(本紙主幹・奥田芳恵)
●社長と直に交渉し就職先を確保!
奥田 国際基督教大学(ICU)からバークレーへの交換留学から戻る前に、多国籍企業10社に手紙を出し、最初に色よい返事をくれたのが広告代理店のマッキャンエリクソン博報堂(現マッキャンエリクソン)だったというお話でしたが、それはどんな内容だったのですか?
竹内 東京に戻ったら、ジョン・ファーレー社長に会うようにと書いてありました。9月に東京に戻って同社の人事部にその旨を伝えると、人事部長が嫌な顔をして「今年はもう新卒の採用は終わりましたからお引き取りください」というのです。そこで手紙を見せると、また嫌な顔をされて3時間待たされました。
ようやくファーレー社長の部屋に通され、「私はほかの学生とは違い、バークレーに戻って勉強するという目的を持っている。だからサンフランシスコに支社があるこの会社を志望した」とちょっと高飛車に志望動機を述べたら、面白いやつだと思われて、その場で採用を決めてくれたんです。
奥田 すごい学生ですよね(笑)。
竹内 ところが、家に帰って父に報告すると「広告代理店はうそつきで有名だ。そんな口約束なんか信用できるか!ちゃんと書面をもらってこい」と烈火のごとく怒られました。それで翌日「親父から、広告代理店はうそつきだから文書にしてもらえと言われた」と伝えると、社長は怒りで顔を真っ赤にしながらも秘書に指示して文書を作ってくれました。
奥田 就職先に、うそつきって言っちゃったんですね。
竹内 それで、1年半ほど東京でサラリーマン生活を送り、バークレーのビジネススクールに入ることになるのですが、会社員として働いている中で一つ感じたことがありました。
先輩のかばん持ちで、入社してすぐ、あるクライアントを訪問したとき、相手の広告部長から人前で突然、大声で「バカヤロウ!」という言葉を浴びせかけられたのです。先輩は平謝りで、あとでその理由を聞いてみると、約束の時間に10分遅れたからだといいます。この経験から、プロとみなされていないのではと感じました。
●コンサルタントを目指すも学究の世界へ
奥田 バークレーにMBA生として戻られてからの生活はいかがでしたか。
竹内 当初の予定通り、マッキャンエリクソンのサンフランシスコ支店で週に2、3回アルバイトをして学費を稼ぎながら、ビジネススクールに通っていました。だから、当時の成績は最悪でした。でも、ここで運命的な出会いに恵まれたんです。
奥田 それが、昨年亡くなられた野中郁次郎先生ですね。
竹内 そうです。私のMBA1年目が野中さんの博士課程4年目と重なるというとてもラッキーなタイミングでした。
野中さんがよく家に呼んでくれたのですが、学問の話は面白くない。奥様の幸子さんが「竹内君、カレー作ったから食べにいらっしゃい」ともてなしてくれるので、ついついお邪魔してしまうのですが、酔った野中さんはワインの話や戦争の話で一人で盛り上がり、なかなか帰してくれなかったんです。
奥田 学問の話が面白くなかったというのは意外です。
竹内 大学3年のとき、マッキンゼーが東京オフィスを開設し、日本初のプロのコンサルタント会社ができるという新聞記事が出て、ここに入社しようとニューヨーク本社に手紙を書きました。するとMBAホルダーにしか興味がないと門前払いを食らいました。それで、もうすぐバークレーでMBAが取れるというタイミングで再度挑戦すると、今度は「おまえは若すぎる」と拒絶されたという経緯があります。
奥田 当時は、学者よりコンサルタントに魅力を感じられていたのですね。
竹内 広告代理店での経験もあり、プロとして認められる業界で働きたかったのです。でも、マッキンゼーには断られてしまい、他に就職活動はしていませんでした。そんなとき、野中さんが博士課程に進まないかと声を掛けてくれたのです。成績が悪かったので合格するはずがないと思っていたのですが受かってしまい、4年後に博士号(Ph.D)を取得し、このときにはマッキンゼーからのオファーはあったものの、HBSで教えることを選びました。
奥田 お話をうかがっていると、野中さんとの出会いはとても大きなものだったのですね。
竹内 野中さんがいなかったら、今の自分はありません。その後、一橋大学に誘ってくれたのも野中さんですし。
奥田 大切にされている木刀(前号コラム参照)について教えてください。
竹内 これは、2010年に私が一橋大学を定年になり、マイケル・ポーターからHBSの教授として招聘されたとき、野中さんからいただいたものです。米国で真剣勝負してこいという意味か、野中さんご自身が東京大空襲で機銃掃射を受けて九死に一生を得た経験をお持ちでしたからリベンジしてこいという意味か、あるいは職人技でつくられた木刀の美しさを伝えたかったのか。ただ「これを持っていけ」とおっしゃっただけでしたが、ずっと大事にしています。
奥田 今後、どのようなことに力を入れていかれますか。
竹内 世のため人のために、何ができるかということですね。自分が成長できたのは、海外に出て、いろいろな国の人と仲良くできたからだと思っています。だから私に課せられた使命は、日本に80万人不足しているといわれるグローバル人材の育成であると考えています。
奥田 具体的にはどのようなかたちで?
竹内 3年間かけてオンラインの研修プログラムを作りました。
奥田 次代のグローバル人材の育成、大いに期待したいと思います。貴重なお話、ありがとうございました。
●こぼれ話
竹内弘高さんとの対談が決まった。マイケル E.ポーター著、竹内弘高監訳「競争戦略論I」を本棚から取り出して、思わず監訳者のあとがきを読み直した。ハーバード・ビジネス・スクール教授として米国で教鞭を執りながらも、競争活力のある日本企業が増えることに思いを馳せ、エールを送っている。独自性のある優れた戦略を実行する日本企業を応援したい、そんな熱い思いがあとがきに込められていたことを改めて知った。
竹内先生からのメール返信は英語。日本と米国を行ったり来たりの生活で、今回の対談も日本に滞在する機会を捉えて実現したものだった。
待ち合わせの「如水会館」は、かつて一橋大学が所在していた東京・神田一ツ橋にある。弊社から歩いて15分ほどの距離を、「サイン欲しいな」というファン心理を抑えながら急ぐ。
写真からも分かるように、竹内先生は笑顔がとても多くて素敵。肩書に圧倒されそうになるが、この笑顔はいろいろなものを飛び越えさせてくれる包容力がある。経営学の大家に、なんと生意気でおこがましいことを書いていることか。これさえも許してもらえそうなのが不思議。
対談を進めるうちに、その秘密も少しずつ明らかになる。さぞかし勤勉で優秀な学生時代をお過ごしになったのだろうと想像していたが、全てその時々の人との出会いで救われたと竹内先生はおっしゃられた。計画的偶然性理論というべきか、偶然の出会いや出来事への柔軟な対応が、竹内先生の人生を面白く、そして豊かにしてこられたように思う。
ただ、竹内先生の積極的な行動と突破力のようなものが、出会いを引き寄せたり、自ら近付くことができたりしたことは間違いないと思っている。その際に、この笑顔はきっと大きな武器になったに違いない。
「もう十分に、人を残し、世のために多くのことを伝えてきてくれたのではないですか」。長きにわたり学生を育て、多くの企業を経営学の側面から支援してきた実績に敬意を表し、こうお伝えすると「世のため人のため何ができるか」と、これからの未来にまだご自身の役割を問うておられた。竹内先生の目の輝きは本気だ。
(奥田芳恵)
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
<1000分の第390回(下)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。











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