【東京・秋葉原発】産業を強くすることが日本の安全保障につながる――。そんな思いから、大企業である東芝をキャリアのスタートに選んだ檜山さん。
思いの底には、幼い頃、ハワイと日本で味わった苦い経験があった。日本人にとって、当時のハワイは決して暮らしやすい地とは言えなかった。そして、帰国した日本もまた……。英語からはずっと離れていた。しかし仕事で必要に迫られた。気が付くと流れるように次から次へと言葉が出てくる。こんなに英語で話すのは何年ぶりだろう。いつの間にか、海外部隊の最前線に立っていた。時あたかもPCが世に広まろうとする黎明期だった。
(本紙主幹・奥田芳恵)

●ハワイでは日本人であることを隠し 日本ではハワイ帰りであることを隠した
奥田 ご幼少のころ、ハワイにいらしたんですね。
檜山 父の仕事の都合で、小学校の1年生から5年半、ハワイで暮らしていました。
奥田 うらやましいですね。

檜山 みなさんそうおっしゃるんですが、実はそうでもなかったんです。
奥田 というと?
檜山 50年以上前のことですから、真珠湾攻撃の記憶がまだ残っている時代です。日本人が暮らすのは結構大変でした。日本軍に沈められたアリゾナ号という軍艦がそのまま海中に残されていて、ハワイの人たちは年に一度、船に乗ってお参りに行くんです。ただ、私はその船には乗せてもらえませんでした。
奥田 日本人だからという理由から?
檜山 日本人はみんな同じような経験をしていたと思います。日本人学校ではなく、現地の小学校に通っていたこともあって、余計にそんな経験をしたのかもしれません。普段はできるだけ日本人と悟られないようにしていました。嫌な思いをしても、5年半の間ずっと「日本に帰ればなんとかなる」と、日本に対する憧れのような思いを抱きながら過ごしていました。
奥田 帰国されて、日本の良さを満喫されたわけですね。
檜山 中学の頃に帰国しました。当時はまだ帰国子女が珍しい時代です。
社会全体も、海外のものを受け入れる素地があまりありませんでした。英語を話す人も珍しかった。日本語もたどたどしい私は「なんだこいつ」という目で見られていました。そのために、ハワイ帰りを隠し、英語が話せることも隠していました。ハワイにいたときは、日本人であることを隠し、現地の人のように英語を話して自分を守ってきた。日本に帰ったら、海外にいたことを隠して、日本人よりも日本人らしく振舞わなければなりませんでした。完全にアイデンティティーロスになってしまったんです。
奥田 切ないお話ですね。ハワイ時代のご経験は、その後の人生にどんな影響がありましたか。
檜山 特に日本の安全保障について、思いを強くするようになりました。大学で専攻したのも国際政治でした。今でも経済を強くすることが安全保障につながると、思いは続いています。

奥田 新卒で東芝に入られたんですよね。
檜山 経済を強くすることで安全保障を確立することを目指そうと思いました。大手の会社ということで東芝を選びました。配属は、情報通信システム国際事業部。部署が部署ですから、あるとき、英語を使う必要に迫られたんです。すると自然と英語が出てきた。周りもびっくりして「何だお前、英語が喋れるじゃないか」と。
奥田 まさに三つ子の魂百までですね。
檜山 おかげで急きょ、現場の最前線に出るようになりました。英語が武器だとは思いもしなかったんですが、もしかすると、これで頑張れるんじゃないかと思えるようになったんです。
奥田 どんなお仕事だったんですか。
檜山 ICT系商社のような仕事です。
英国に5年、米国に5年駐在しました。電話、通信機器、ファクス、MFP、PCをまとめて各国で販売するのがミッションです。東芝の「Dynabook」の立ち上げでは、創成期メンバーの一人に選ばれました。事業を立ち上げ、安全保障のために海外にも売っていく。猛烈に売りまくったおかげで、90年代には東芝のラップトップPCが世界一にもなりました。事業を伸ばして強くすることが、日本の産業界に役に立つと信じて、仕事をしていました。
奥田 檜山さんと言えばある意味、PCの生き字引のようなご経歴なんですが、最初からPCに興味がおありだったんですか?
檜山 特に興味があったわけではないんです。偶然、IT関係の部門に配属されて。振り返ると東芝の次はマイクロソフト、その次が現職と、キャリアはずっとIT畑なんですね。最初の配属が家電だとか医療だとか、半導体だとかであれば、それぞれその道で頑張っていたんだと思います。
●海外赴任のお供はこりごり 日本に残って選んだ全寮制高校
奥田 かなり本格的にラグビーをやられていたと伺いましたが、きっかけは?
檜山 高校の校技がラグビーだったんです。茨城県の茗溪学園というところなんですが、英国のパブリックスクールをモデルにした学校なんですよ。
全寮制で全員同じスポーツをやって、精神力を養う。朝起きてラグビーの練習をして、体育の授業は全部ラグビー。コーチも英国から招いた方でした。私自身はバスケット部だったんですが(笑)。ラグビーやろうぜといえば、全員普通にできる。クラスのチームと隣の高校のラグビー部と試合をして勝ったこともあります。
奥田 全寮制の高校を選んだのには理由があったんですか。
檜山 ハワイから帰った後も、両親は英国、米国と海外赴任が続いていました。お前も来いよと言われたんです。妹は喜んでついて行きましたが、もうあの思いは二度としたくないと、私は一人日本に残りました。祖母のところに下宿して中学に通って。それで全寮制の高校を選んだんです。

奥田 東芝と言えばラグビーでも有名ですよね。
檜山 大学でもラグビーをやって、東芝に入っても続けました。東芝府中は強豪として有名ですが、私は本社のラグビー部でした。英国に駐在していたときも、地元のクラブチームに入ってラグビーをやっていました。とてもいい経験でした。
奥田 どんな意味でいい経験だったんでしょう。
檜山 チームメンバーは、先生をはじめ医師、弁護士、職人、居酒屋の主人と、実にさまざまです。ところが、小さいころにハワイで味わった「日本人だから」というものが全くなく、普通にメンバーとして受け入れてもらえたんですね。これがすごくうれしかった。今でもクリスマスカードを交換するなど交流があります。一緒にやったチームメイトとの深い絆は続いています。
奥田 とても激しいスポーツですから、ケガなど大変じゃありませんでしたか。
檜山 実は2回、救急車で病院に担ぎ込まれたことがあるんです。最初は肋骨の骨折。2度目は靭帯の切断です。英国駐在時代でした。さすがに現地法人の社長に呼び出され「君は英国にラグビーをしに来たのか、それとも仕事をしに来たのか。どちらか選べ」と。それで、結局ラグビーはやめることにしました。(つづく)
ThinkPadを模した名刺入れ 「取引先でこれを出すと『あ、ThinkPadですね』とみなさん気付いてくださる」と檜山さん。トレードマークの赤いトラックポイントをあしらったThinkPad風の名刺入れだ。「大切なお客様のために100個限定でつくった」激レア品。「ほしいとおっしゃる方も多いので、何か考えなくては」とも。いずれダイレクトショップのラインアップに加わることになるかもしれない。
心に響く人生の匠たち
 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
<1000分の第381回(上)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
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