75年前の今日、1946年2月3日は、日本に蔓延することとなった「やるやるサギ」のはじまった「残念な」日でもあった。戦争に負けるということが本当にどういうことか、その問いかけすらもが、「忘却」に追いやられる分水嶺となった日でもある。
美しい(川端康成)日本でも、あいまいな(大江健三郎)日本の私でもない。もし、村上春樹がノーベル文学賞をとった時、そのスピーチで「日本」にどんな形容詞をつけるだろう? やはり「やれやれ」な日本なのかニャン⁉️
◼︎日本の非軍事化と民主化——アメリカのために
75年前の今日、1946年2月3日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の最高司令官ダグラス・マッカーサー(敗戦日本は彼を「マ元帥」と呼んだ)はタイプ打ちのメモを部下のホイットニー民政局長に渡した。マッカーサー・ノートとも呼ばれる1枚ペラにはマッカーサー三原則が記されていた。
①天皇は国家の元首(注:世襲天皇制の維持)
②国権の発動たる戦争の廃止(注:将来にわたる軍隊の不保持、交戦権なし)
③封建制度の廃止(注:皇族を除き身分世襲無し)
三原則の目的は二つ。日本の「非軍事化」と「民主化」だった。
1945年夏、米国史上空前の全権を引っ提げて敗戦日本にやってきたマ元帥の最重要任務は、「反ファシズム戦争」だった第二次世界大戦の、アジアにおける清算を完了することだった。
軍国日本を根絶やしにして、アメリカによる、アメリカのための現実的平和=安全保障を極東から構築することだった。前近代的軍事国家のまま、半世紀にわたって疾走し、果ては暴走した帝国を完全に解体し、欧米型に近似する民主主義の拠点として再建するため、日本のど真ん中に、理想主義に貫かれた平和憲法の楔を打ち込んで、武装解除を恒久化する狙いがあった。
世界を震撼させた帝国陸海軍154個師団、700万名の兵力は、終戦を待っていたかのように、非武装化はあっけなく進んだ。
軍民ともに疲弊しきった日本において、嫌戦はすでに規範であり、「国家事業としての戦争」を永久に忌避させることで、戦勝国と敗戦国の利害は一致していた。それを織り込んだ新しい憲法をつくることは、最優先事項だった。
4ヵ国に直接統治されたドイツと異なり、アメリカが日本政府を使う間接統治だった。
◼︎その時、鶴の一声で・・・たった1週間で
鶴の一声、経験豊富な弁護士出身の軍人で固めたGHQ民政局は、わずか1週間で憲法草案をつくった。エンペラーは元首ではなく、国家と人民統合のシンボルとされた。
310万人の日本人を亡くした戦争とジェノサイド(大量殺戮)が終わって、半年も経っていなかった。
日本を軍国主義と封建制度から「解放」してくださったマ元帥閣下の前に、指導者も新聞も自らパンツを脱いで服従した。天皇の赤子たちも征服者を歓迎した。占領政策は人権を筆頭に、法制度、政治制度、社会制度の全領域に及んだ。
20万人以上が公職追放に遭い、大中小80社を超える財閥が解体された。
労働組合がつくられ、組織労働者の数は爆発的に増えた。
農地改革は先祖代々の寄生地主の土地所有を引っぺがし、社会主義革命並みの過激さで地主制度を亡ぼした。
女性参政権は戦後初の総選挙で39名の女性国会議員を誕生させた。
不眠不休で働いて、闇市で物資をつかみ、飢餓寸前の敗戦期を生き延びた。占領3年後、「逆コース」と言われた方向転換にあっても、右と言われれば右を向いた。
朝鮮戦争時、マ元帥が本国を無視して暴走し、トルーマン大統領に解任されたときも、新聞は「理由の如何を問わず残念」と名残り惜しんだ。
守護神は二千日(5年8か月)君臨した後、日本国民にグッバイも言わず去った。日本人は日本にとって不都合な記憶のゴミは分別もせず、路傍に捨てて、忘却した。
改憲と護憲、反米と親米という単純化で思考停止のまま、論理と向き合うことなく、情緒に身を任せ、日本は年老いた。焼け跡の中、借り物ともらい物の素材で建てた安普請も、誰も攻めてこなければ、マイスイートホームだ。核の傘に守られて安心、耐震補強も万全のはずだ。永遠の敗戦、永久の占領、永劫のお花畑と言われても、気にはしない。便利な回遊動線をめぐり続ける国民と、いつまでも責任をとる気の無い政治に議論はナシだ。年年歳歳、広がる格差も固定していくこの国で、マ元帥がこだわった人権、公平は大丈夫か。答えをくれたマ元帥は、もういない。
◼︎国家開闢以来初の占領に対して、日本人は従順だった

マ元帥とGHQは、日本政府のトップに対して次々と「憲法の自由主義化」を求めた。お育ちの良い御仁ばかりの敗戦リーダーたちは、無自覚、無責任、無方針を集団で引き摺っていた。
新しい現実への認識は希薄だった。
明治憲法の文字だけいじった政府案を新聞にスッパ抜かれて、GHQを呆れさせた。1946年2月13日、GHQは一週間でつくったマッカーサー草案を政府に突き付けた。政府首脳には抵抗する意思も能力もなかった。それをもとに大急ぎで「憲法改正草案要綱」を策定し、同年3月6日に発表した。
マ元帥は事前にアメリカ本国に内容を知らせてもいなかった。
極東委員会(ソ連を含む連合軍諸国11か国)はマッカーサーにブレーキをかけようとしていたが、タッチの差で逃げ切られた。国民は、急進的な内容に驚いたが、腹を満たせない憲法に興味はなかった。その日のメシを食うことで精一杯だった。正座して玉音放送を聞かされ、直立不動の現人神とポケットに手を突っ込んだマ元帥のツーショットを見せられた時点で、幻想は幻滅に転じていた。小学生ですら事態の何たるかを受け止めていた。すでに大人たちは「マ元帥!」と崇め、慕い、従っていた。
ウダウダしていた政府も一転して、サクサク作業を進め、同年11月3日、日本国憲法が公布された。マ元帥の思想的確信と豪腕なくして、決して実現しえなかった早業だった。
マッカーサー草案をGHQに手交されて泡を食った一人、松本烝治国務大臣は、8年以上たった1954年7月の憲法調査会で「天皇の身柄をとられて脅された」「押し付けられた」と演説した。これが「脅迫説」として拡散した。
外務大臣としてその場にいた吉田茂は「覚えてない」、吉田側近の白洲次郎も「記憶にありませんね」と言った。マ元帥を後ろ盾に首相となった吉田茂は、虎の威を借りて走り、首相を5回も務めて一時代を築いた。その孫(麻生太郎)までが、のちに首相となった。
マ元帥も米国政府も、戦後日本統治のために、天皇の戦争責任を問わず、天皇制を維持することは織り込み済みだった。戦後日本は、すでに戦争中から、アメリカによって設計されていた。脅迫もへったくれもなかった。日和見主義者たちは、マ元帥の絶対権力を己れのためにフル活用した。
◼︎「改憲」「護憲」という不思議の国の出来レース
GHQに一蹴された政府案に先んじて、1945年12月26日、民間での憲法制定準備を目的に結成された私的グループによる「憲法草案要綱」 が官邸に提出されていた。マッカーサー草案は、これをおおいに参考にしていた。
このことを裏付ける文書は1959年になって表に出た。この「要綱」は国民主権を採用しつつ、「国家的儀礼を司る天皇」制の存続を認めていた。
タカ派をウリにして101歳で大往生した中曾根康弘元首相は生前、「あのころの日本人が出した自主憲法の草案のナンバーワン」「マッカーサーから案をつきつけられる前に草案を出していたところに意味があり、先見性があった」と言っている。
情報が早い者、仕事が速い者が先手を打つ。
日本国憲法の思想と枠組みはGHQがまるっと作文したわけではない。日本人が予め構想したものだった。押し付け憲法という紋切型プロパガンダが功を奏している日本では、これも忘れられた。
「要綱」の最後には現憲法とほぼ同様の憲法改正条項があった。ただし、「この憲法公布後遅くも10年以内に国民授票による新憲法の制定をなすべし」とも書かれていた。日本国憲法は言わば占領による暫定措置で、1955~56年までには、国民投票による新たな憲法制定を想定していた。
歴史の皮肉がまたここにある。
1955年の保守合同によって、自主憲法制定を綱領に掲げる政党が結党された。以来、自由民主党はつねに改憲論を主唱、ほぼ一貫して政権の座にあり続ける。護憲を売り物にした社会党は消滅し、立憲を党名に冠する政党がいまその空白を補完する。
超長期政権を担う最大政党が自らの憲法に疑義を呈し続け、万年野党が憲法の美徳を訴え続ける。「不思議の国の出来レース」となって、65年が過ぎた。これもまた、憲法のもたらした結果かもしれない。
◼︎敗戦76年、当時12歳の少年はまだアメリカに居候しているのか
改憲だ護憲だと紅白歌合戦に興じながら時は過ぎた。
日本を永久に封印するための仕掛けだったという者もいれば、おかげで恒久平和が保たれてきたという者もいる。
マ元帥以来の米軍のおかげだという事実は棚上げされたままだ。
いずれにせよ、今年11月に公布75周年を迎え、現存する世界最古の憲法は非改正の最長不倒記録を更新する。
迫りくるカタストロフィを予告しながら現世利益を追求する終末思想団体がある。やる気の無い革命の旗を掲げて自己保存する革命組織もある。
しかし、憲法改正を半世紀以上叫び続け、メシの種にし続ける政権政党は、世界広しといえども珍しい。
これは日本に蔓延する「やるやるサギ」の一つなのか。他方、憲法を念仏として信仰にまで高め、お布施を募る護憲政党は「坊主丸儲け」の類なのか。マ元帥は大恩人だったのか、ドン・キホーテだったのか。
改憲派も護憲派も、敗戦期同様、生きることに精一杯の興味ナシ派も、失われ続ける日本に直面したまま、ライジングサンは夕陽のように見えている。
1951年、マッカーサーはアメリカ議会で証言した。
「現代文明を基準とするならば、我ら(アングロサクソン)が45歳の年齢に達しているのと比較して、日本人は12歳の少年のようなものだ」と。
ジャパンはいま、いくつになったのか。
平均年齢は48.4歳で世界1位だ。女性の平均寿命は87.5歳だ。せめて20歳=成人くらいにはなったと思いたい。
アメリカの屋根の下に居候している間に世界は変わり続けた。
そろそろパラサイトシングルを卒業して、一人暮らしをしてみたい。
新憲法という新居に入りたければ、日本国憲法という重要事項説明書を一言一句、読まねばならない。マ元帥が建造した不沈空母ニッポンは、砲弾一発受けることなく、極東の海に浮かぶ。上空では米軍機が平和を守る。
◼︎いまだから叫びたい。がんばれ!ニッポン‼️

その平和あってこそのスポーツだ。
1940年の東京オリンピックは、キナ臭い空気の中で返上となった。2020-21年の東京オリンピックは、望まれない空気の中で立ち往生している。三度も選ばれながら開催率33.3%となれば、東京は残念な都市として「やれやれ」な歴史に刻まれる。
いや、いまこそ、いまだから叫びたい。がんばれ!ニッポン‼️
失われた30年は40年目に入り、就職氷河期も永続化する。
若い日本人ほど格差が広がっている。
マ元帥の遺産の一つとも言える大企業の労働組合は、いまだに「春闘」という珍妙な儀式を続けている。非正規雇用、失業者、無業者は、低所得の階級(アンダークラス)を生成している。生まれと育ちが、そのまま次世代へと受け継がれる。
自民党議員の3~4割、閣僚の半分以上が世襲議員となったいま、特権階級も貧困層も、その身分が相続される国になった。
中国の著しい台頭を予見したマ元帥も想定していなかった日本だ。
このまま国力は下がる一方で、外貨も稼げなくなれば、愛国者の自己認識すら変わるだろう。益々お先真っ暗な日本人に対して「たたき上げ」が自慢の現首相は、しれっと言う。「最終的には生活保護がある」。
いや、その原資すらなくなる。
去る1月20日、第46代アメリカ合衆国大統領に就任した「失言王」ジョー・バイデン閣下は、副大統領時の2016年、「日本が核保有国にならないように、我々が憲法を書いた」と言った。ただでさえ誤解に満ちた世界は、日本国憲法になど興味ナシ。
自分の憲法の始末は、自分でつけるしかない。
幸か不幸か、主権はまだ平民ジャパンにある。