【東京・内神田発】2024年1月1日、能登半島を最大震度7の地震が襲ったことは記憶に新しい。セーブ・ザ・チルドレンでも、いち早く、緊急支援物資の提供、学校などへの備品支援、給付金提供といったさまざまなかたちで子どもたちに対する支援を行った。
(本紙主幹・奥田芳恵)
●ハンセン病の隔離政策を原点にHIV差別の問題に取り組む
奥田 髙井さんは、セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンに参画される前、国連人口基金でHIV感染予防の仕事に携われています。どういう経緯で、この問題に取り組まれたのでしょうか。
髙井 私は小さな頃から本を読むのが大好きで、近所の図書館の本を書棚の端から次々に読みつくすような子どもでした。そんな読書体験の中で衝撃を受けたのが、ハンセン病の患者さんが家族から引き離されて隔離された話だったのです。病気になって大事にされるのではなく、捨てられてしまうなどということがあっていいのかと思いました。
奥田 とても痛ましく、つらい話ですね。
髙井 ハンセン病は薬で治る病気となり、国の誤った隔離政策は撤回されましたが、そうした人たちを支援する仕事をしたいと思い、一時は医師を目指したこともありました。
1994年に米国の大学を卒業した後はエイズ患者支援の組織に所属し、横浜で開かれたエイズ会議では通訳などのボランティアを務めました。実はこのとき、知り合いから東京大学の大学院受験を勧められたのです。
奥田 東大の大学院では何を学ばれたのですか。
髙井 国際保健学や公衆衛生などです。このとき、受験前に必ず志望する分野の担当教官に話をしてくださいと書類に書いてあったので、東大の大代表の番号に電話したのです。国際保健学の大井玄先生にお会いしたいと。
それで、大井先生に私のやりたいこと、HIVとそれに対する差別の問題などについてお話し、先生もそれに興味を持ってくださったのですが、最後に先生から「誰の紹介もなく、直接私に連絡を取ってきたのはあなたが初めて」と言われてしまいました。
奥田 紹介なしに大学の大代表電話にかけて自力でアポを取る大胆な人は、ほかにいなかったのですね。
髙井 先生はいい意味でそうおっしゃってくださったのですが、書類にはそう書いてあるし(笑)。
それで1年目の夏には早速タイに渡って、HIVエイズをめぐる差別と偏見に関する調査研究を行いました。
奥田 すごい行動力とスピードですね。
髙井 実は、ほかにタイに行きたいという人がいなかったようで、そのおかげでそんなに早く現地での調査研究に行かせてもらえたという経緯があります。とてもタイミングがよかったんですね。
ただ私は、アカデミズムの世界だけに閉じこもるのではなく、自分たちがリサーチしたことを施策につなげ、社会をよい方向に変えていくことが重要だと考えていました。
奥田 JPO試験というのは、どういうものですか。
髙井 JPOとは、ジュニア・プロフェッショナル・オフィサーの略で、日本政府が費用を負担して若手の国連職員を養成するプログラムのことです。私はHIVの問題に取り組んでいたので、ニューヨークの国連人口基金でそうした仕事に携わりました。
この組織のメンバーの多くは医師や博士号を持つ専門家で構成されていましたが、私は若手職員の一人としてPCを使った作業やリサーチに従事しました。私は、けっこう早い時期からPCに触れていて情報について詳しかったので、そういう仕事は得意でしたね。
奥田 国連人口基金で、ご自身がやりたかったことができましたか。
髙井 何かを成し遂げたというよりは、同じ目的のために市民団体やHIV当事者の方々を含めた世界中のいろいろな人たちと仕事ができたことは、自分にとってもとても有意義で、面白かったですね。
東日本大震災を機に子ども支援の仕事に携わる 奥田 現在のセーブ・ザ・チルドレンとの出会いは、どんなところにあったのでしょうか。
髙井 やっとセーブ・ザ・チルドレンの話までたどり着きましたね(笑)。2010年に私は国連人口基金のイエメン事務所にHIVプログラムのコンサルタントとして赴任したのですが、翌年2月に退避勧告が出てイエメンから出国せざるを得ない状況にありました。その翌月、滞在していたバンコクで東日本大震災の発生を知り、ニューヨーク時代からの知り合いで、当時、セーブ・ザ・チルドレンの事務局長を務めていた渋谷弘延さんに、何かできることはないかと連絡を取ったんです。
奥田 東日本大震災がきっかけになったのですね。
髙井 セーブ・ザ・チルドレンは、100年以上の歴史を持つ子ども支援専門の国際NGOですが、その活動は、子どもの権利を実現するための政策提言などと紛争や災害時の緊急人道支援に大きく分かれます。11年の震災はまさに緊急人道支援の対象となり、海外のセーブ・ザ・チルドレンのスタッフがたくさんやってくることが予想されました。そこで求められるのが、そのスタッフたちとの調整ではないかと思いました。いわば裏側でのオペレーションのお手伝いができるのではないかと考えたわけです。
奥田 やはり、前面に出る仕事ではなく裏方の仕事を志向されたのですね。
髙井 やったことのない仕事ばかりでしたが、結果的にはいろいろなことができたと思っています。
奥田 今後、セーブ・ザ・チルドレンとしてやっていきたいこと、そして髙井さん個人としてのこれからの思いを聞かせていただけますか。
髙井 セーブ・ザ・チルドレンは、子どもの貧困対策や子どもの権利を守るための活動をしているわけですが、なかでも子ども自身の声を聴くことが重要だと考えています。政策提言や人道支援をしていく中で忘れがちなことなのですが、当事者である子どもの意見を聴くことに、これからも力を入れていきたいと考えています。
私個人としては、HIV対策の仕事をしていたときと同様に、当事者が社会に参加するためのファシリテーターの役割を担っていきたいですね。東日本大震災のときは、子どもたちが海外の防災会議で意見を発信する場に一緒に行って、通訳兼ファシリテーターをしたのですが、そういう地域と中央をつなげるような仕事が、これからもずっとできたらいいなと思っています。
奥田 いつもみんなの世話役みたいですね。
髙井 「下町のおばちゃん」みたいなのが大好きなんですよ。けっこう、そういうところは得意ですね。昔からそうだったのかもしれませんが、そういうお節介で世話焼きな部分には自信があって、それが自分の落ち着きどころだと50年経って気づいたというわけですね(笑)。
奥田 今日は楽しく貴重なお話、ありがとうございました。
●こぼれ話
「いつ質問を返そうかと思っていました」と、満面の笑みを浮かべながら、こちらを伺う髙井明子さん。新しく人に会うのが好きで、相手がどういう人かとても知りたくなるのだそう。髙井さんと話をしていると、持ち前の明るさと、軽妙な語り口で一瞬にして心がほぐれる。おしゃべりの延長で対談が進んでいくようで、かしこまった感じがない。世界中の人たちと仕事をし、多様な人々と向き合ってきた経験で磨かれたものなのだろう。もはや言葉がなくても、全身で会話できそうなパワーがある。
「お昼ご飯はどこに行っています?」と昼食の話題で盛り上がる。
髙井さんはリーダーよりも二番手でサポートするほうが好きとおっしゃっていたが、間違いなく行く先々でリーダーとしての役目を期待され、適応されてこられたのではないかと思う。自らの経験と人としての魅力が多くの人を引きつけ、上手く巻き込んでいるのが分かる。
では、第二の髙井さんをどう育成していくのだろう。そうした疑問を髙井さんに投げ掛けると、「どうしています?というか、むしろ引き継いだ側ですよね?どうですか!?」と逆に質問されて、しどろもどろになりながら返答する。「その人それぞれのスタイルでやるしかないし、全く違っていて良い」と髙井さん。共感し深くうなずく私。
約100年にわたり、子どもの権利が実現された世界を目指し、活動して来られたセーブ・ザ・チルドレン。自らの力の小ささに嘆かず、地道な活動が未来を創ることを信じてやり続けることが大切なのだと、髙井さんの活動と自らの責務を重ねた対談であった。
(奥田芳恵)
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
<1000分の第373回(下)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
そして少し驚いたのが、震災から半年後に、小4から高3まで2000人以上の子どもたちに震災についてのアンケートを実施し、その全ての回答を掲載した冊子を発行したことだ。その内容は、無機質な数字の羅列ではなく、まさに当事者の肉声だ。そうした生の声を広く伝えることも大事な支援であることに思い至る。
(本紙主幹・奥田芳恵)
●ハンセン病の隔離政策を原点にHIV差別の問題に取り組む
奥田 髙井さんは、セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンに参画される前、国連人口基金でHIV感染予防の仕事に携われています。どういう経緯で、この問題に取り組まれたのでしょうか。
髙井 私は小さな頃から本を読むのが大好きで、近所の図書館の本を書棚の端から次々に読みつくすような子どもでした。そんな読書体験の中で衝撃を受けたのが、ハンセン病の患者さんが家族から引き離されて隔離された話だったのです。病気になって大事にされるのではなく、捨てられてしまうなどということがあっていいのかと思いました。
奥田 とても痛ましく、つらい話ですね。
髙井 ハンセン病は薬で治る病気となり、国の誤った隔離政策は撤回されましたが、そうした人たちを支援する仕事をしたいと思い、一時は医師を目指したこともありました。
1994年に米国の大学を卒業した後はエイズ患者支援の組織に所属し、横浜で開かれたエイズ会議では通訳などのボランティアを務めました。実はこのとき、知り合いから東京大学の大学院受験を勧められたのです。
奥田 東大の大学院では何を学ばれたのですか。
髙井 国際保健学や公衆衛生などです。このとき、受験前に必ず志望する分野の担当教官に話をしてくださいと書類に書いてあったので、東大の大代表の番号に電話したのです。国際保健学の大井玄先生にお会いしたいと。
それで、大井先生に私のやりたいこと、HIVとそれに対する差別の問題などについてお話し、先生もそれに興味を持ってくださったのですが、最後に先生から「誰の紹介もなく、直接私に連絡を取ってきたのはあなたが初めて」と言われてしまいました。
奥田 紹介なしに大学の大代表電話にかけて自力でアポを取る大胆な人は、ほかにいなかったのですね。
髙井 先生はいい意味でそうおっしゃってくださったのですが、書類にはそう書いてあるし(笑)。
それで1年目の夏には早速タイに渡って、HIVエイズをめぐる差別と偏見に関する調査研究を行いました。
奥田 すごい行動力とスピードですね。
髙井 実は、ほかにタイに行きたいという人がいなかったようで、そのおかげでそんなに早く現地での調査研究に行かせてもらえたという経緯があります。とてもタイミングがよかったんですね。
ただ私は、アカデミズムの世界だけに閉じこもるのではなく、自分たちがリサーチしたことを施策につなげ、社会をよい方向に変えていくことが重要だと考えていました。
そこで、博士課程在学中に外務省のJPO試験を受けたのです。
奥田 JPO試験というのは、どういうものですか。
髙井 JPOとは、ジュニア・プロフェッショナル・オフィサーの略で、日本政府が費用を負担して若手の国連職員を養成するプログラムのことです。私はHIVの問題に取り組んでいたので、ニューヨークの国連人口基金でそうした仕事に携わりました。
この組織のメンバーの多くは医師や博士号を持つ専門家で構成されていましたが、私は若手職員の一人としてPCを使った作業やリサーチに従事しました。私は、けっこう早い時期からPCに触れていて情報について詳しかったので、そういう仕事は得意でしたね。
奥田 国連人口基金で、ご自身がやりたかったことができましたか。
髙井 何かを成し遂げたというよりは、同じ目的のために市民団体やHIV当事者の方々を含めた世界中のいろいろな人たちと仕事ができたことは、自分にとってもとても有意義で、面白かったですね。
東日本大震災を機に子ども支援の仕事に携わる 奥田 現在のセーブ・ザ・チルドレンとの出会いは、どんなところにあったのでしょうか。
髙井 やっとセーブ・ザ・チルドレンの話までたどり着きましたね(笑)。2010年に私は国連人口基金のイエメン事務所にHIVプログラムのコンサルタントとして赴任したのですが、翌年2月に退避勧告が出てイエメンから出国せざるを得ない状況にありました。その翌月、滞在していたバンコクで東日本大震災の発生を知り、ニューヨーク時代からの知り合いで、当時、セーブ・ザ・チルドレンの事務局長を務めていた渋谷弘延さんに、何かできることはないかと連絡を取ったんです。
奥田 東日本大震災がきっかけになったのですね。
髙井 セーブ・ザ・チルドレンは、100年以上の歴史を持つ子ども支援専門の国際NGOですが、その活動は、子どもの権利を実現するための政策提言などと紛争や災害時の緊急人道支援に大きく分かれます。11年の震災はまさに緊急人道支援の対象となり、海外のセーブ・ザ・チルドレンのスタッフがたくさんやってくることが予想されました。そこで求められるのが、そのスタッフたちとの調整ではないかと思いました。いわば裏側でのオペレーションのお手伝いができるのではないかと考えたわけです。
奥田 やはり、前面に出る仕事ではなく裏方の仕事を志向されたのですね。
髙井 やったことのない仕事ばかりでしたが、結果的にはいろいろなことができたと思っています。
奥田 今後、セーブ・ザ・チルドレンとしてやっていきたいこと、そして髙井さん個人としてのこれからの思いを聞かせていただけますか。
髙井 セーブ・ザ・チルドレンは、子どもの貧困対策や子どもの権利を守るための活動をしているわけですが、なかでも子ども自身の声を聴くことが重要だと考えています。政策提言や人道支援をしていく中で忘れがちなことなのですが、当事者である子どもの意見を聴くことに、これからも力を入れていきたいと考えています。
私個人としては、HIV対策の仕事をしていたときと同様に、当事者が社会に参加するためのファシリテーターの役割を担っていきたいですね。東日本大震災のときは、子どもたちが海外の防災会議で意見を発信する場に一緒に行って、通訳兼ファシリテーターをしたのですが、そういう地域と中央をつなげるような仕事が、これからもずっとできたらいいなと思っています。
奥田 いつもみんなの世話役みたいですね。
髙井 「下町のおばちゃん」みたいなのが大好きなんですよ。けっこう、そういうところは得意ですね。昔からそうだったのかもしれませんが、そういうお節介で世話焼きな部分には自信があって、それが自分の落ち着きどころだと50年経って気づいたというわけですね(笑)。
奥田 今日は楽しく貴重なお話、ありがとうございました。
●こぼれ話
「いつ質問を返そうかと思っていました」と、満面の笑みを浮かべながら、こちらを伺う髙井明子さん。新しく人に会うのが好きで、相手がどういう人かとても知りたくなるのだそう。髙井さんと話をしていると、持ち前の明るさと、軽妙な語り口で一瞬にして心がほぐれる。おしゃべりの延長で対談が進んでいくようで、かしこまった感じがない。世界中の人たちと仕事をし、多様な人々と向き合ってきた経験で磨かれたものなのだろう。もはや言葉がなくても、全身で会話できそうなパワーがある。
「お昼ご飯はどこに行っています?」と昼食の話題で盛り上がる。
セーブ・ザ・チルドレンの東京本部事務局は、弊社から徒歩3分くらいのところにあり、ご近所さんである。それにもかかわらず、千人回峰でお伺いするまでは存じ上げなかった。お互いのお昼事情を話しながら、どんどん雑談は展開していき尽きない。お召しの赤い服には全く負けないパワフルさや明るいキャラクターは、写真からも伝わるのではないだろうか。
髙井さんはリーダーよりも二番手でサポートするほうが好きとおっしゃっていたが、間違いなく行く先々でリーダーとしての役目を期待され、適応されてこられたのではないかと思う。自らの経験と人としての魅力が多くの人を引きつけ、上手く巻き込んでいるのが分かる。
では、第二の髙井さんをどう育成していくのだろう。そうした疑問を髙井さんに投げ掛けると、「どうしています?というか、むしろ引き継いだ側ですよね?どうですか!?」と逆に質問されて、しどろもどろになりながら返答する。「その人それぞれのスタイルでやるしかないし、全く違っていて良い」と髙井さん。共感し深くうなずく私。
約100年にわたり、子どもの権利が実現された世界を目指し、活動して来られたセーブ・ザ・チルドレン。自らの力の小ささに嘆かず、地道な活動が未来を創ることを信じてやり続けることが大切なのだと、髙井さんの活動と自らの責務を重ねた対談であった。
(奥田芳恵)
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
<1000分の第373回(下)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
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