■血気盛んな38歳の文芸批評家

 



 太っている人を見ると「食べ物を分けてくれるいい人」だとつい勘違いしてしまうのが、人間の遺伝子に組み込まれた先入観なのだと思う。人間が食べ物に不自由しなくなった期間は人類史の中で微々たるもので、現代に至っても多くの人々が空腹に苛まれ、定住する「くに」を求めて彷徨っている。

「日本の文芸は、国にも、人にも、或いは言葉や土地にも先んじてある」(第五章「日本文藝の永遠」)と若き福田和也は、力んだ筆致で記しているが、当時の彼の暴飲暴食ぶりを見れば、彼にとって「文芸」や「国」や「人」よりも「食べ物」が「先んじてある」ことは明らかであろう。『悪女の美食術』や『無礼講 酒気帯び時評55選』(坪内祐三との共著)など、福田は食に関する仕事も多いが、彼は文芸批評家やナショナリストである以前に、経済大国となった「くに」にある食文化を蕩尽する批評家であり、食欲など俗世の情動を原稿料に変えてきた一流の錬金術師だと私は思う。



 私が初めて出会ったころ38歳の福田和也は批評家として文字通り「脂」が乗っていていた。この頃の彼の脂質を中心とした笑顔を思い浮かべると、レイモンド・カーヴァーが名短編「でぶ」(「FAT」)で描いた、上品で知識があり、饒舌で夫婦仲のいい田舎紳士を思い出す。福田は「調子のいい時は昼食を3回とる」とうそぶき、数十万円単位に上るゼミの飲食代も、往年のプロレスラーのように気前よく奢っていた。このため私はうっかりと福田のことを「食べ物を分けてくれるいい人」だと勘違いをしてしまい、大学院の後期博士課程まで世話になり、西日が差して久しい文芸批評の十字架を背負うことになってしまった。

当時、福田と交わした話の内容を振り返れば、3割が文芸、3割が飲食、思想、映画、音楽、大学が1割ずつというもので、このような大学にいることを忘れているかのような研究指導で、よく大学の専任教員になれたと感心する。



 私が初めて福田和也と出会ったのは、1999年の春に慶應SFCの大学院入試に合格し、早稲田大学4年生の立場で参加した授業であった。合格発表の翌月の7月21日に、江藤淳が66歳で剃刀を使って自裁したため、緊張して授業に臨んだことを記憶している。江藤は福田を「諸君!」に登用し、慶應に専任教員として招いた恩人であったが、基本的に福田は儀礼的な付き合いができない「コミュ障」なので、この時期は江藤のことをあまり気にかけていなかったと思う。江藤は1996年秋学期の福田の慶應への着任を見届けたのち、1997年春学期から大正大学に移籍しており、すでに慶應にはいなかった。私が出会った頃の福田は、自裁した江藤淳への感情的な負い目もあってか、彼の不在を補うことを強く意識していたと思う。



 福田は38歳で血気盛んだったこともあり、文献購読の授業では事前にレジュメを出していない学生を「二度と授業に来るな」と言わんばかりに威圧し、履修者をどんどん減らしていた。一青窈さんを含む初期のゼミ生たちは「モンスーン」という雑誌を制作販売していたが、批評や理論書への関心は薄かったようで、文献購読の授業にはほとんど来ておらず、慶應の授業であるにもかかわらず、早稲田の4年生だった私と福田がマンツーマンになってしまった。「他に行くところがないならうちに来ますか?」と福田に聞かれ、宗教の勧誘のようだと思いつつも、「近代社会という、複雑かつ錯綜を極め、一望する視点など持つことができない対象を全体的に把握することが出来る唯一のメディア」(第一章「オノレ・ド・バルザック」)について学ぶことに魅かれた。



 





■色川武大の小説と同様の「破綻していく者の調和と均衡」

 



 福田和也と一コマにつき毎回1冊以上の本を読み、A4で5枚ほどのレジュメを毎回提出して議論する「敷居の高い授業」の型を作った。修士課程の時は、マルクス主義や精神分析関連の理論書を毎コマ1~3冊読み、サブゼミではドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』を一緒に読んだ。博士課程ではみすず書房の『現代史資料』を1巻ずつ読み、サブゼミの方は私が月5万円もらって担当するようになった。

何れも膨大な量の課題を提出することが求められる授業だったため、履修者は少なかったが、これらの文献購読の授業に参加していた大学院生・学部生から10人近くが大学教員になった。



 2001年にちくま学芸文庫から『江藤淳コレクション』全4巻が福田和也・編で刊行された。江藤淳全集は未だ刊行されておらず、他に『江藤淳文学集成』があるのみだが、福田がコレクションを「史論」「エセ―」「文学論Ⅰ、Ⅱ」という構成にした理由について細かく尋ねたことがあった。印象に残ったのは福田が、江藤が記した論壇向けの「史論」や文壇向けの「文学論」よりも『~と私』と題された一連の「エセ―」を高く評価していたことである。福田は、私情や日常の雑感の中から論を立ち上げる江藤の文章に、批評に留まらない文芸全体の可能性を見出していた。



 



「いまだに作家が創造的で、批評家は受動的、二次的だなどという愚かな思い込みを有している小説家や編集者が少なからずいる。

私は、小説よりも批評の方が数層倍自由で多様な創造的なジャンルだという信念をもっており、批評家をして小説の解説者とするような封建遺風を根絶したい」(第六章「グロテスクな日本語」)



 



 私も小説よりも批評が面白いと思っていたので、このような福田の批評に対する姿勢に魅了された。江藤淳の『アメリカと私』は、戦後日本の文学のピークを成す文芸書だと今でも思う。



 福田和也は本書の第四章「色川武大 数え切れない事と、やり切れない事と」の中で、阿佐田哲也名義で『麻雀放浪記』などのヒット作を持つ色川武大について「破綻にも破綻のバランスがある」「破綻していく人生の中にも破綻していく者の調和と均衡がある」と述べている。『福田和也コレクション1』に目を通せば、一見すると様々なメディアに書き殴ってきたかのような福田の「エセ―」が、色川の小説と同様に「破綻のバランス」や「破綻していく者の調和と均衡」を有していることが分かるだろう。



 





 



 ■文学とは何だろうか



 文学とは何だろうか。「一番原初的な、自由になるための、解放されるための闘いだ」(第一章「フォードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー」)と『福田和也コレクション1~3』の巻頭を飾る文章で、福田は回答している。

レナード・コーエンの名曲を意訳しながら、多くの人間は「罠にかかった小鳥のように」本来もっと自由であり得るはずの人生に囚われ、「釣り針に掛けられたミミズのように」自由を求めてもがき、「死産の赤子」と大差のない生を全うしているのだ、と語る。人間を捕縛する「救いのない永劫回帰」から脱出するために、文芸批評を含む文学が、人が自由を志向する人であるための存在理由を与えると私も思う。この文章を含む『ろくでなしの歌』の単行本が発売されたのは、2000年の4月1日で、私が慶應義塾大学湘南キャンパスの大学院に入学した日であった。



 『ろくでなしの歌』が出版された頃、私は福田が当時住んでいた馬込文士村近くの家で書庫整理のアルバイトに声をかけてもらった。三島由紀夫の旧宅の近くの桜が咲いていた記憶があるので、今思えば入学祝いだったのだと思う。福田の自宅のインターホンを緊張して押したことを今でも記憶している。

敷居をまたいでみると、アルバイトと言えるほどの作業はなく、奥様に振舞って頂いた美味しいつまみを肴に、昼間から酒を飲み、「新しい世界=邪宗門」に足を踏み入れたことを実感した。『ろくでなしの歌』はこの日の帰り際に玄関先で貰ったのだが、今から振り返れば「お前は、このろくでなし=福田和也に学ぶんだからな」という、大学教員らしからぬ挨拶だったのだと思う。豪放磊落に見えて、福田は時折、繊細に企図された見栄っ張りな配慮を見せることがある。



 出版物の売り上げは90年代半ばに史上最高を記録し、まだこの時期は本や雑誌が売れていて、批評にも勢いが感じられた。インターネットの通信速度もまだ遅く、書籍や雑誌を購読する人も多かったので、「本を読むのは、人生を作ること」という福田和也の言葉にも説得力があったと思う。福田和也が「新潮」誌上で柄谷行人に食って掛かったことも相応に話題になる時代で、本書に収録されている通り、福田は柄谷の批評の「否定しがたい生彩と加速感」を認めつつも「読者の前で思考を上演して見せる批評文のスタイルそのものが、細心の読者サービスに貫かれている」と批判することで、文壇に殴り込みをかけた(第四章「柄谷行人氏と日本の批評」)。まだ批評家の論争が「事件」や「商品」になり得た時代で、「批評は、直接に何と問い糺す事の出来ない「奇怪な想ひでゐたゝまれない氣持ち」の中にこそある」という福田の任侠映画のような批評観も新鮮に見えた。



  



 



■本を読む、乱世を生きるプロ

 



 この頃は左右の知識人が同じテーブルで議論する自由闊達さがあった。江藤淳も柄谷行人のイェール大学行きを手助けするなど、政治的な立場の異なる柄谷に若いころから目をかけ、『マルクスその可能性の中心』などの著作も高く評価していた。柄谷行人も江藤への恩返しの気持ちもあってか、自分を厳しく批判した福田和也を「批評空間」で登用し、最終号(2002年)の巻頭鼎談「アナーキズムと右翼(絓秀実・福田和也・柄谷行人)」の対談のまとめ(トランスクリプション)も、当時大学院生だった私に担当させてくれた。文芸批評に西日が差し始め、批評家が大学や文壇・論壇で嫌われはじめてた時期だったが、思想的な深みと、広い参照系を持つ批評家たちの議論を間近で味わった経験は今でも忘れがたい。「もっとも意気盛んな左翼的議論を担っているかにみえる」と福田が評した「批評空間」は廃刊となったが、柄谷行人と浅田彰は福田に左右の政治的な立場を超えた活躍の機会を与え、山城むつみや東浩紀など次世代の批評家を世に送り出すことに成功した。



 その後、左右の言論はWeb上の世論と同様に極端化し、多様な論者が寄稿する総合誌・オピニオン誌は次々と廃刊となった。Web上で人気を集める論者が言論の担い手となり、左右の政治的な立場も極端化した形で再生産されてきた。『福田和也コレクション1』の「乱世を生きる」という副題は、福田が慶應義塾大学で35歳から安定した収入を得てきたことを考えれば鼻白むものだが、彼がWeb上の世論が台頭する時代に批評家として生き抜いてきたことを考えれば、納得ができるものである。



 



「批評家は自分の声音で語らざるを得ず、語らなければならないが故に彼は自らの声を先ず聴き、文を眺め、自ら第一の客となり、弟子となり、敵となりながら、尚一つの声で語らなければならない」(第四章「江藤淳氏の「成熟」」)



 



 本書に所々綴られた批評や批評家を定義する言葉には、江藤の死後、その不在を埋める努力を重ねてきた福田和也らしいエネルギーが感じられる。



 『福田和也コレクション1』は、大竹伸朗の装画が物語っているように、往時の福田和也が「本を読む、乱世を生きるプロ」であり、丸々と肥大化した頭脳で、日本の文壇・論壇を牽引してきたことを伝えるパワフルな著作である。特に1990年代から2000年代前半にかけての福田和也の批評には、文芸の中心が批評であると訴える「響きと怒り」が感じられ、腹を空かせた福田が、分厚い本から飛び出て殴り掛かってくるような迫力が感じられる。過去の文人たちの「ろくでなし加減」を誇張するのは福田の批評の愛敬だが、旺盛な食欲と連動した読書欲が切り開いた批評の射程の広さは、他の書き手を圧倒している。



 『福田和也コレクション1』は、往時の福田和也の「カロリーの高さと文芸の器の大きさ」を感じさせる大著であり、福田が江藤淳から継承した「ヒール(悪役)」としての批評家らしい「読書人生の重み」を感じさせる「鈍器本」である。



 





 〈著者プロフィール〉 



酒井信(さかい・まこと) 



1977年、長崎市生まれ。慶應義塾大学政策・メディア研究科後期博士課程修了。慶應義塾大学助教等を経て、現在は明治大学国際日本学部准教授。専門は文芸批評・メディア文化論。大塚英志×福田和也責任編集「選挙に行く前に読んでおけ。」(PHP月刊「Voice」2001年 8月号特別増刊号)では編集長を担当。 福田和也『イデオロギーズ』(新潮社、2004年)では注解を作成。著書に『吉田修一論』『メディア・リテラシーを高めるための文章演習』など。西日本新聞・日曜カルチャー面で「現代ブンガク風土記」を連載中。