と言い、そうさせたのである。
ただ、日本はまだ彼を必要としていたかもしれない。抜群の政治力を持ち、当代きっての知米派でもあったこの男があと10年でも生きていれば、外交の方向性も多少は変わっていたのではないか。
原が亡くなった3週間後、皇太子が摂政に任命された。大正10(1921)年11月。昭和の治世は事実上、ここから始まった。
■1922(大正11)年アイヌ文学とひきかえに、夭折したバイリンガル少女知里幸恵(享年19)
日清日露の戦勝と第一次世界大戦での「漁夫の利」によって、世界の列強入りを果たした大日本帝国。しかし、国内には滅亡の危機に瀕する民族がいた。アイヌだ。
北海道で古くから独自の文化を築いてきたが、和人の搾取や迫害により衰退。文字を持たず、農耕を行なってこなかったことで差別され、民族としての誇りも失われつつあった。そんな状況を少なからず変えたのが、大正12(1923)年に出版された『アイヌ神謡集』(知里幸恵)である。

知里はアイヌの天才少女で、学校ではどの和人よりも賢く、15歳のとき、言語学者の金田一京助に見いだされた。これを機に、祖母や叔母が口承していた詩を翻訳する作業に取りかかり、11年5月に上京。アイヌ語にも日本語にも長けた卓越した能力で、この本を完成させ、アイヌの文化、そして民族性への評価につなげたのだ。
しかし、彼女はその成果を自分の目で見届けることができなかった。上京から4ヶ月後、まさに本の校正を終えた夜に19年の生涯を終えてしまったからだ。死因は心臓麻痺。14歳ごろから心臓を患い、死の11日前には僧帽弁狭窄症の診断を下されていた。故郷に結婚を誓った恋人のいる彼女は、診断書に記された「結婚不可」という言葉に絶望したという。