「礼儀を尊重しない人、礼儀の意義に無自覚な人というのは、無意識のうちに、他人や世間にたいして、馴れ合い、油断してしまっている。それだけでなく、自分が、自らの意志で、しっかりと他者と社会をみつめ、緊張感と強い意志のもとで生きていくという覚悟を失っている。」そう語るのは、このほど初選集『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』(KKベストセラーズ)を上梓した福田和也氏。
■恐怖のマニュアル
礼儀を尊重しない人、礼儀の意義に無自覚な人というのは、無意識のうちに、他人や世間にたいして、馴れ合い、油断してしまっているのです。それだけでなく、自分が、自らの意志で、しっかりと他者と社会をみつめ、緊張感と強い意志のもとで生きていくという覚悟を失っている。
ですから礼儀というのは、自動的なものであってはならないのです。自動的、というより反射的なものであってはならない。
何の考えもなしに、こういう場合はこのように挨拶する、という手順で反応しているのであれば、それは礼儀でも何でもない。表面上は、礼儀正しいように見えても、生きていることの緊張感の表現としての礼儀ではないわけです。むしろ正反対のものですね。
そして、礼儀について難しいのは、この点なのです。
現代には、生きた、才気煥発な礼儀を発揮するというのがなかなかに難しい、時代的な困難があるのです。
時代的というと大仰(おおぎょう)ですが、現代独特の難しさが、礼儀に関してあるということです。その困難というのは、世間に疑似礼儀のようなものが蔓延していること、つまりはいわゆる接客マニュアルのようなものが、対人関係を覆っている、ということです。
接客マニュアルは、礼儀の敵です。
というと、驚かれるかもしれません。現在の若い人の、礼儀や対人関係のマナーの大部分が、こうしたマニュアルや、その延長によって作られているのは事実です。
大卒の新入社員などに、本来ならば一人前になる前に、当然家庭や学校で身につけているべきーー私も一応大学の教員ですから、忸怩(じくじ)たるものがありますがーー礼儀や作法、挨拶の仕方などを徹底的に仕込むといった現象が見られるようになってかなりたちます。
社会人という水準でなくても、ファースト・フードのカウンターから、ファミリー・レストランのウェイトレス、コンビニエンス・ストアの店員に至るまで、アルバイトの若者を機能的に働かせるためのマニュアルが、ありとあらゆるところに用意されているのはご存じの通りです。
接客マニュアルのなかでは、お客にたいする表情、言葉遣い、頭の下げ方、一々の注文に対する受け答えから、大きいトラブルにたいする対応に至るまでのすべてが網羅されています。もちろん働く場所や地位によって違うものの、店の運営のすべてがこうしたマニュアルによって規定されている。
接客マニュアル的な空間において従業員は、店長からバイトまで、すべての人間がマニュアルを守る、マニュアル通りに笑い、歩き、頭を下げ、話すということ、つまりマニュアルを順守するということに血道をあげているのです。
それは経営的にも、経済的にも効率的ではあるでしょうし、全国展開で、安価に均一質の商品とサービスを提供するには、有効な手段なのだと解ります。でも、それは、それだけのこと、要するにごく機械的な、消費を円滑にすすめるための手段にすぎないのです。
ところが、こういうサービス形態が、全国津々浦々に広がってしまい、一方において日常生活のなかから、儀礼的なことがほとんど消滅してしまっているがために、現在では、礼儀というものが、110円のハンバーガーを効率的に売るための手順と同一視されるようになってしまったのです。
その点からすれば、私も、儀礼的なことを軽視して、ことさらに乱暴な言葉を使いたがる女子高生の気持ちも解らないではないのです。接客マニュアルに比べれば、ならず者のような言葉遣いの方がマシだ、というのは、その通りでしょう。実際、今日の若い人たちの礼儀正しさ、というものに、ハンバーガー店の油臭さや消毒液の匂いを感じることがあるのは事実ですね。
なぜ、接客マニュアル的な対応がよくないのか。
それは、けしてその内容や手順がよくない、ということではありません。マニュアルの中味は莫大な予算と、試行錯誤を経て作られたものなのでしょうからそれなりによく出来ていると思います。
その点については、どうして、ファースト・フード店に入ったとたん、店員さんに微笑まれても嬉しくも何ともないのか。どちらかというとウンザリした気分になるのか、ということを考えてみれば、よく解るのではないでしょうか。ーーいや、とても嬉しい、快適だ、とおっしゃる方は、そもそも礼儀について考える資格が疑わしい。少しそういう風潮に侵されすぎていると思います。
なぜ、嬉しくないのか。
それが気味悪い。
微笑みとか、笑いというのは、自発的なものですね。もしくは自発的に見せなければならないものです。会話している相手から自然に笑みがこぼれたり、笑いが発したりすると、話をしていて、なんとなく嬉しくなる、非常にリラックスした気分になって、解放された心持ちになるのです。
そういう魅力が、機械的な笑いには一切ない。むしろ笑いという人間にとってかなり自然な現象を、無理やり作り出してしまっているという感じが、無残であると同時に侮辱を受けているような気分にさせるのです。
■演出の「型」を取り入れる
しかも、マニュアル的な作法というのは、本来の文脈と離れて用いられがちです。それは礼儀が生きるべき、本来の人と人との関係を離れて、ただ反射的動作としてやっている、そうやっていれば問題はない、行儀よく見える、というような発想から考えられ、とりいれられてしまっているからです。
例えば、トイレット・ペーパーの切った跡を、三角に畳んでおく、ということをやる人がいます。一部の女性などは、それがタシナミだと思っているらしい。
ご存じの方もいると思いますが、あれはそもそも、トイレの清掃係の方が、ここは掃除がすみましたから改めて掃除をしなくていいですよ、という合図なのですね。もしもその三角が切れていれば、点検した職員の方が、ここは使用された、ということで、また掃除をする。トイレの美観を気にして、頻繁に掃除をするホテルなどで作られた仕組みだと聞いています。
だから、トイレット・ペーパーを三角に折ったりするのは、私はお掃除係です、と云っているのと同じなのです。まったくエレガントでも何でもない。別に、掃除の職員の方を貶(おとし)めているわけではありませんよ。でもそのふるまいは、盛装した姿とはまったくそぐわない滑稽なものです。第一、みなが片端から折るものだから、掃除したんだか、してないんだか解らなくなって職員の人にも迷惑でしょう。
そういう脈絡も考えずに、ただ何となく見栄えがいい、というようなことでとりいれて、自分は上品なつもりでいる。まったく恥ずかしい、大笑いな事態ではありませんか。
マニュアル的な発想をしていると、こうしたトンチンカンなことになるのですね。言葉遣いには、本当にマニュアル流の滑稽な誤りがたくさんあります。このごろ、一部の業者のオペレーターがよく使っている「お名前様」という言葉。これ自体、大変耳障りで、酷い言葉だと思いますが、そういう業者のマニュアル言葉を、そのまま日常の丁寧語として使う人がままあるのは、本当に嘆(なげ)かわしいことだと思います。
こうしたことが起こるのも、礼儀作法が生きたもの、つまり人と人との、生き生きした緊張感にもとづくのではなくて、相手を眼前にしながら実はいないのと同じで、自動的かつ反射的な対応に終始していることが多い、つまりこれまで申してきたように、マニュアルとして礼儀を展開しているからです。
そこのところをさらに深く探ってみると、現在における、人間関係の希薄化というか、一面化という事態につきあたるのではないでしょうか。一面化などという、非常に概念的な言葉を使って申し訳ありません。
何をもって一面的か、というとこれは若い方を私なりに観察して考えたことなのですが、彼らは、一般に、自分が他人にどう見られているか、どう評価されているか、ということにとらわれています。
他人と対面していても、そこで関心を集めているのは、自分。自分にたいする見方だけなのですね。相手が自分をどう見ているかということにばかり関心がいっていて、自分をある程度評価してくれる人間とは、気楽につきあえるけれど、そこが不安だと口もきけない。こうした体面的な場における過度の防衛的な姿勢を、一面化と云ったのです。
そう云うと極端かもしれませんが、相手が一体どんな人間なんだろう、何を考えているんだろう、見かけや云うことと、中味はどうズレているんだろう、といったことにはあまり強い興味をもっていないように思うのです。
そういったことへの興味が欠けている、つまりは他者にたいする好奇心と、深いコミュニケーションへの欲求がない。ということは、これはなかなか大きな現代的な問題ーー特に、携帯電話やメールといった情報機器の普及と切り離せない問題だと思いますがーーにつながるわけですが、さしあたってその被害というか影響を一番強く受けているのが、礼儀作法であると思います。
挨拶をすること。姿勢を正し、相手を眺め、困っていれば手を貸したり、道をあけたりする必要がないかを見届け、適当な話題を選んで話しながら、微笑むなり、真剣な顔をするなり、心配そうな顔をする。こうした行為は、どれ一つとして反射的に出来るものではないのです。きわめて深く複雑な判断、自分と相手との関係にたち、同時に自分が相手に何を求めるのかーー好意か、善意か、敬意か、刺激的興味や誘惑的興味かーーという計算から、行われるべきものなのです。
そう考えてみれば、「こんにちは」の発声一つ、お辞儀一回にしたって、あだやおろそかに出来ないはずです。あんまり深く頭を下げてはおかしい場合もあれば、会釈では失礼な時がある。頭を下げる時間、上げる時の早さ、あらゆることが変化して対応しなければならないのと同時に、きわめて自然に行われなければならないのです。
そんな面倒なこと、いやだ、と思われるでしょうか。でも考えてみて下さい。実際には、みなさんも、日常の場面では多少とも儀礼の形を変えながら用いているのではないでしょうか。どんな時でも、スーパー・マーケットのアルバイト研修でならった「お客さまへのお辞儀」をする人はいないはずです。
だから私が申したいのは、そういった自分が無意識に行っている、作法のアレンジにたいして、意識的になれ、ということなのです。
意識的になるということは、礼儀を演出しきる、ということです。感じのいい挨拶、あるいは緊張感をみなぎらせた挨拶、媚(こび)を含んだ挨拶、といったことをしっかりとした目論みの上で、なおかつ自然に見えるようにしなさい、ということです。
演出といったってなかなか難しい、というのはその通りです。鏡を見ながら、いろいろとやってみるというのも、いいかもしれませんが、すぐに上達するわけではない。
そこのところに、茶道とか、日本舞踊とか、マナー教室などの意味が出てくるわけです。こうした伝統的な技芸には、演出の型がたくさん詰まっているわけですね。茶道の所作などには、自分の演出につかえるパターンや参照が多くあります。
別にこうしたものでなくても、フラメンコでも、ソムリエのテイスティングでも、使える型はあるのですね。それを意識的に、自分の演出として生かすことが大事なのです。いくら型をとりいれても、マニュアルの項目を増やしただけになってしまっては、何にもなりません。
(『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』より本文一部抜粋)