なぜ人を傷つけてはいけないのかがわからない少年。自傷行為がやめられない少年。

いつも流し台の狭い縁に“止まっている”おじさん。50年以上入院しているおじさん。「うるさいから」と薬を投与されて眠る青年。泥のようなコーヒー。監視される中で浴びるシャワー。葛藤する看護師。向き合ってくれた主治医。「あなたはありのままでいいんですよ」と語ってきた牧師がありのまま生きられない人たちと過ごした閉鎖病棟での2ヶ月を綴った著書『牧師、閉鎖病棟に入る。』が話題の著者・沼田和也氏。沼田牧師がいる小さな教会にやってくる人たちはどんな悩みをもっているのだろう? じつは、沼田牧師には、以前にツイッターに強く依存していた時期があったという。そのときに顔の見えない相手に対して感じた怒りとは何だったのか? ソーシャルメディア時代だからこそ、いちどは立ち止まって考えてみたいコミュニケーションの本質とは?



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 拙著『牧師、閉鎖病棟に入る』のなかで、わたしは自分がツイッターに強く依存していたことを書いた。当時わたしは引っ越してきた土地に馴染むことができず、いつも「園長先生」と呼ばれるなか、名前を呼びあって気安く話せる友だちもいなかった。

しかしツイッターであれば──わたしは実名アカウントを作っていたのだが──牧師でも園長でもなく「沼田さん」と呼んでくれる人たちと交流を持つことができた。それは安らぎであった。実名でアカウントを作ったのは教会を知ってもらう、つまり伝道をするためである。ようするに仕事用のアカウントだったわけだが、そこが唯一の安らぎの場になってしまうというのが、なんとも皮肉なことであった。



 



 ツイッターを使うようになるまで、そもそもわたしは今までの実生活において、何百人もの人々と親しくなったことがなかった。今までの人生で友だちになった人を全員あわせても、せいぜい十数人ではないだろうかと思う。いや、よく遊びよく話した友人に限って言うならば、ほんの数人ではないか。それくらいの人数がわたしの人づきあいにおける、本来の許容量なのだと思う。しかしツイッターでは、友人という定義に当てはまるのかどうかはともかくとして、とにかく何百人もの人々と交流をしている「つもりにはなった」のである。



 



 だがツイッターにおいては、相手の生い立ちも性格も、ましてや顔も本名も、わたしは知らない。なにも知らない中で、わたしはさして緊張感もなく言葉を発するわけである。その、なにげない一言が相手を怒らせることがあると気づくまでに、ずいぶんな時間を要した。

相手もまた、わたしの実名は知っているかもしれないが、わたしの来歴や性格など知るすべもない。相手がわたしに特定して言ったのではない場合でも、わたしは自分への当てつけだと思い込み激怒することがあった。それは第三者から見れば馬鹿げたことであるし、病的とさえ見えるだろう。ツイッターにしか依存先がなくなったとき、ツイッターはわたしにとって逃避世界でもなんでもなく、現実そのものになった。だからそこで怒りを感じてしまうと、食事をしているときにも、トイレや風呂に入っているときにも、それを引きずってしまったのである。



  



 



 ツイッターで「つながる」というとき、その「つながり」とはなんなのか。わたしには今、ツイッターをとおして知りあった、かけがえのない友人や知人が何人かいる。たしかに、きっかけはツイッターである。しかし、そのあとで機会を見つけて、わたしはその人たちと実際に会うことができた。一度でも会うことができた人の印象は、ツイッターだけで交流していたときとはまったく異なる。あるとき、知人の一人と、ツイッターで真っ向から意見が衝突したことがある。しかしその人とわたしは食事をしたことがあった。

たった一回だけである。そのときの相手の感じのよさ、わたしへの歓待の心遣い。そのことを想いだすにつけ、ああ、この人は口先だけでこんなことを言ってるんじゃないよなと、しみじみと思わされるわけである。だからわたしはその人と意見が衝突してもブロックはしない。しないというより、できないのだ。またそのうち会いたいな。会って話したいな。そう思えるからである。もしも一度も会ったことのない、あくまでツイッター上だけでやりとりしている相手なら、わたしはその人との関係を切ってしまうだろうと思う。



 



 ツイッターをとおして分断が深まったという言説をしばしば見かける。わたしからすれば、当然のことだろうと思う。一生会うこともない人間を相手に、必死で関係を修復しようとする理由を見いだすことは難しい。

人生のなかでなんら具体的な接点を持たない、どこの誰かも分からない人から不快に──そう、意見の中身は重要ではない。快か不快かの問題である──させられたとき、なぜこちらから譲歩しようとか、再考してみようとか思うだろうか。不快なのだからブロックするか、あるいは、あまりにも不快なので、相手に怒りをもって反論するか。そうなるのは自然なことである。相手との関係を維持することには、自分の意見を一時的にせよ保留したり、ときにはやむを得ず撤回や妥協をしたりすることも避けられない。それは言論の自由という概念とは別の、肉体対肉体の関係に関する問題なのである。人づきあいにおける言論の自由。そして、ときに怒りをはらみつつ対峙する相互の肉体。わたしたちはそのはざまにおいて、緊張にさらされる。



 



 私見では、孤立している人がツイッターなどのSNSのみで誰かと「つながった」としても、孤立は孤立のままである。孤立が埋められ、少なくとも「わたしは孤独なのです」と語り始められるようになるためには、孤立から孤独への移行が必要である。孤独を抱えたわたしが、その孤独を誰かに話す。

話し相手は、「そうだよね。つらいよね。じつはわたしも、孤独なんだ」と応答してくれる。それは、表情など言葉以外のものを伴った出来事でなければならない。顔だけでも考えてみればよい。どんなに若い人であっても、その人の生きてきた生活の積み重ね、癖、つまりその人の個人史が、その顔には刻まれている。自分の過去を言葉で吐露することだけが、自分をさらすことではない。相手に対して顔を見せるという行為がすでに、自分の来歴を相手にさらしていることである。しかもそちらのほうが言葉よりも雄弁であることがある。顔には表情、それも喜怒哀楽という四文字ではとうてい語り得ない動きの連続があるからだ。



 





 一生会うことのない人とツイッターで言い争うとき。孤立した肉体には怒りが吹き溜まる。

割り切れる人もいるだろう。だが、割り切れる人の多くは、すでに孤立していない人ではないだろうか。そういう人は、自分以外の誰かとの、顔を見せあうつながりをすでに持っているのではないか。人数の問題ではない。何百人もの顔も知らない誰かではなく、たとえ本名さえ知らないとしても、それでもじっさいに顔をあわせて語りあうことのできる、たった一人の誰かがいるかどうかが問題なのである。ツイッターで「論破した」と見事な理屈で言い張るよりも、どうでもよいことを、いや、ときにはため息一つだけを共有できる、そんな誰かがいるかどうかが大切なのだ。



 



 教会に初めて訪ねてくる人と、わたしはいつでも濃密で深刻な話をするわけではない。ときには何時間も「つまらない」話をして終わることもある。だから、もしもその話題をツイッターにつぶやいたとしても、それはとても「つまらない」話題である。しかし、その人の来るときの表情と、帰るときのそれとはぜんぜん違う。教会に重い荷物を置いていったように、軽々としている。わたしはその人の顔から、その人の語りえぬ人生の積み重ねを読み取った。相手もたぶん、やはりわたしの顔から、自分の話を真面目に受けとめようとしている他者の存在を読み取ったのだ。話題が話題として雄弁であるかどうかは、そこでは関係ないのである。



 



 半世紀以上昔は、人と人とのつながりからいかに自由になるか──しがらみからの脱出──が重要だったこともある。そして今、多くの人がしがらみからの自由を、ある程度達成できた。けれどもそれと引き換えに、孤立する人が増えてしまった。しがらみのない、さっぱりとした人間関係は、自分から維持しようと思わない限りは、それこそさっぱりと消えてゆく。ツイッターで意見が衝突してもなんとか維持しようと、わたしが「しがらんで」いる相手は、一度でも会ったことがあり、この人にはなにか魅力があると思った人である。「しがらむ」ためには、自分の意見をある程度控えたり、言いたいことを我慢したりすることもある。衝突を恐れず言いたい放題主張するのとは違う、じつにめんどうくさい態度が要求されるのだ。けれども、しがらんでみるだけの値打ちもじゅうぶんあるということ。それが、教会というしがらみに囚われながら、そこに捨てがたい魅力を感じてもいる、わたしからのささやかな主張である。





文:沼田和也



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