元ヤクザでクリスチャン、今建設現場の「墨出し職人」さかはらじんが描く懲役合計21年2カ月の《生き直し》人生録。カタギに戻り10年あまり、罪の代償としての罰を受けてもなお、世間の差別・辛酸ももちろん舐め、信仰で回心した思いを最新刊著作『塀の中はワンダーランド』で著しました

前回までは拳銃をめぐる白熱の司法取引の応酬。
 実刑2年2カ月! 今回から第2章いよいよ刑務所編のはじまりです!



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■すべては、諦めから始まる

 判決を終え、控訴期限の三日前までT警察の留置場に座っていたボクは、護送バスで八王子の街中を流れる浅川を渡り、新しい住居となる八王子拘置所(「八拘」)へ移ってきた。



 拘置所は留置場と違ってタバコを吸うことはできないが、その分、自由があった。しかし、三日後が控訴期限いっぱいになるボクは、刑が自然確定すれば、八拘にはおおよそ一週間くらいしか滞在することができないから、そんな自由はないに等しかった。



 八拘に移監した当日、ボクは弟分たちから差し入れられた「甘味類」に子どものように目を輝かせ、心を浮き立たせていた。だが、ウキウキばかりしている暇はない。三日の猶予しかないと思うと、味わう余裕もなく、ひたすら呑み込む。



 自然確定すれば、2日で刑の執行を告げる式書が裁判所から届く。刑の執行の言い渡しを受けると、その瞬間から懲役囚となり、甘味類を食べることができなくなってしまう。たとえ部屋にどんなにたくさんの差し入れや購入した食べ物が残っていても、すべて廃棄となってしまうのだ。



 嬉しかったのは嗜好品のブラックコーヒーを何杯も飲めたことだ。だから、ボクの60兆の細胞に染みこんだ苦みは、まるでフラッシュバックを起こしたかのように覚せいして、それからのボクを5日間、天井に浮き出た染みとにらめっこさせて、眠らせてくれなかった。

おかげで天井の染みが女の裸に見えたりしていたボクは、ときおり「ヒヒヒ」と不気味に笑ったりして、まるで覚せい剤中毒患者のようにでき上がっていた。



 時間の経過とともに、ボクの心は逮捕時のショックから立ち直っていた。人間の心は巧くできているようである。嫌なことがあると、それを回避し克服しようとする心のメカニズムが自然と働くようになっているのだ。



 八拘に移ってからのボクは、医務課から眠剤(睡眠薬)をもらわなくて済むようになっていた。これからまた、アカ落ち(獄に落ちてシャバのアカを落とすこと。ムショに入ること)していくのに必要としない眠剤なんか、飲んで呆けていられなかった。



 本当は残された家族こそ悲嘆に暮れているのに、ボクだけ現実逃避を図って眠剤に頼るのは卑怯であり、そんなものに頼るべきではなかったのだ。それだけパクられたときのショックが大きかったともいえる。



 八拘での一週間は慌しく過ぎていった。この間、奥さんと友人の悦子と弟分たちが、それぞれ面会に来てくれ、



 「ジンさん、府中刑務所に移ったらまた面会に行くね」
 「アニキ、淋しくなりますね。元気で身体に気をつけて行ってきてください」
 などと別れを惜しんでくれた。



 懲役へ行く者はすべてが「諦め」から始まる。またそれが、未来へ向かっての始まりの第一歩ともなるのである。





◼︎ どこの刑務所に行っても、仕事で他の懲役に負けることはなかった

 それから何日かして、ボクは府中刑務所へ移監された。このとき、昔、ボクが世話になった府中刑務所の当時のクリーニング工場のオヤジ(担当の刑務官)の白田がたまたま八拘にいて、その日は護送バス担当の責任者として、ボクを府中刑務所まで送ってくれた。



 若かりし頃のボクが玩具をつくる、通称「オバケ工場」と呼ばれる東部六工場で就役していたとき、ある組織の懲役とつまらないことで言い争いになって、その懲役をブッ飛ばしてしまったことがあった。そのあと、懲罰が明けて出役していった先のクリーニング工場のボスをしていたのが、この白田だった。



 出役していったクリーニング工場の担当台の前で、私物袋を小脇に緊張して「気をつけ!」の姿勢で立っていると、縮れた髪の毛が帽子からはみ出した色黒の白田が担当台からでかい身体を揺らし、大きな目をギラつかせながら、工場を見渡すように階段の下まで下りて来ると言った。



 「サカハラ、前に来い」
 「ハイ」



 ボクは返事をして身体を一歩横にずらし、階段のところで腹を突き出して立つ担当部長の前に立って顔を見上げた。



 かつて、当時の阪急ブレーブスにいたブーマーが看守服を着ているような担当部長は、そんなボクの思いをよそに、ボクの身分帳(細長い短冊のような大きさの紙に顔写真が貼ってあり、その下側に大まかな個人情報が記されている。現役のヤクザなら、「◯◯会✕✕一家」などと書かれている)を眺めながら、「サカハラ、お前、✕✕一家だな。よぉーし、面倒見てやるから、しっかり甘えて行け! 俺は◯◯会以外の人間はでぇっ嫌れぇだし、面倒見ねぇ主義なんだ!」と、工場中に聞こえるかのようなバカでかい声で咆えた。



 あとで聞くところによると、ある組織の不良たちにわざと聞こえよがしに言っていたということがわかった。

声もでかいが、身体も態度もでかい面倒見のいい担当部長だった。



 この工場には都内23区のひとつ、中野区一帯を縄張りとする、ある組織の素晴らしい兄ィがいた。その兄ィは、堅気を大切にし、率先して人の何倍も働き、男らしく務める、真の侠道精神を持つ男だった。



 見ていて惚れ惚れするその兄ィが背負ってきていた事件は、心酔する親分の厄マチ(悪口)を某組織の人間に〝切られた〟ことが発端で、その相手をうちの親分の悪口を言いやがって。殺らなければ面子が立たないと思い、至近距離から相手を撃ったのだ。



 その相手は一命を取り留めて車椅子の生活になったが、裁判で「自分にも非がある」と言って謝ったことで、同じ殺人未遂罪でもいくらか刑期が軽くなって、懲役8年の判決となった。



 そんな立派な兄ィのいる工場だから、〇〇 会のサムライたちがその兄ィのもとにまとまって、誰もが一生懸命働いていた。そんなこともあって、〇〇会は担当の信頼を得ており、担当も面倒の見がいがあったのだった。



 その一方で、嫌われていた某組織の親分は、お日様の当たるところで適当に楽をしていたから担当には嫌われ、その周りに集まる小数の不良たちは冷や飯を喰らっていた。



 ボクがこの工場に来たときに担当が咆えたのは、このような理由があったからだった。



 この当時の府中刑務所は、ヤクザヤクザした不良や、その気持ちをわかってくれるトッポイ担当看守もいて、昭和の最後の不良たちにとっては、天国といってもいいところだった。



 その白田のオヤジが、到着した府中刑務所の「領置調べ室」で荷物を抱えて立っているボクに背後から近づいてくると、



 「サカハラ、身体大事にな」



 一言寂しげに呟いてその場から去って行った。


 領置調べ室には一緒に移送になって来た6人のアカ落ち組がいた。そこで領置調べが終わると、ボクはできたばかりの東五舎二階の独居に入れられた(この当時、府中刑務所はまだ建造中だった)。



 3日ほどして、分類面接官から呼び出されたボクは、事件に至った経緯や家族構成を訊かれ、さらに、初体験はいつで、女は何人知っているか、タバコや酒はどのくらい飲むのかなど、いろいろ訊かれ、最後に「どこの刑務所へ行きたいか」と訊かれた。



 初めは府中刑務所を希望したが、府中刑務所には、兄貴殺しに関与した人間たちが務めていたことから、その願いは叶わなかった。そのあと、面接官が何カ所かパソコンで調べた結果、近場にあるどの施設にもそのときの関係者がいることが判明した。仕方ないので「北海道はいいですよ」という経理夫たちの話から、迷わず、北海道行きを希望した。



 移送になるまでの2カ月間、サウナ風呂にでも入っているような、うだる暑さの独居房で、ボクは来る日も来る日も蝉たちの声を聞きながら、袋の糊づけ作業をやっていた。袋は和菓子屋やブティックなどの物が多く、たまに有名デパートの袋などもあった。



 そんなことから、糊づけの腕前はみるみるうちに上達し、ボクの右に出る者はいなかった。たぶん……。



 決して自慢するわけではないが、ボクはどこの刑務所に行っても、仕事で他の懲役に負けることはなかった。ガムシャラに仕事をすることで嫌なことを忘れ、一日の時間の短縮を図るようにしていたから、自然にそうなっていくのだ。



 禅ではこれを「平常心」というそうだ。そして、この身がどんな境遇に置かれても、ボクはその置かれた環境を楽しむ精神でいた。嫌なことを嫌だと感じて生きるよりも、どうせ生きるなら、自分の心のあり方を少し変えて楽しく生きるようにした方が、よほど楽しく生きられると思うのだ。



 そんなあるとき、ボクは経理夫に訊いてみた。
「どうだい、最近、オレの腕前上がったろ。数も出すし、仕上げもなかなかだろ。まあ、オレの右に出る奴はいないんじゃないの」



 そう言って得意顔をしているボクに、経理夫はちょっと首を傾げてから微笑むと、
 「そうですね、サカハラさん、確かにトップですね」
 それもそのはず、あとでわかったことだが、袋の糊づけ作業は、ボク以外、誰もやっていなかったのだ。



(『ヤクザとキリスト~塀の中はワンダーランド~つづく)

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