「瘦せ姫」と呼んでいる「瘦せることがすべて」という生き方をする女性たちがいます。
摂食障害や拒食症などの医学的にみて瘦せすぎている女性たちなのですが、そんな彼女たちは現代女性を象徴している存在とも言えます。
その理由はいま話題の書『瘦せ姫 生きづらさの果てに』に譲るとして、著者・エフ=宝泉薫氏は、そんな「瘦せ姫」たちのなかには女子アスリートが多く存在することも指摘しています。
また女子アスリートの世界はなんと「生理」が敵になる世界でもあると……。
その真意とは?
生理が敵となる世界
女優やモデルが美のためにときに身を削るようなことをするように、別の目的でそうする一群もいます。体操やフィギュアスケート、マラソンといったスポーツに取り組む女性たちです。
日本では数年前に、フィギュアの鈴木明子が拒食症から復活を遂げ、話題になりました。最も瘦せたときの体重は、32キロ(身長160センチ)。また、同じくフィギュアでは、ロシアのユリア・アンチポワが25キロ(身長157センチ)まで瘦せ、体重は回復したと伝えられるものの、今なお本格復帰はしていないようです。
さらには、米国の体操選手クリスティ・ヘンリッチのように、拒食症による多臓器不全のため、22歳で亡くなった人も。死亡直前の体重は22・7キロ(身長150センチ)でした。『魂まで奪われた少女たち』(ジョーン・ライアン)(註1)という本には、彼女が闘病中に語ったこんな言葉が出てきます。
「食べなくてはいけないのは分かっています。栄養を取らなくてはならないのは分かっている。
彼女がそういう状態に陥ったのは、幼稚園に入る前から取り組んできた体操がきっかけでした。もともと、体重管理には厳しい世界ですし、そのダイエットは15歳のとき、審判員からこう言われたことで一気にエスカレートします。
「体重を減らさなければ、オリンピックチームには絶対に入れない」
当時、体重は41キロ弱。3年後には、ここから5キロ瘦せることになります。その過程で、世界選手権4位という好成績もあげましたが、自らの意志で引退。とはいえ、その時点では摂食障害であることを認めず「周囲の言いなりになって」生きることに「もう耐えられない」からだとしていました。
しかし、その4年後に亡くなったことで、女子体操のあり方を見直そうという機運も高まります。高度な技を優先するあまり、軽く小さく瘦せた体型を求めすぎているのではと。そこで槍玉にあげられたのが、ルーマニアでナディア・コマネチを金メダリストに育てあげ、女子体操に軽量化革命をもたらしたベラ・カローリー(カーロイ・べーラ)でした。彼が亡命して、米国にもその選手育成システムを持ち込んだことが、クリスティのような状況を招いてしまったというわけです。
もっとも、彼はこう反論しています。
「ところで、どんどん深みにはまってあんな悲惨なことになっていった当時、彼女は体操とはほとんど無縁だったんだ。もっぱら彼女自身と家族の……だったんだ。(略)こういった子どもたちの人間としての悲劇の真の責任者は親なんだ。ママにパパ、それに家族なんだよ。子どもを食わせているのは親だろ。たしかにコーチは太りすぎについて、あれこれ言うさ。しかし、それは当たり前のことで、どのスポーツでも問題にはならない」
実際、女子体操選手がすべて摂食障害になるわけではないですし、まして死亡例などほんの一部です。また、ナショナルチームのトレーナーはこんな比較をしています。現場では、男性の体操関係者が女子選手の尻の贅肉をからかうようなこともよくあるものの、
「メアリ・ルー・レットンはそれを笑い飛ばしていた。クリスティは笑い飛ばせなかった。あの子は奮起した。悲劇としか言いようがないですよ」
ちなみに、レットンもカローリーが育てた金メダリスト。
では、クリスティの性格がどんなものだったかというと——。母親はこう評しています。
「娘は、自分はダメ人間だと思っています。ずっとダメ人間だったと思っているのです。あの子は、自分を愛する、自分が好きになる術を身につけていないのですよ」
もちろん、五輪を期待されるような選手が「ダメ人間」ということはないでしょう。彼女は子供時代から「ET(エクストラ・タフ)」というあだ名をつけられるほど、猛烈な頑張り屋。さらに完璧主義者でもあり、学業成績も全優(オール5)でした。
皮肉なのは、こうした性格が両刃の剣だということです。それは優れたアスリートの資質であると同時に、摂食障害者の資質でもあるわけですから。あるいは、成功できるか悲劇に終わるかというのはコインの裏表みたいなものかもしれません。どちらに出るかは、投げてみないとわからないのです。
たとえば、マラソンの有森裕子は現役時代、ゴール後に彼女を抱きしめた母親が「こんなに瘦せていないとダメなら、もう走るのはやめてほしい」と嘆くほど、体を絞り込んでいました。ランナーとしても努力型で、粘り強く挑戦し続けたことが五輪での連続メダルにつながり、
「初めて自分で自分をほめたいと思います」
という名言を生むわけです。が、その過程で挫折し、摂食障害になって、違う人生を歩んでいた可能性も否定はできないでしょう。
こうした成功にしても、クリスティのような悲劇にしても、スポーツの世界ではその振り幅がより激しい気がします。そこには、女性がスポーツを極めようとすること自体、かなり無理のあることだということも関係しているようです。
『スポーツ選手の摂食障害』(NATA編)(註2)には、原始以来の男女による役割分担がスポーツへの向き不向きにつながっているとの指摘があります。すなわち、男性は外に出て「狩り」を、女性は中にいて「蓄え」を、それぞれ担ってきたのだと。そして、スポーツはもともと「狩り」が好きな男性向きに生まれたものだから「蓄え」が得意な女性には合わないというわけです。
そのあたりを象徴するのが「生理」の存在です。女性が体脂肪を減らしすぎたり、激しい運動をしすぎると、停止するようになっていて、男性にはもちろん、そういうことはありません。
そこで思い出されるのが、自著『ドキュメント摂食障害』である婦人科医を取材したときのことです。五輪選手団のチームドクターも務めたこの人は、一部競技の女子アスリートが身を削るかのようにして目指す体型について「本来、ふくよかで、正常に生理があって、という女性の機能を殺している」ものとしながらも、こう言いました。
「でも、うがった見方をすれば、激しいトレーニングをしている体は妊娠には向かないわけでね。防御本能として生理機能を切り捨てているともいえる。運動をするための合目的性として、月経がなくなるわけですよ。もっとも、それは女性であることの根本原則には反しているんですが」
これには正直、目からウロコが落ちました。生物として、女性としての原則には反していても、人間として、アスリートとしての目的には合っているわけですから。生理がむしろ「敵」となる世界も存在するのです。
(註1)『魂まで奪われた少女たち―女子体操とフィギュアスケートの真実』ジョーン・ライアン(時事通信社)
(註2)『スポーツ選手の摂食障害』NATA(全米アスレチックトレーナー協会)編(大修館書店)
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(つづき……。※『瘦せ姫 生きづらさの果てに』本文抜粋)

【著者プロフィール】
エフ=宝泉薫(えふ=ほうせん・かおる)
1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』などに執筆する。また健康雑誌『FYTTE』で女性のダイエット、摂食障害に関する企画、取材に取り組み、1995年に『ドキュメント摂食障害—明日の私を見つめて』(時事通信社・加藤秀樹名義)を出版。2007年からSNSでの執筆も開始し、現在、ブログ『痩せ姫の光と影』(http://ameblo.jp/fuji507/)などを更新中。