【東京・日本橋発】須田さんは、現在、ITサービスを提供するアクログループで三つの会社の代表を務めている。ところが「あと3年、私が61歳になったらメインの会社(アクロスペイラ)の代表を辞めます」とおっしゃる。
ちょっと早い気もするが、故郷函館に設立したアクロクレインに軸足を移し、ビジネスのスタンスも少し変えていくということらしい。詳細は本文に譲るが、24歳の若さで起業し、還暦近くまで走り続けてきた須田さんにとっての新たなスタート地点なのかもしれない。
(創刊編集長・奥田喜久男)

●教師になる夢をあきらめ
コンピューターの世界へ
 須田さんには、故郷の函館でU-16プログラミングコンテスト(以下、U-16プロコン)の立ち上げにご尽力いただきました。U-16プロコンのことについては、後半で詳しくお話をうかがいますが、まずはここに至るまでのご自身の歩みについてお話しいただけますか。
 おっしゃるように私の故郷は北海道の函館で、高校を卒業するまでこの地で育ちました。そして、学校の先生になろうと教育大(北海道教育大学函館校)を受験するのですが、2年続けて不合格となってしまったんです。まあ、勉強しなかったから仕方ないのですが(笑)。
 どうして、学校の先生になろうと思ったのですか。
 子どもの頃、「金八先生」や中村雅俊さん主演の青春ドラマが好きで、それに影響されたのでしょうね。
 熱血漢の先生が出てくるドラマですね。親御さんの影響は?
 父は貨物船の航海士として海外を回っていたので、父の仕事を直接見ることはありませんでした。だから、親に教えられたことはあまりないですね(笑)。

 教員志望についてはテレビドラマの影響もありますが、自分が子どもの頃、身近な大人といえば学校の先生ですから「やはり先生はすごい」という思いを抱いていたことはたしかです。
 先生という職業の魅力は?
 人に教えて成長する姿を見ることは喜びですし、いまのビジネスの現場でも若い人に教えることは好きですね。
 ただ、いま思えば、先生にならなくてよかったのかもしれません。好きなことは仕事にしないほうがいいといわれますから。
 なるほど、でも教え好きは変わらないんだ。
 それで浪人生活の後は?
 さすがにそれ以上浪人するわけにはいかないと思い、札幌にあったコンピューターの専門学校に入りました。それが、1984年のことです。
 84年といえば、パソコンが本格的に世の中に普及しはじめた頃ですね。もともとコンピューターに関心があったのですか。
 実は、当時はあまりコンピューターに興味をもっていなかったんです。ただ、手に職をつけなければならないと思い、専門学校に入ったわけです。そこで2年間学んだ後、東京に出て就職しました。

 最初の就職先はどちらですか。
 当時、東京の青山にあった日本SEという会社です。
 日本SEといえば、SIerとしてはかなり大きな会社ですね。
 当時、1000人以上の従業員がいたと思います。入社した頃は、この会社で一生勤め上げようと考えていました。
 本当ですか?
 本当です。その会社での生涯賃金まで計算したこともありますし……。
 それで結局は……。
 2年ほど勤めた後、退職し、友達と一緒に会社をつくりました。
●24歳で起業し
38歳で倒産を経験する
 定年までいるつもりが、たった2年で起業の道を選ぶとは大胆ですね。会社を設立したのはおいくつのときですか。
 24歳ですね。
設立は88年です。SIerのビジネスの仕組みは比較的簡単で、自分にもできそうだと思って独立に踏み切ったわけです。社名はエムケーティー(MKT)。私の名前です。取引先の人から「楽しそうでいいね」といわれてしまいました。
 景気のいい時代とはいえ、ずいぶん思い切りましたね。
 面白そうだと思うと、やってしまうところがありますね。もちろん失敗は何度もしていますが、そのたびにリカバリーすることの繰り返しです。
 経営は順調だったのですか。
 最初はよかったのですが、設立2年後にバブルが崩壊し、金融系を中心とする仕事は激減しました。ところが、当時業容を拡大していた第二電電など通信系の仕事が増えていったのです。基幹系のソフトウェア開発で、言語はCOBOLでした。

 バブル崩壊でも、持ちこたえることができたのですね。
 そして、私がつくった会社と知り合いが経営する会社が合併し、当時のスカイパーフェクTVの仕事なども請け負うようになります。ITバブルが始まった頃ですね。
 このときの須田さんの役割は?
 副社長です。代表権は持っていませんでしたが、ツートップの一方という立場でした。
 年商はどのくらいだったのでしょうか。
 最高で7億円ほどですね。40~50人のエンジニアが働いていました。
 なかなかの規模ですね。
 ところが、窓口となった総合商社系の会社にその取引のほとんどを依存していたため、会社はとても危険な状態に陥りました。
 具体的には?
 その得意先の会社の社長が交代し、パートナー企業の受注量の見直しを行ったのです。それまでは、見積もりを出せばすぐに発注してくれるような関係だったのですが、その見直しにより売り上げが激減してしまいました。

 それが、一社依存の怖いところですね。
 それまでのいい関係に甘んじていたこともあり、その危険性に気づいていなかったんですね。
 別にこちらが悪いことをしたわけでもなく、得意先が恣意的に発注を絞ったというわけではないのですが、見直しの結果、客観的に見て受注量が多いと判断されてしまったということです。
 景気がいいときこそ、気をつけなければならないことですね。
 それなりの規模で経営していましたから、突然売り上げがガクンと落ちると、1、2カ月で資金繰りが厳しくなっていきます。自転車操業の負のスパイラルに陥ってしまったのです。
 それでも3年間ほどは人を減らしてなんとか事業を継続していましたが、私が38歳のときに力尽き、倒産という形となりました。
 須田さんのビジネス人生は、目まぐるしく浮沈を繰り返している印象がありますね。後半ではその後の展開とU-16プロコンについてもうかがいます。(つづく)
●須田さんが影響を受けた映画
『摩天楼はバラ色に』
 須田さんが20歳の頃に観たマイケル・J・フォックス主演の映画。主人公がメール・ボーイから社長にまで上り詰めるサクセスストーリーがかっこよかったと須田さんは語る。もしかしたらこの映画を観たことが、24歳の若さで起業した理由の一つなのかもしれない。

心に響く人生の匠たち
 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
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