「本を読むとはどういうことか?」「もっとたくさんの本を読めるようにするにはどうしたらよいか?」そんなテーマの本が出版市場を賑わしている。多くの人が今、何か精神的な支柱を読書に求めている表れなのではないだろうか。
■なぜ人は本を読むのか
なぜ本を読むのか。
そうした疑問を、あなたは感じたことがあるだろうか。
もしも感じたことがあり、そのことについて考えたことがあるのなら、それだけで君の人生は何ほどかのものだ。身近なことについて、根本的に考えるということはなかなか難しいものだし、さらに自分なりの答を得るのは大変に難しい。
だが、大部分の人間は、私もそうだけれども、そういった問いを持つことなく、書店で本を手に取り、頁に視線を走らせ、そして読み終わるなり飽きるなりすれば、放りだしてしまう。本とのつきあいのなかで、強い印象を受けたり、考えさせられたりはする。その印象がきわめて強いものならば、いつまでも記憶に残っていたり、人に印象を伝えたくなる。そうでなければ、何となく面白かったとか、悲しかったといった感触だけが残って、じきに忘れてしまう。ほとんどの人にとって読書とはそういう経験だろう。楽しみ、暇つぶし、あるいは多少の教養と情報収集のために、書物を手に入れ、頁を繰る。
にもかかわらず、あなたがまた書物を手にするのはなぜなのか。
楽しむためならば、情報のためならば、もっと気の利いたものがたくさんあるのに。テレビ、ビデオ、ゲーム、インターネット……本は数千年前に作られた文字と紙、それに五百年前に発明された、印刷技術という折り紙つきの旧弊なテクノロジーの産物である。
本などは、今になくなるという予測が、マスメディアに溢れているのも無理からぬことだ。にもかかわらず、あなたが本を手に取るとしたら、それはなぜなのか。
あなたが、今日の世の中では、時代遅れとしか云い様のない感性しか持っていないからなのか。
それともあなたが、書物にしかない魅力に、魅力という言葉では示しきれない力に気づいているからなのか。
何を本は提供してくれるのだろう。
その提供してくれるものを、小説にのっとって考えてみることにしようか。
それは、ドラマであり、情景であり、感情の経験だ、と云うのは正しい。そうしたあらゆる要素が入った、一つの物語的な世界に入ることだ、と云うのはもっと正しい。
けれども、それならば小説を読むということは、映画を見たり、ゲームをやったりすることと同じなのだろうか。
確かに映画も、ゲームも、一つの物語的な世界を体験させてくれる。
しかも、小説よりも、数段サービスたっぷりに。映画には具体的に映写される情景がある。光があり、影があり、人々の顔があり、姿がある。声があり、物音があり、音楽がある。さらにゲームならば、あなたはその世界自体にかかわることができる。それなのに、なぜあなたは本を読むのか。
■想像をすることは、ある種の能力である
書物、この貧しいもの。
だが、書物にしか、小説にしかないことがある。本にしかない豊かさが、自由があるのだ。
小説の豊かさとは、以下のようなものである。
例えば、小説のなかであなたが、「青い花」という言葉を読んだとしよう。
その時にあなたは、どんな花を思い浮かべるか。
それは、人によって千差万別に違いない。
その違い、つまり自ら思い浮かべ想像することに発する違いが、小説の豊かさをなしている。
映画にも、ゲームにも、あるいは漫画にも、花がでてくる。
だが、そこではすでに花は、一つの映像として固定されて、あなたに提供されるのだ。
たしかに、同じイメージからであっても、抱く印象や感情は千差万別だろう。
にもかかわらず、その姿自体は、あらかじめ作られたものとして、あなたに提供されるのだ。
小説において、花のイメージはあなたに委ねられている。
それこそが、小説の自由であり、可能性だ。
たしかに、小説のなかでは、あなたはゲームでのように、「自由」に世界のなかを行動することができないかもしれない。
しかし小説においては、あなたはその世界自体のあり様を、光の具合を、風の匂いを、樹々の佇まいを想起することができる。それこそが、本当の「自由」ではないだろうか。
たしかに、今、この自由、つまり世界全体を想起する自由は、評判が悪い。
一々、想起をすること、感じ取ることは面倒くさい。
それ以前に、そうした想像をすることは、ある種の能力である。
「花」という言葉から、何が思い浮かぶか、によってあなたが生きてきた人生の幅と重さが問われるのだ。あなたがどのような人生を歩いてきたのか、つまりは親や教師やテレビといったメディアが提供してくれる範囲で受け身の人生を歩いてきたのか、自ら認識し、感じ取り、体験し、語る生き方をしてきたのか。どれだけたくさんの人と会い、あるいは場所に行ったのか。
そのような能力を磨くのは面倒くさい。自分で考えたり、想起したりしないですむ様に、圧倒的な画像や、音楽や、操作感覚で圧倒してほしい。
あなたが、そう考えるのも無理はない。それが当世流行の考え方であるからだ。
しかし、それは「面白い」かもしれないが、つまらない考え方だ。
なぜなら、生きることの面白さ、その堆積がすべてこの自由に、つまりは想起する自由にかかってくるからだ。
昔、読んだ本を読み返した時に、まったく違う印象を得ることがある。それはその間、前に本を読んだ時と現在の間に生きた体験がそのまま、想起の豊かさにつながっているからだ。前に「花」という言葉に反応したのとは違う、より多くのイメージがその間の体験によって増えているからだ。だから、小説は、人によって違うだけでなく、同じ人間にとっても、その蓄積や精神の活発さによって違う顔を見せる。

■読書は、時間を作りだす
本は、人によってさまざまな顔を見せる、と同時に同じ人間にとっても、異なる顔を提示する。そのような違い、その差異がもたらす自由を楽しむということが、本を読むということだし、そのような楽しみを学ぶこと、豊かにすることが、そのまま人生の豊饒につながっているのだ。
本を読むということは、映画監督になることだ、と云ってもいい。
同じような脚本をもとにしても、出来てくる映画がまったく違うのと同じように、同じ本でも、読む人によってはまったく違う世界が「上演」される。登場人物のキャスティングや衣装も人さまざまなら、ほかの誰もが読み飛ばす一行を、大アップの長回しにして味わう人もいるだろう。
もっとも大事なことは、一行の文章からあなたが想起する場面は、そのまま実際の人生で出会ったさまざまな事物、出来事からあなたが感じ取れるさまざまな感慨や発想の厚み、つまりは生きることの味わいそのものに対応しているということだ。
本を読むのは、人生を作ること。
生きることを、世界を、さまざまな人々を、出来事を、風景を、しっかりと味わい、その意味と感触を把握し、刻み込むためには、最高の訓練だ。
本はただ味わいを作りだすだけではない。
読書は、時間を作りだす。
音楽や映画は、あるいはゲームは作品自体のなかに時間が組み込まれている。それぞれの長さは、享受の仕方によって異なるとしても、基本的に作品に内包されている。
しかし、書物には時間は組み込まれていない。ただ、紙に印刷された文字があるだけだ。
書物の「上演時間」は、人によって千差万別である。しかもそれは、まったく作品自体によっては決定されない。ただ読者によって、つまりは読み、理解し、想起するという精神の働きだけによって決定される。
このことの恐ろしさ、面白さを理解できるだろうか。
時計の針はただゼンマイの撥(は)ねようとする運動によって動いているだけだ。地球はただ、惑星間の重力の関係で回っているだけだ。そこには、時間などというものはない。
人間にとって時間はただ、精神のなかに、継起するさまざまな事柄を了解し、感得する精神の動きだけに存在している。記憶と期待に引き裂かれた、人間の人生にのみ、時間は存在しているのだ。
ゆえに、時間は平等ではない。あらゆる人にとって時間は均質に過ぎるわけではない。
むしろ時間ほど不平等なものはない、と云った方がいいかもしれない。
豊かな人生とは、自らゆったりとした、表情豊かな時間を作りだせる者にだけ可能だ。
音楽や映画は、人に時間を圧しつける。
書物だけが、人に時間を自ら養い、育てることを教える。
■本を読むとは、人生を作ること
今回の初選集『福田和也コレクション1』でとりあげた、日本と西欧の作家たちは、みな偉大な作家たちだ。
偉大な作家とは何だろう。
有名だから、偉大という訳ではない。賞をたくさんもらったりしたから偉大なわけではない。
作家が偉大だというのは、発明家や政治家が偉大なのと同じような意味で、あるいは探検家やスボーツ選手が偉大なのと同じ意味で偉大なのだ。
はじめて電燈が点いた時にいかに世人が驚いたか。それと同じ感動を、人に与えることが出来るのが、偉大な作家だ。
彼らの作品を、自分が映画監督になったつもりで、一場面、一場面を想起しつつ、その場面のあらゆる光や匂いや雰囲気を味わい尽くすようにして、味読してほしい。おそらくあなたは、彼が見いだした人間の魂のなかの新世界を発見するに違いない。そして、その発見は、間違いなくあなたの魂と人生の幅と可能性を広げるものだ。
記したように、彼らは多分に「ろくでなし」と呼ばれるような人物であった。
というのも、彼らは人生の可能性を極限まで押し広げようとしたからである。彼らは探検家たちのように誰も知らない感情の極限を味わい、世界記録保持者よりも俊足に人生を加速しようとした。故に彼らの作品を味わうことは、そのまま彼らの体験した精神の深さ、豊かさを共有することになるのだ。
その豊かさが、そのまま君が生きること、生きる時間を作りだすことの能力を育てる。
本を読むとは、人生を作ること。
出来合いの人生を生きることを望まないのであれば、まず偉大な作家が書き著した書物の一頁をめくり、その一行目を味わってみることである。
(『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』より本文抜粋)