウェイを、ギギが「見える」世界へと連れ戻すという形で、ギギの役割をクリアにしたところで、本作は締めくくられる。


 『超かぐや姫!』は、「魅せる」のベクトルのほうにぐっと傾いた作品だ。物語は非常にシンプル。ゲームやメタバース、配信者などといったにぎやかな題材と、『かぐや姫』を組み合わせた内容で、特に作品前半は「魅せる」要素で観客を牽引していく。そして作品の最後のブロックで「魅せる」から「語る」にシフトチェンジする。  

ここで大事なのは、VR世界「ツクヨミ」や、そこで繰り広げられるゲームやライブは確かに「魅せる」要素ではあるが、それだけでは「魅せる」ことが成立するわけではない、ということだ。本作の「魅せる」の核にあるのは、キャラクターの愛嬌だ。主人公の彩葉もかぐやも、コロコロと表情が変わって観客を飽きさせない。  

当然コミカルな、いわゆる“崩し顔”がちょくちょく登場するのだが、それが(当然ながら)記号的でありながら、いい感じに生っぽい。この「記号的/生っぽさ」の曖昧な領域にそのキャラクター固有の愛嬌が生まれている。それが端的に見てとることができるのが口元の表現だ。  

「生っぽい」というのは決して現実模倣的(リアル)というわけではない。むしろ口が絵でしか描けない奇妙な形、奇妙な線になった瞬間に、キャラクターの感情――それもその刹那の瞬間の感情――と、しっかりリンクしていて、その感情とのリンクが「生っぽい」という感覚を生むのだ。
 本作は、普通に口を閉じているときも、一本の線で描かれながら、上唇が下唇の上に乗っていることがわかるように描かれている。この現実味のある線が、彼女たちの感情のアップダウンにあわせて、さまざまな形に変わる。こうした魅力は、序盤に登場する、夜中にふたりがオムライスを食べながら会話をするシーンなどがわかりやすい。  

こうして描かれたキャラクターの愛嬌が、観客のシンパシーを醸成して「このキャラクターをもっと見ていたい」という方向で物語を牽引していく。この延長線上にゲームでのバトルもライブシーンも存在している。そして観客が彩葉とかぐやのことを好きになってしまえば、終盤の「語り」が前面に出てくる展開まで十分楽しんでもらえる。つまり本作では、「魅せる」ことが「語り」を支える推進力に直結しているのである。    

「語る」と「魅せる」。このふたつのベクトルを意識しながら見ると、その作品の立ち位置が非常にクリアに見えてくる。

【藤津 亮太(ふじつ・りょうた)】
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。
主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。
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