声優・浅野真澄(文筆家名義・あさのますみ)が体験した「大切な人の自死」。喪失して初めて気付いた「あの人の存在」の大きさ。
「私も、身近な人を自死で亡くしているんです」
「実は、もう消えてしまおうと真剣に考えていた時期があります」
この2ヶ月、多くの人から打ち明けられた言葉だ。
2021年6月。私は、随想録『逝ってしまった君へ』を上梓した。
学生時代から付き合いのあった友人が、鬱を患い、ある日突然自ら死を選んだ。連絡を受けた日から、告別式、遺品整理など、そのとき起きたこと、感じたことをなるべくありのまま書いた。友人との思い出や、かつて交わした言葉、遺書に書かれたメッセージ、私自身の過去についても、ありていに綴っている。
たとえ多くの人の心には刺さらなくても、もしかしたらどこかに、ここに書いたことを必要としている人がいるかも知れない。そういう人に届けばいい――そんな思いだった。それは、友人を失ったあと私自身が、自分の痛みや喪失感についてなかなか周囲に話せず、言いようのない孤独を感じたからでもあった。経験を言葉にすることで、誰かの気持ちをほんのひと時でも軽くすることができたら、と思ったのだ。
本を出版して、約2ヶ月。
予想よりはるかに多くの人が、先述の言葉を口にすることに驚いた。直接感想をくれた人の、おそらく8割にせまると思う。
中には、話しながらぽろぽろと涙をこぼす人もいた。それまで笑顔しか見たことがない人だった。ずっと引きずっていた三十年前の家族の死を、この本を読んでやっと受け止めることができたと教えてくれた人もいた。逝ってしまった理由が未だにわからないと、視線を落とす人もいた。「死」や「鬱」は、想像していたよりずっと、私たちのすぐ隣にあるのだと、何度でも思い知らされる2ヶ月間だった。
4人に1人が、身近な人を自殺で失った経験がある――そんなアンケート結果があると知ったのは、だいぶ経ってからだった。
私は、自身の経験を話してくれた人たちの、表情一つひとつを覚えている。忘れられない、と言った方が正しいかも知れない。その人が選んだ言葉や、声のトーンまでもが、消えずにずっと残っている。
けれど、それでも私は、『逝ってしまった君へ』を形にしてよかったと思っている。
いろいろな人と交わした、決して明るいとは言えない言葉の数々が、気づくと私の体をほのかに温めているのだ。ここから先の人生を照らす、小さな光のようになっているのだ。不謹慎だと言われるだろうか。でも、これが偽らざる本心だ。
なぜか。それは私が、手を伸ばせば届くところにまだ開けていない扉があると、知ったからだと思う。
ふり返ると私は、今までの人生で二度、深い孤独を味わった。
一度目は、実家の貧しさに悩んでいた、学生時代。
洋服も、学校で必要な教材も買えない家庭環境が恥ずかしくて、いつも小さくなっていた。
二度目の孤独は、そんな特別な友人を、突然自死で失ったとき。
苦しかった。途方に暮れた。私は、一度目に孤独を感じたときと同じように、口をつぐんだ。きっと話したって伝わらない、と思った。
けれど。長く悩んだあと、自分の身に起きたことをありていに綴ろうと決めた。かつて「君」に孤独を打ち明けたときのように、ありのままをまるごと伝えた。
「実は自分も」
と、心のうちを見せてくれた。中には、長いこと知り合いだったのに、はじめてそういう話を打ち明けてくれた人もいた。私たちは、お互いに孤独を感じていたのに、それを抱え込んだことで、すぐ隣にある痛みにも気づかずにいたのだ。
私はきっとこれから先も、人生の中で、いくつも別れを経験するだろう。
絶対に失いたくないと思うなにかを、失う日が来るだろう。どんなに注意深く生きたとしても、喪失や絶望を、完全に回避することなどできないだろう。
けれど、そういうときにきっと、私は今回のことを思い出す。
たくさんの人が、思いつめたまなざしで、辛い経験を話してくれたこと。その言葉の一つひとつが、暗闇からすくい上げたような切実な光を放っていたこと。自分のすぐ隣にいる人が、実は同じような痛みを感じていたこと。その痛みに共鳴して、私の目頭が熱くなったことも。
心の柔らかな部分を言葉にするのは、とても勇気がいる。
生きることは、別れや痛みとともにある。そんな私たちにとって、その光が唯一、ここから先の道を照らす灯になるのだと、今私は思っている。
文:あさのますみ