『オレたちひょうきん族』『笑っていいとも!』『SMAP×SMAP』等を手がけ、たけし、タモリ、さんまのビッグ3を始め多くのタレントをテレビの人気者にした元フジテレビの佐藤義和さんが、昨年10月に移住先の沖縄にて肺がんで亡くなっていたことが12月にわかった。
佐藤さんによって『ライオンのいただきます』でABブラザーズとしてデビューし、作家転身後には氏のインタビューを何度か行ない、沖縄に移住後も懇親のあった松野大介が、佐藤さんから聞いた話を中心に功績を振り返る。
すでに2ケ月が経ちタイムリーな記事ではないかもしれませんが、気持ちの整理がついたので書かせていただくこととなりました。
佐藤さんは71年にフジテレビの子会社フジポニーにバイトとして入り、テレビマン生活をスタートさせ、3年後の74年に同会社の正社員に。
当時フジテレビはバラエティーが弱い。
「視聴率で民放4位。『振り向けばテレビ東京』って言うくらい後ろにテレ東が迫っていた」(佐藤さん/以下同)。
76年に『日曜テレビ寄席』でディレクターに昇格し、ツービートをキャスティングする。
「忘れもしない9月12日に出演。これがツービートのテレビ初出演かもしれません。若手漫才は『田園調布に家が建つ』というフレーズのセント・ルイスが売れていましたが、私は演芸場に通いツービートを観ていた。他の漫才師と違って異質な光を放っていました」
そして80年に入ると、佐藤さんは「新しい」バラエティーを次々とヒットさせていく。
80年代に頂点に立つフジの躍進は佐藤さんはじめ若いディレクターの成果でもあるが、会社的には制作部門を任せていた子会社にいる多くのスタッフをフジテレビの社員にした改革も根底にある。「楽しくなければテレビじゃない」のキャッチフレーズと目玉のマークを全面に押し出したフジの時代の始まりだった。
◆【漫才ブーム】
80年の4月の改編期。
「プロデューサーにきた特番の企画書が『東西人気寄席』って古くさいタイトル。私が演出をやるので、いくつか変える条件を出した。まずタイトル」
『THE MANZAI』と、ネタ番組でアルファベットが使われた最初の番組だろう。
「ベテラン漫才師じゃ数字が取れないから芸人を若返らせる」
星セント・ルイス、ツービート、B&B、紳助・竜介‥‥と佐藤さんがキャスティング。
「スタジオセットは電飾ギラギラしたディスコ風」
従来の演芸番組と思ってスタジオ入りした若手芸人たちはセットを見て「なんだこれは!」と驚き、「今までの演芸番組のようにやってちゃダメだ」と思ったという。「芸人たちに緊張感を与える考えだったんです」という佐藤さんの狙いがあった。
さらにお客さんを若者にした。
「笑い声がすぐ起こるから、漫才師たちのしゃべりのテンポが速くなり、新しい笑いを生んだ」
大学のお笑いサークルにも声をかけて客席を埋めたという。
「演芸番組にありがちな司会者をなくし、小林克也さんのナレーションで『ツービート!』と紹介したのも画期的」
この番組をきっかけに漫才ブームが起こり、寄席中継的な作りからネタ番組へとガラリと移り変わった。
佐藤さんが変えた、こういったいくつかの「新しさ」は、40年経った今のネタ番組にも見られる光景ではないか。
◆【昼の改革】
『THE MANZAI』で人気者となった若い芸人たちを起用して作った『笑ってる場合ですよ!』でもタブーを破った。
ワイドショー一色の昼12時に芸人のバラエティー。しかも放送は局ではなく、ブティックや飲食店が入ったビルの新宿アルタスタジオ。
「子どもから若者まで大勢観に来たし、番組は寝坊した大学生や水商売のおねえちゃんとか昼にテレビを観なかった人たちを開拓できた」
FMラジオ好調もあって70年代後半にテレビ離れした若者が、テレビに戻ってき始めた。同枠での新宿アルタでの生放送は長寿番組『笑っていいとも!』へと続くが、佐藤さんたち5人の「ひょうきんディレクターズ」は“土8戦争”と呼ばれる『8時だヨ!全員集合』との笑いの闘いも同時進行させる。
◆【ひょうきん族】
81年、特番から『オレたちひょうきん族』は始まった。
「私は『ドリフが舞台の生放送なら、こっちはコントを編集で繋いで作ろう』とディレクターたちとアイデアを出し合いました。映画や歌番組のパロディが主でした」
ここでもタブーを破る。コント収録で芸人がアドリブの台詞を言った時だ。
「喜劇役者と違って漫才師は『本番は台本と違うこと言うぞ』と芸人気質が働くから、アドリブをやったら、カメラさんと音声さんが笑っちゃって、笑い声が録音されたんですよ。スタッフは絶対笑ったらいけないから、普通は撮り直すけど、私は『スタッフの笑い声っていいじゃん!』と閃いた」
それからはアドリブOK。さらにスタッフも笑ってOK。スタッフの笑い声を録音するマイクを何本も用意したという。
『ひょうきん族』以降、ADが笑い声入りのバラエティーが氾濫した。
(おもしろくない時もスタッフがわざとらしく笑う番組も増えてしまったが‥‥)
翌82年には『8時だヨ!全員集合』を視聴率で抜く。自身もゲーハー佐藤の名で「ひょうきんディレクターズ」として「ひょうきんベストテン」コーナーに登場。
番組は89年に終了するが、ディレクターたちで「やめよう」と決めたという。
「パロディの笑いは日本では価値が低かったけど、『ひょうきん』で上がったから、番組の役割は終わったのかな」と、プライベートな時に話してくれた時があった。
漫才ブームのメンバーにつづき、たけし、さんま、片岡鶴太郎、山田邦子、赤信号と、『ひょうきん族』で人気者になった芸人たちが他局でも大活躍した。
佐藤さんはプロデューサーとしても新しい番組と、新しい芸人を見出していく。(後編へ)
【著者プロフィール】
松野大介(まつの・だいすけ)
1985年に『ライオンのいただきます』でタレントデビュー。その後『夕やけニャンニャン』『ABブラザーズのオールナイトニッポン』等出演多数。95年に文學界新人賞候補になり、同年小説デビュー。著書に『芸人失格』(幻冬舎)『バスルーム』(KKベストセラーズ)『三谷幸喜 創作を語る』(共著/講談社)等多数。沖縄在住。