「誰も本当のことを言わないから、ブスで馬鹿な私が本当のことを言う!」と元祖リバータリアン(超個人主義的自由主義)でアイン・ランド研究の第一人者である作家・藤森かよこ氏がペンで立ち上がった。
 氏のものした『『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。

(KKベストセラーズ)は4刷を超え(以下、「馬鹿ブス貧乏」と表記)、多くの女性を勇気づけた「革命の書」である。アラフォー読者からの要請が殺到。今月21日より、第2弾『馬鹿ブス貧乏な私たちを待つ ろくでもない近未来を迎え撃つために書いたので読んでください。が出版される。
 そこで、今回、藤森氏のご厚意に預かり『馬鹿ブス貧乏』の長いまえがきから第1章まで再構成し、「若いほど」役立つと低スペック女子が37歳までにやるべき本当のことを転連載で教えてくれる。まさに「馬鹿ブス貧乏」で生きるしかない女性が最高に幸せになる本当のサバイバル術である!



■著者の紹介——女だから損する気はさらさらない!

33歳でやっと正規雇用された意識低い系の私の履歴(藤森かよこ...の画像はこちら >>
 



 著者の藤森かよこについて紹介する。



 私は1953年に愛知県名古屋市に生まれた。日本でテレビ放送が始まった年に生まれた。



 私は、高校生の頃から、「女だからという理由で損をする気はさらさらない」という意味でのフェミニストだった。自分で稼いで、自分で稼いだ金を好きなように自分のために消費して好きに暮らしたいだけだった。



 根が非常に怠惰なので、ほんとうは、好きなように消費できる優雅で気楽な類の家事をしなくていい高級専業主婦になりたかった。



 しかし、高収入の安全確実なエリート男を夫として絶対に獲得できるような家柄に生まれたわけではない。

「玉の輿(こし)に乗る」ことができる美貌も持ち合わせていない。



 清貧で誠実な男の専業主婦となり清く正しく美しく慎ましく家事に励む生活をする気は全くなかった。私は清貧にも忍耐にも興味がない。家事はなるべくしたくない。そんな能力も体力もない。



 ならば、自分で働いて稼いで食っていかなきゃ。



 とはいえ、男女同一労働同一賃金の職は、私の若い当時は教員か医師か弁護士か官僚ぐらいしかなかった。当時の私は言語道断(ごんごどうだん)に無知であり、男女同一労働同一賃金の職種を、これら以外に知らなかった。



 これらの職種の中で、何とか私でも就けそうな可能性のある職は教員だった。義務教育の教員は無理だった。子どもには興味がない。保護者と関わるのも真っ平御免だった。

残るは高校教員のみ。



 それで大学は地元の南山(なんざん)大学の文学部英文科に入学した。当時の南山大学文学部英文科(今はない)の偏差値は60ぐらいだったろうか。愛知県の県立高校の英語教員には南山大学出身者が多かった。私には、地元の国立大学の文学部や教育学部に合格する学力はなかった。



 有名国立大学か慶応大学か早稲田大学に行く以外は上京させないし、浪人も駄目と父に言われていた。大丈夫だよ、受かるはずないから。



 ところが高校の英語教師になるつもりだったのに愛知県立高校教員採用試験に落ちた。高校での教育実習の経験から、私は高校教員の職が勤まりそうもないと察知していた。だから落ちたショックはさほどなかった。



 しかし、ならば、さてどうしようか。



 すると、大学の英語教員になるという案が浮上(ふじょう)した。

県立高校の英語教員の採用試験は狭き門だったけれども、大学の英語教員になろうとする人間の数は少ない。ならば狙(ねら)い目だ。



 大学の一般教養課程では英語は必修だ。大学の教員なら、授業があるときだけ出勤すればいいはず。毎日午前9時から午後5時まで働かなくていいはず。ラッシュアワーの電車に乗る必要はないはず。夏休みもあるはず。大学の教員ならば、職場に自分の研究室があり同僚と顔を付き合わせる必要はないはず。世間話しないですむはず。偏屈でいいはず。



 ならば大学教員になろうと私は心に決めた。





◼︎33歳でやっと正規雇用

 1960年代や70年代は大学の新設も多かった。

英語教員の採用が比較的多かった。当時は、インターネットによる英語の自学自習システムもなかった。スカイプでの英会話教育もなかった。英語専門学校へのアウトソーシングなどの外部に英語授業を委託して人件費を抑えることもなかった。どこの大学でも教養課程の英語教師を必要としていたので、雇用はあった。



 大学の英語教員になるには少なくとも修士号の取得が必要だと知った。だから母校の大学の大学院文学研究科英米文学専攻(今はない)の修士課程に進学した。



 大学院では、英語教育にも文学研究にも興味はなかったので、研究の真似事をするのに難儀した。論文なるものを書くのに非常に苦労した。



 論文を書くために買いまくり集めまくった書籍の山を眺めるたびに、「これだけ投資したのだから、絶対に元を取らねばならない!」と自分を励ましながら、どうでもいい論文を書き、どうでもいい研究発表を学会で重ねた。



 博士課程で必要単位を取得した後は非常勤講師を何年か続けながら、いくつかの大学に応募した。落選続き。

地元の大学の英語教員は地元の名古屋大学出身者のひとり勝ち。もしくは東京や関西の有名大学出身者が有利。そんなあたりまえのことも知らなかった私であった。



 大学院の英文学の教授は「女の子は消費のための勉強をするべきであって、就職のことなど考えないように」と言った。失せろ、死ね、馬鹿。



 しかし、ソ連のチェルノブイリで原発事故があった1986年、私は岐阜市立女子短期大学にめでたく採用された。



 私は最終面接まで残ったふたりのうちのひとりではあったが、実のところ選考委員会は私ではない筑波大学出身の候補者を選ぶことを決めていた。当然だ。ところが、面接前日にその候補者が東京の大学に採用された。で、自動的に私が岐阜市立女子短期大学に採用された。奇跡が起きた!



 このときの喜びは忘れられない。これで健康保険も年金も大丈夫だ!



 私の大学院時代の後輩の女性のひとりは37歳で自殺している。

「年金のこと考えると心配で夜も眠れなくなるんです」と言っていた。私は33歳で、やっと正規雇用の職に就けた。



 とはいえ公立の女子短大なので待遇は悪かった。名古屋から岐阜まで通うのも大変であった。長くいてもしかたないと私は思った。



 2年後に名古屋市内の金城学院大学短大部に応募して、1988年に採用された。ここでの採用は、選考委員にとって、地元で1番の「名古屋大学出身者より馬鹿だから扱い易くおとなしいだろう」と値踏みされてのものだった。どんな思惑(おもわく)からであろうと採用されれば、こちらの勝ちだ。これで年収は2倍になった。



 とはいえ安心はできなかった。当時から短期大学の消滅が予想されていたので、いつまでも短期大学の教員では職を失う恐れがあった。私は、あちこちの四年制大学に応募した。落選続き。やっと、8年後の1996年に大阪の桃山学院大学に採用された。43歳だった。



 桃山学院大学は労働条件も非常によく、かつ学生とも楽しく過ごせた。上司や同僚にもややこしいのは少なかった。非常に非常に多忙だったけれども、充実した日々だった。



 しかし、年齢も50代半ばにさしかかると、ファイトが湧(わ)いてこなくなった。競争の激しい関西地域の中堅私立大学での教育サービス労働や、学内での教務関係や入試関係の仕事や、高校への出前授業などの営業活動をするのに疲れてきた。



 2008年には、すでに教師としてのやる気は消えていた。しかし、50代半ばで無職も困る。年金のこともある。



 そんな頃に、2011年度より開設の広島県の福山市立大学に移らないかというお話をいただいた。場所を変えれば、やる気のなさに火がつくかもしれないと私は思った。



 奇しくも、あの3月11日に大阪から広島県福山市に移動した。しかし、やはり無理だった。やる気もファイトも回復しなかった。健康問題も出てきた。定年退職を1年早め、2017年3月に退職し、今日にいたる。



 これが私の履歴です。





(第5回につづく『馬鹿ブス貧乏で生きるしかないあなたに愛をこめて書いたので読んでください。』より再構成)

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