『ミシュランガイド』とは、いったい何か? 単なるお店のガイドブックなのか? グルメな記者の提灯記事なのか? それとも……?「世界のミシュラン三ツ星レストランをほぼほぼ食べ尽くした男の過剰なグルメ紀行」の著者である藤山氏は、それが持つ世界観の奥深さを指摘する。これはただの一冊の本では終わらない。
■星の数に惑わされず、自分の舌を信じよう!
さらに、『ミシュランガイド』の読者にとって、一番大事なことをお知らせしよう。
それは、ミシュランの付けた星にただ「ああ、そうか」と甘んじるのではなく、あえて挑戦しようとすることだ。
そのためには、まず、自分の「舌」を信じること。
「うまいか、それほどでもないか」はミシュランでなく、自分で決める。その強い気持ちが大切なのだ。そうすれば、ミシュランに負けないだけでなく、自分の人生に、必ずや新たな物語が生まれるだろう。
「三ツ星だから、相当おいしいんだろうなあ」では、何事もはじまらないということを、僕は言いたいのだ。とにかく、食べてみる。
「いや、思ったよりたいしたことないな」とか「うん、なるほど、納得だ」とか、自分なりの物差しを持って、食べ歩きすることが大事なのだ。そこから、会話も生まれ、友だちもでき、人生の楽しみが生まれると、僕は思う。
どこにでもいる、しがないサラリーマンの藤山だって、20代の頃から、三ツ星を追い、食べ続けたことによって、そこに生きる自信が生まれ、こうしたミシュランに関する本書の出版という、未来への希望が目の前に開けたではないか。
もちろん、これは、料理人にも言える。
ミシュランの調査員に勝つか、負けるか、その物語を自分の「腕」と「舌」でつくる。それには、料理人自身が、三ツ星の店にひとりの客として勇気を出して行って、食べてみたらいい。
「うん、これには負けた」、あるいは、「いや、俺の料理の方が上だ」という確信を得ること。これが、それから自分の店を持つ、のちのオーナーシェフに必ずつながると藤山は思うし、毎年の世界各国で発売される『ミシュランガイド』は、そのための試金石(しきんせき)※だと言っていいだろう。
「味は、記憶だ」と藤山は思う。
美味は、理屈を超える。美味を知っている方だけが新たな美味を創造する。だから、料理人は食べなければ何もはじまらない。「ミシュラン」の評価が、料理人たちに影響を与える真の意味はそこにある、と僕は思っている。
事実、この『ミシュランガイド』の評価によって、世界中で悲喜こもごもの物語が生まれている。藤山は、耳をダンボにして、これまで、そんな話を集めてきたのだ。
それにしても、藤山のようなただの会社員から、世界中の一流のシェフまで、多くの人々にそれほどの影響を与える『ミシュランガイド』とは、いったいどんな目的で、いつ、創刊されたのか、そのあたりから、この藤山が『ミシュランガイド』の裏側を中心にご紹介していこう。
このぐらいは、一応知っていて損はないと思う。
※試金石=物事の価値、人物の力量を見きわめる試験になるような物事
■聞きたいことはやっぱりお金のこと?

僕は、母校の慶應義塾普通部(中学)に頼まれて、「三ツ星食べ歩き」の授業ををしたことがあるのだが、生徒の質問が「これまでいくら、かかりましたか?」とか、
「なんで、藤山さんはそんなにお金があるのですか」とか、実に刹那的(せつなてき)というか、現実的な質問が多過ぎて、普段、おとなしい藤山も、そのたびに思わず、ムッとしてしまう。
うーん、憤慨する自分も情けないが、これは実に、残念だ。
「ミシュランは、どうして、そうしたホテルやレストランのガイドブックを制作したのでしょうか。その動機を教えてください」とか、
「初版は、いつ出版されたのですか。誰が作ったのですか。部数はわかりますか」とか
「ここまで続いたことによる、フランスの食文化に対するミシュランが果たしてきた文化的な意義を藤山先生はどうお考えでしょうか」とか、講師の僕を喜ばせる質問は、まったくというほど出ない。ああ、わが後輩、慶應義塾普通部も少し情けないような。
見よ
風に鳴るわが旗を
新潮寄するあかつきの
嵐の中にはためきて
…………(『慶應義塾塾歌』より)
塾歌を歌っている場合ではない。
そんな訳だから、あえて、「ミシュランとは何か」について、質問はなくとも、僕の言葉で、ここに書かせてもらう。
たぶん、皆さんはこんな初心者的な知識はすでにご存じだろうと思うが、知っている方も知らない方も、ひとまずこれから僕が書く内容を改めて確認をしておいてほしい。
■ミシュラン誕生は、ダンロップのタイヤのパンクから

では、まず、『ミシュランガイド』について書く前に、「ミシュラン」という会社について僕の知っている範囲での話を書こう。
「ミシュラン」とは、周知のごとく、兄のアンドレ・ミシュラン(1853~1931)、弟のエドワール・ミシュラン(1859~1940)のミシュラン兄弟によって誕生したタイヤ会社だ。
いまや、ラジアルタイヤを発明したことで、世界有数の会社にまでなっている。ここまではご存じだと思う。だが、このミシュラン社、もともとタイヤ会社だったわけではない。
ミシュラン兄弟は若い頃、それぞれちがうことをしていた。兄のアンドレはパリで鉄骨の会社をやっていて、弟のエドワールは画家を目指して絵画の勉強をしていた。
そんなある日、ふたりの故郷、フランスの中央高地の穀倉地帯、クレルモン・フェランで遠い親戚がやっていた農機具のメーカーが倒産寸前になり、アンドレ氏に助けを求めてきた。
それも、かなり深刻だった……という。藤山が直接、ミシュラン兄弟から聞いた話ではないが、ともあれ、話を続ける。
しかたなくアンドレは自分の会社をたたみ、故郷に戻って、再建を目指したものの、業績は一向に上がらない。
それが「ミシュラン社」(1889年)だ。
その頃、ミシュラン社が作っていたのは、タイヤとは関係ない子供用のゴムボールと特許製品のブレーキ用のゴムバッド。だから、新会社といえども、特にたいした商売でもなかった。業績もなんとかかんとか。ところが、人生、何があるかわからない。
大事なのは「運」だ。
藤山は、人生はかなりの部分「運」だと思っているが、とりあえず、いまはその話はどうでもいい。
話をミシュラン兄弟に戻す。
ある時、近所の農夫が牛車の上に、タイヤがパンクした自転車とその持ち主のおしゃれな格好のサイクリスト、そして「運」を乗せてやってきた。まさに、「運」は運ばれてくるのだ。
「この人が自転車のタイヤがパンクして困ってたからよー、連れて来たんだっぺ。
城弁ではない。農夫はフランス語でそう言った。当たり前だ。
エドワールがパンクしたタイヤを見てみると、イギリスのダンロップ社が特許をとった最新型の空気入りタイヤ。この自転車、乗り心地は最高なはずだ。だが、いったんタイヤがパンクすると、これが自転車の車輪の木枠にしっかりとくっついているから修理するのが大変だった。取り外すのに何時間もかかる。
その時、エドワールの頭の中に、ポッと電球が点(とも)った。
「そうだ、取り外しの利く空気入りタイヤを作ればいい!」
それから数年後の1895年、ふたりは、なんと愛車のプジョーに、その時以来苦労して開発した自社製の取り外し可能な自動車用の空気タイヤをつけて、果敢にもパリ往復1200キロという長距離カーレースに出場した。もちろん、自らが制作した自動車用タイヤの宣伝のためだ。
ところがレース中、27回もパンクした。パンク27。
この時の全出場者がミシュラン兄弟の車のタイヤに注目をしたからだ。なぜなら、兄弟の車はパンクこそすれ、パンク前のスピードは、他車の2倍以上の速さが出ていたからであった。
これには、参加者全員が驚いた。すいすい進んではパンク。その修理の間に抜かれるが、直せば、またあっという間に追い抜いて、またパンク。
(あのタイヤでパンクしなかったら、どれだけ早く走れるんだ?)
誰もがそう思ったのだ。
そこで、兄弟は、さらなる工夫を重ね、パンクしないタイヤを研究、開発し、特許を取得したから、なんと次の長距離レースでは出場者のすべての車のタイヤがミシュランになった。まさに、ダンロップのタイヤをつけた自転車のパンクが、世界の「ミシュラン」をつくったのだと言っていいだろう。
ちなみに、ダンロップはイギリスの獣医の名前で、息子が自転車の車輪を壊した時に、動物の内臓にヒントを得て、世界で初めて空気入りタイヤを木枠にくっつけたタイヤを発明した。どうでもいいか。
(次回へ続く)