「これは普通の事態ではないかもしれない」「彼はちょっとやばいかもしれない」……。最初の直観が、後から考えれば正しかったという経験はないだろうか。
■マイケル・ポランニーの「暗黙知」
適菜:前回の対談で「人を説得することは可能なのか?」という問題を扱いましたが、今回はその核心部分をハンガリー出身の物理化学者・科学哲学者のマイケル・ポランニーと絡めて中野さんと論じたいと思っています。
中野:私がポランニーの「暗黙知」で面白いなと思ったのは、ポランニーがプラトンの『メノン』を引いてくるところがある。そこになんて書いてあるかというと、プラトンいわく「問題の解決策を探すというのはパラドックスである」。その意味は、「何を探しているのかを分かっているんだったら、問題はそもそもないじゃないか」「逆に、何を探しているのか分かっていないんだったら、何か見つけられるわけないじゃないか」と。裏を返すと、「「問題は、〇〇だ」といって、問題を設定できるということは、もう答えがどこかにあることを半分知っているからこそできるのである。もし、答えがどこかにあることすら全く分かっていないんだったら、そもそも何が問題であるかも分からないんじゃないか」。そういう面白いことをプラトンが『メノン』の中で書いているのだそうです。
このパラドクスをポランニーは面白がっています。このパラドクスをポランニーは、こう解いてみせた。
適菜:ポランニーは「私たちは言葉にできることより多くのことを知ることができる」と言いました。たとえばわれわれは知人の顔とその他大勢の顔を一瞬で区別する能力を持っている。しかし、どのようにして顔を見分けているのかは言葉に置き換えることができない。このように意識の表面には上らないが「知る」という作用に背後で決定的な影響を及ぼしているのが「暗黙知」です。この対談でも述べてきましたが、人間は、知っていることですら、言葉に置き換えることはできないし、意識の表面にも上がってこないのです。
中野:この「暗黙知」によって、プラトンのパラドクスは解けます。つまり、「問題を設定できるのは、答えがどこかにあるのを知っていることだ」というのは、明示的には答えは言えないが、暗黙には知ってる状態です。そして、「問題を解く」「答えを見つける」とは「暗黙に知っていた答えを、明示化することができた」ということなのです。
適菜:なにかを予知するということは、後から考えれば、すでに答えを知っていたということになるわけですね。
中野:事実、そういうことは科学の歴史上もある。例えば、コペルニクス主義者たちは、地動説が明示的に証明されていないのに正しいと信じ続けていて、ニュートンが証明するまでの140年間、地動説を信じ続けていた。コペルニクス主義者は暗黙知として地動説の正しさを知っており、それを明示的に証明したのがニュートンだということなんでしょう。
この話は、プラトンだけではなく、あるいはポランニーだけではなくて、いろいろ読んでいると出てきますね。例えば、『保守とは何だろうか』という本で紹介しましたが、19世紀初頭の文人で保守主義者の一人であるサミュエル・テイラー・コールリッジも同じようなことを言っていました。コールリッジが言うには、問題を解決したときというのは、忘れていた名前を思いだそうと努力をした後に似た感覚を伴う、と。問題を解こうとするときは、「なんだったっけ? ほら、あれ、あれ」というような感じになる。そして、実際、問題を解くことに成功すると、答えを忘れていただけで本当は最初から分かっていたような、忘れていたことを思い出したような感じになるというのです。
適菜:無意識に答えを予知していたから、「やっぱりそうだったな」という感覚になる。私もその『メノン』とニュートンのくだりには感動したので傍線を引いて読みました。大事なところなので、少し長い文章ですが引用しておきます。
《どうやら、ある発言が真実だと認識するということは、言葉として口にできる以上のことを認識することらしい。しかもその認識による発見が問題を解決したなら、その発見それ自体もまた範囲の定かならぬ予知を伴っていたことになるのだろう。(中略)こうした知られざることがらについては明示的な認識など存在しないので、科学的真理を明示的に正当化することは不可能だと言うこともできよう。しかし、私たちは問題を認識することはできるし、その問題がそれ自身の背後に潜んでいる何かを指し示しているのを確実に感じ取ることもできる。したがって、科学的発見に潜む含意(インプリケイション)を感知することもできるし、その含意の正しさが証明されると確信も持てるのである。どうしてそんな確信が持てるのかと言えば、その発見についてじっくり検討を重ねているとき、私たちは問題それ自体だけを見ているのではないからだ。そのとき私たちは、それに加えてもっと重要なもの、問題が徴候として示しているある実在(リアリティ)への手掛かりとして、問題を見つめているのだ。そもそも発見が追求され始めるのも、こうした観点からなのである。
このようにポランニーは述べた後で、暗黙知のメカニズムの論点をまとめます。(1)問題を妥当に認識する。(2)その解決へと迫りつつあることを感知する自らの感覚に依拠して、科学者が問題を追求する。(3)最後に到達される発見について、いまだ定かならぬ暗示=含意を妥当に予期する。この種の認識方法によって、問題や虫の知らせといった、途方もなく曖昧なものが認識可能になり、「メノンのパラドックス」は解決されることになると。
中野:これは、小林秀雄が「理論は行為の中にある」と言っていたのと同じ話です。まず、行為によって、つまり現実世界に深くかかわることを通じて、暗黙知を体得しておく。その暗黙知の中に明示的な理論が隠れている。そして、あとでその暗黙知の一部が理論として表に出てくる。これは、特に保守主義に顕著な認識論ですね。
適菜:そうです。だから保守思想家は明示的に表せないことを重視したのですね。
中野:前回の対談で「なぜ人を説得できないか?」について話しましたが、これも同じです。つまり、暗黙に答えを知っているけれどうまく言えなくて「分からない」と言っている人に対して、「あなたが考えているのは、本当は、こうじゃないか」と導くようにして、相手が暗黙知として知っていることを明示的な答えにしてあげる。いわゆる「気づきの機会を与える」ってやつですね。そうすると、もし初めから暗黙に同じ答えに到達している相手だったら、「そうか」と分かってくれるわけです。しかも、説得されたほうも、まったく知らなかったことを知ったというよりは、「最初から俺もそう思ってたんだ」って気になるんですよ。これが説得するということです。
■「理解する」とはどういうことか?
中野:小林秀雄が孔子や仁斎について論じているときに出てきますが、孔子の教育方法がまさにこれだったようですね。相手の思考を言わばツンツンたたいて、元々分かっているものを出してあげるというのが、孔子の教育法であったというのです。
答えが「分かる」って言いますよね。これって、暗黙知の中から、言葉で明示的に示せる答えを「分ける」ということなのかもしれませんね。
適菜:師が「こいつは見込みがない」と言うときは、そういうところを見ているのかもしれませんね。ものごとを発見する天才は、「ひらめき」に依存するのではなくて、答えにたどりつく「手掛かり」を体の中に地道に探す。ゼロから何かが生まれるわけでもなければ、天から啓示が下りてくるわけでもない。
中野:ウイルス学者の宮沢孝幸氏の「目玉焼き理論」は、下りてきたそうですが(笑)。
適菜:京都大学准教授の困った獣医ですね。2020年11月28日に宮沢はこうツイートしています。
《実は目玉焼きモデルは私のアイデアではなく、守護霊のアイデアです。うたた寝の時に教えてくれました。教えてくれた守護霊さんに感謝してます。まるで曼荼羅のような図が出てきたのです。うたた寝しながら、なるほどと納得してました。私の守護霊さんは私を叱咤激励してくれます。まだ頑張れるだろと》
社会不安に乗じて現在カルトが拡大しています。宮沢は陰謀論者の武田邦彦とかともつるんでデタラメな発言を繰り返していました。次は大川隆法と対談ですかね。予知という話に戻ると、初対面のときに「こいつやばいぞ」とうっすら思って、3年経ってから証明されたみたいな話って、よくあるじゃないですか。
中野:あります、あります。
適菜:それはやっぱり、自分の心の深い場所で「知っていた」のだと思います。潜在意識と暗黙知は別物ですが、それがいろいろな要因が重なり、はっきり意識の表面に浮かんでこなかった。
中野:そうなんですよ。これは反省しなければなりませんが、「あいつ何か変だ。どうも偽物だ」って感じていた人間と付き合って失敗したことは、最近もありました。最初から「偽物だ」だとうすうす分かってたんだけど、「何の根拠もなく、直観とかで人を判断するのはよくない」と自分に言い聞かせてしまいました。「自分の偏見かもしれない」とか、あるいは「そういう食わず嫌いは良くないから、ちゃんと付き合って分かり合おうよ」とか、子供の時、友達付き合いに関して、そういうことを親や学校の先生に説教されますよね。まあ、それもそうかもしれないというわけで、「初印象が悪いからって付き合わないのは良くないな」「いいところもあるのだから、いいところだけ見て付き合えばいい」なんてお利口さんに思って付き合ってみるのですが、それが成功した試しがないんですよ。
適菜:ははは。そういう経験は私もすごくあります。そこで、自分が偏屈なのか、相手がおかしいのか、見極めるのはなかなか難しい。その両方ということもありますが。
中野:そんな失敗の経験が重なると、自分も歳とってきたので、だんだん傲慢になってきちゃって、めんどくさいから、第一印象で決めつけるようになってきた(笑)。もちろん、そんなふうに傲慢になるのも良くないだろうし、最初の直観を間違えることもいくらでもあるので、気を付けないといけないんですがね。前回の対談で話題になった「自己欺瞞」ではないけど、たまたま、自分が自分自身の不甲斐なさにイラ立って不満があったところ、自分より優れた人間やうまくやっている人間がいたので、嫉妬を覚えて「こいつは顔が嫌いだ」とか決めつけるとか、そういった罠もあるじゃないですか。人間、いくらでも自分を騙しようがありますから。そういうこともいろいろ考えた上で、「確かに第一印象で判断してはいけないな」と自分に言い聞かせて、内心では「こいつ、何か変だな」「はっきり言えないが、どうも偽物っぽいな」と思っている人間とも我慢して付き合ってみるのですけど、悲しいかな、そういう人間関係は、まず失敗しますね。
適菜:理屈より「直観」のほうが信用できるという話ですね。小林も内面は顔に表れると言いました。「直観」には言語という形で表面に出てこない切り落とされたものが多く含まれている。その点、子供は正直です。王様が裸だったら、「王様は裸だ」と言っちゃうわけですから。「裸だ」という言葉を与えるのは結構大事なことです。ここの部分だけ匿名にしておきますが、某国立大学の大学院教授について、新型コロナで完全におかしくなったとFacebookで指摘したんです。そうしたら、しばらくやりとりのなかった昔の知り合いとかが大勢出てきて、「私も同じことを感じていました。でも、有名な大学の先生なのだから、そんなにおかしなことを言うはずがないと思い込んでいました」と。ツンツンとつつけば、いろいろ出てくるわけです。ある人からは「適菜さんは、人は顔で判断すべきだと言っていたのに、なんであんな顔の人とつるんでいたんですか?」と言われてしまいました。
中野:これは、一本とられましたね。まさに顔で判断するからFacebookなんですか(笑)。偽物と付き合ってしまった自分を反省して言えば、「俺は、大衆と同じ行動を取っていたな」と思います。ここで言う「大衆」という意味は、キェルケゴールが言った意味での「大衆」なんです。要するに、自分が内心つまらないと思っているものを褒めてみせるような連中が「大衆」だということです。私は、内心つまらないと思っていたのに、それを隠して付き合っていました。だから、「大衆」だったんですよ。やっぱり、自分の直観をごまかして、うわべをとりつくろったような社交はいけないんだなと後悔しました。本当に失敗したなっていうか。でも、そんなことばかり言っていると、本当に孤立してしまうな。第1回目の対談で話題になった福沢諭吉の「私立」「痩我慢」っていうことかもしれませんが。
適菜:それこそ、キェルケゴールですね。独りぼっち、単独者になってしまう。キェルケゴールは市民の本質を「第三者」「傍観者」と規定しました。こうした社会では本当のことが、大量の「おしゃべり」の中に埋もれていく。
■「信じることと知ること」
中野:話を戻すと、直観は、本当は、根拠のないものじゃないんですよ。世間では、明示的な知識や理論あるいはデータはちゃんとしたもので、直観はいい加減な思いつきで根拠がないものと思われている。でも、それは全然違う。直観には、暗黙知という明示的ではないけれどちゃんとした根拠があって、ただ、それが明示化されていないので「直観」という言葉になるだけなんです。小林秀雄はまさにこのことを重視していた。
小林の場合はベルグソンの影響だと思いますけれども、例えば、死んだおっかさんがホタルになって飛んでいるのを見たとか、そういう経験を信じることが大事だと書いています。科学が一蹴するような現象についても、まずいったんは信じる。小林の講演のタイトルの「信じることと知ること」ですね。何かを知る前に、まず何かを信じていないといけない。つまり、自分では全部理解していないし、うまく言えないんだけど、なんか正しいと直観することが、信じるということです。うまく根拠を言えないのに、なぜ信じられるのか? オカルトを信じているような異常者は別として、まともな人間が「信じる」というときの感覚は、多分、暗黙知のことなんでしょうね。
適菜:まさにそのことをポランニーが言っているんですよね。《伝統主義とは認識する前に、さらに言えば、認識できるようになるために、まずは信じなければならぬと説くものだ。するとどうやら伝統主義は、知識の本質や知識の伝達に対して科学的合理主義などよりも深い洞察を携えているらしい》(同前)。ポランニーがバークに言及しながら、節度ある自由、聖なるものに対する配慮を説いたのも、知が社会的権威と信任に基づいているからですね。だから、保守的であることや伝統を重んじることは、思想的哲学的にもっとも誠実な態度なのだとポランニーは言ったんですね。左翼の発想はここが180度転倒しているんです。理性や合理によって、すべて判断できると思っているわけですから。
中野:そうなんです。だから知識に到達する前に、「前・知識」として「信じること」がある。先ほど話題に出したコールリッジなんかは、科学の根底には宗教があるとまで言っている。まずは信じることから始める。とりあえず信じることで現実世界や経験に深くコミットする。そうすることで、暗黙の裡に知識を体得する。「acquire」という言葉をポランニーは使っていたと思いますけれど、まさに「体得」ですね。私の理解では、暗黙知を頭ではなく体に取り込んで貯め込んでいくようなイメージです。体得したあとで、その中から頭で処理して明示的な知識や理論を出していく。これが、「分かる」ということなのでしょう。
ただし、人間は、暗黙知の一部しか理論知としてくみ出せない。言葉が表現できるものには限界があるから、明示的な知識や理論として表せるのは、暗黙知のごく一部に限られるのです。一方で、体のほうは、どんどん先に動いて暗黙知を取り込み、積んでいく。だから、人間は行為をし、行動をしないと、現実に密着した暗黙知を体得できず、したがって理論のほうも出てこない。逆にいうと、現実世界の中で行動や実践をしないで理論だけをいじくり回していると、現実から離れていく。なぜならば、現実と理論とをつないでいるのは、体で体得した暗黙知だからです。
適菜:泳げない人が水泳の理論を書くようなものですね。それでも言葉は恐ろしいもので、実際には理論を書けてしまうのですが。小林は、《人類という完成された種は、その生物学的な構造の上で、言ってみれば、肝臓という器官をどうしようもなく持っているように、宗教という器官を持っている》と言っています。そして長年にわたり、宗教とは教理ではなく、祭儀という行動であったと。これは今、中野さんがおっしゃった話と同じです。合理的に考えれば非合理の部分があることに気づくし、超越的な場が人間にとって存在せざるを得ないということです。これは当たり前のことですよね。先ほども言いましたが、どんなに大勢の人がいても、顔を見れば、知り合いなのか、自分の親なのかとかは簡単に区別がつく。でも、どこを見て区別しているのか分からない。言葉にはできないわけです。豆柴だって、顔はぜんぜん違う。先ほどのバークの話もそうですが、明示的なものだけを絶対視すると間違うということです。まずは信じなければいけない。そこには理由はない。それが人間という存在なんだということですね。
■「姿は似せ難く、意は似せ易し」
中野:関連して言うと、ポランニーの科学哲学は、教育とも関係する。例えば、大学があったり、学会があったりしますね。それも国際的にあるわけです。高等教育は昔から、まずは指導教授の下で実験の方法とか、探究の方法とか、議論の仕方とかを訓練する。要するに徒弟制みたいな形で体得していって、それで一丁前になったら、理論を生み出せるようになる。実験の方法とか問題の見つけ方とか論証の手順といったものの背後にも、暗黙知があるのです。その暗黙知を言葉ではなかなか伝えられないので、大学や学会といった科学者の共同体がある。その科学者の共同体の中に住んで、そこで指導教授や他の優れた研究者たちとの交流を通じて、科学の暗黙知を体得していくのです。
もし、暗黙知というのがないんだったら、理論書だけ読んでいればいいわけです。それがなぜ大学の研究室という、ある種の徒弟制があるかというと、科学の暗黙知を伝えるためです。徒弟的な制度でないと、暗黙知を伝えることが難しいからです。世界の科学者たちと交流したり意見交換をしたり、教授たちの議論を見ているうちに、学生の中に、科学の暗黙知が蓄積されていく。だから、科学には、科学者の「共同体」が必要になるのです。科学の暗黙知を伝達し、蓄積するためには、共同体というものが必要になるからです。
科学の世界でよく起きるんですけれども、お互いに交流していないはずの複数の研究者が、ほぼ同時期に同じ発見をすることがある。発明でもそうかもしれない。例えば、電話はベルとエジソンとグレイの3人がほぼ同時期に発明したそうですね。どうしてそういう不思議な現象が起きるかというと、実は、彼らは、科学者・技術者たちが交流を重ねる共同体の中にいて、暗黙知の共有をしていたからだとしか考えられない。
適菜:無意識の部分で共有されていたものが、何かをきっかけに表面化するという。それは問題が共有された時点で、同時に何人かが正確な答えを予知していたということなのでしょうね。
中野:暗黙知は、はっきり理解できないものだから、知るというよりは、理解しないままとりあえず体得する必要がある。つまり、指導教授の教え方とか指導教授の言っていることを、いったんは「信じる」必要があるわけです。もちろんあとになって批判的になっても全く構わないんだけども、学生が未熟である以上、まずは指導教授を信じなかったら指導を受けることになりませんから。まずは信じることから始めないと、暗黙知は伝わらない。だから知る前に信じる必要があるというわけです。「知る」ことの前に、必ず「信じる」ということがどうしても先行するんですよ。
適菜:内田樹が言っていたのですが、師弟関係があるとしたら師なんて誰でもいいと。「弟子が師を信じる」こと自体に師弟関係の意味がある。内田は師から何を学ぶかは二次的な重要性しかないと言います。対象が「情報」に過ぎないのなら、「情報」を学んでしまえば、師は用済みになる。しかし、これでは知的なブレイクスルーは発生しない。理不尽に見える修業の意味は、明示的ではないものを含め全世界に対し、オープンマインドであれということだと。
中野:ただ、残念ながら、信じてはいけない教授、指導を受けてはいけない教授もいることが、このコロナ禍で明らかになってしまいました。あれだけデタラメな言論を展開していれば、研究室の学生にもデタラメを教えているに決まっている。
適菜:また、そこに戻りますか。
中野:どうしてもそこに戻ってしまう。(笑)
適菜:この対談では素読の効果についても語ってきましたが、「論語の意味とはなにか」と小林は問いかけます。
《素読教育を復活させることは出来ない。そんなことはわかりきったことだが、それが実際、どのような意味と実効とを持っていたかを考えてみるべきだと思うのです。それを昔は、暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは、悪い合理主義ですね。『論語』を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだというが、それでは『論語』の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかもしれない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。
丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。そんなことを言うと、逆説を弄すると取るかもしれないが、私はここに今の教育法が一番忘れている真実があると思っているのです。『論語』はまずなにを措いても、万葉の歌と同じように意味を孕んだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。
「すがた」には親しませるということが出来るだけで、「すがた」を理解させることは出来ない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。実際問題としての方法が困難となったとしても、原理的にはこの方法の線からはずれることは出来ないはずなんです》(「人間の建設」)。「姿」に「馴染む」という形になる知のあり方があるということです。
中野:同じことを、小林が本居宣長の言葉を引用しているので言えば、「姿は似せ難く、意は似せ易し」ということですね。これは「姿」というのを暗黙知と考え、「意」を明示化された理論と考えるとわかりやすい。理論は伝達しやすいけれども、暗黙知というのは、例えば優れた指導教授の持っている体験ですよね。学問を真剣にやってきた人間だけが持っている体験、こういったものは経験の浅い学生では簡単には真似できないんですよ。指導教授が言っている理論の意味をもっともらしく言うことはできる。でも、そこには、指導教授がその理論を導き出した深い経験は含まれていないから、理論を言うだけでは、本物の科学者になっていない。学生は、指導教授に従って、議論の進め方とか実験の仕方とか、科学者としての立ち振る舞いを体得していく中で、科学の暗黙知を体得し、一人前の科学者になっていく。その科学者としての立ち振る舞いが「姿」ですね。指導教授の「姿」を真似しないと科学者として一人前にはなれないのですが、それは理論を口真似するのとは違って、簡単にはできないというわけです。
適菜:小林はフォームとか型とか形とか息づかいを重視します。言葉ではないもので知が伝達されているのなら、現代人の「さかしら」な解釈ではなくて、対象の「形」「姿」が見えてくるまで見るということです。小林はこう言っています。
《宣長は言葉の性質について深く考えを廻らした学者だったから、言葉の問題につき、無反省に尤もらしい説をなす者に腹を立てた。そんなことを豪そうに言うのなら、本当の事を言ってやろう、言葉こそ第一なのだ、意は二の次である、と》(「言葉」) 。ここでいう「言葉」とは「姿」「形」のことです。宣長はまずは「字」を眺めたのです。素行は「耳を信じて目を信ぜず」と言いましたが、小林はこれを古典の訓詁注釈を信じるな、古典という歴史事実に注目せよという意味だと言います。耳を信じるとは努力をしないでも聞こえてくる知識のことであり、目を信じるとは、眼前に見える事物を信じるのではなく、「心の眼を持て」ということだと。「眼光紙背」という言葉があります。背後にあるものを見抜くという意味です。表面的な「意」だけを重視し、「姿」を軽視する世の中を小林は批判したのです。
(続く)