レストランのウェイターなどに、非常に横柄(おうへい)な態度をとったり、乱暴な口をきいたりする人とはいったいどういう人間だとあなたは思われるだろうか? まさかあなたの彼氏や彼女あるいは友達でそういう人間がいたら、あなたにどんな災厄が起こるかを想像してみてほしい。このほど初選集『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』(KKベストセラーズ)を上梓した福田和也氏は、「こういう人は、さしあたって目下の人間にたいして威張るという点で、道徳的になさけない人間であると同時に、それ以上にきわめてワキが甘い、油断きわまる人だ」と語る。
なぜ礼儀と挨拶は大事なのか?
■エチケットという誤解
偽善と同様に、今日評判が悪いものに礼儀正しさがあります。
むしろ礼儀作法にこだわらない、挨拶などしない方がよい、言葉遣いなども荒っぽい方がよいのだ、とする風潮が蔓延(まんえん)しているようです。
礼儀は、現在では単なる形式のように思われています。
女子高生の方々などの、酷い物云いなどには、こうした儀礼的な配慮がカッタルイとか、ウザイという以上に、礼儀が醸(かも)しだす、偽善的な感じを嫌い、より直接的であること、率直であることがよい、きちんと挨拶をするなどは、ブリッコ(もう死語でしょうか)であるだけでなく、計算高そうで、根性が悪い。むしろ礼儀など無視する方がよい人間なのだ、というような判断があるように思います。
こういう見解は、そのものとして解らないことはない。というのは、大人は当然計算高くなければならない(と同時に計算高くない、という演技もしなければならない)のと同時に、実際根性も悪くなければならない。自分が無垢(むく)で善良だなどという、つまらなく、かつ無意味な、というよりも往々にして品性を下劣にする思い込みから脱しなければなりません。
さて礼儀ですが、礼儀はけして形式的なものではありません。形骸(けいがい)化しており、あってもなくてもよいものでもありません。むしろ内容ある(という)メッセージなどよりも、よほど重要であるばかりでなく、雄弁でもあると思います。
なぜ、礼儀が大事なのか。挨拶が大事なのか。それは礼儀が、油断をしていないということの証しであるからです。
油断と礼儀の結びつきは解りにくいでしょうか。
人にたいして礼儀正しくふるまうということは、相手がどんな人間か解らない、何を考え、何をするつもりで、どんな地位、来歴をもっているか解らない、ということの表明であり、用心なのです。
よく、レストランのウェイターなどに、非常に横柄(おうへい)な態度をとったり、乱暴な口をきいたりする人がいますが、こういう人は、さしあたって目下の人間にたいして威張るという点で、道徳的になさけない人間であると同時に、それ以上にきわめてワキが甘い、油断きわまる人だと思います。
ウェイターだろうと、バーテンだろうと、その人がどんな人か解らない。どんな親兄弟をもっているかも、あるいは将来どんな人間になるかも解らないのです。そういう相手に油断してしまうということが、先々どんな災厄を招くかしれない。実際には、そのような可能性が低いとしても、そういう畏(おそ)れを抱かない、想像しないということが、きわめて大きな欠落なのです。
■日常油断し、弛緩しきっている日本人が多い理由
日本人には、そういう油断が、きわめて広範に見られるように思われます。
例えば、アメリカに行くと、もちろん地域にもよりますが、朝など歩いていると、通行する人が、みな「ハーイ」とか、「モーニン」とか云って、挨拶をしてきます。
あるいは、込み合った道などで、肩などがぶつかると、必ず、パードンという。
こういう事態をさして、よく、アメリカ人はフレンドリーである等と云いますが、たしかにそうであるけれども、またアメリカ独特の事情もあると思います。
アメリカというのは、申すまでもなく移民の国です。世界中から、いろいろな国民がやって来て暮らしている。国内でも始終移動をしているし、転職なんていうのは日常茶飯なわけです。職歴何年じゃないとクレジット・カードがもてない、なんていう国とはまったく違うダイナミックな社会です。
そういう国では、当然のことながら、会う人間がどういう人間か解らない。とんでもない悪人なのか、いい人なのか、解ったものではない。
とすれば、とりあえず会った人に、「自分は悪人ではありませんよ、あなたに危害を加えたりしませんよ」ということを示すために、にこやかに「ハーイ」などと云って見せなければならないのです。
ところが日本は同質社会で、定住が基本になっているので、大概の人は悪人ではない、その料簡(りょうけん)は知れている、自分の想像の範囲外の人間などいるわけがない、という前提で暮らしているので、別にむっつりした顔で歩いていても構わない。
これは、店などでも同じことですね。
ところが、日本人の場合は、無言で、何の愛想もなく、ずかずかと店に入って来る。そこには他人の家を訪れるのだというような緊張感はまったくない。好きに入って出るのが、当然の権利であると思い込み、疑いのない油断が窺(うかが)われます。
こうした油断を、私たちはむしろ好ましいもの、気の置けないものと考えているのですね。
でも、どうでしょうか。
この油断は、たしかに気持ちのいい、リラックス出来るものかもしれませんが、その陰でまた、多くの大切なものを見逃している、あるいは取り逃がしてしまっているものです。
弛緩(しかん)して生きるということは、いかにも退屈なことではないですか。弛緩を肯定する態度は、着飾る喜びや、華やかな場所に出る心地よさ、磨き抜かれたおいしい料理を食べる愉悦などを遠ざけるものです。
(『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』より本文一部抜粋)