死のかたちから見えてくる人間と社会の実相。過去百年の日本と世界を、さまざまな命の終わり方を通して浮き彫りにする。

第11回は1985(昭和60)年。異形の芸人と海外にも知られた歌手、芝居と恋に生きた美人女優の最期である。





■1985(昭和60)年たこ八郎(享年44)坂本九(享年43)夏目雅子(享年27)



 今夏の民放連ドラで最もヒットしたのが、日曜劇場「TOKYO MER~走る緊急救命室~」(TBS系)だ。終盤には、主人公の妹がテロリストに殺される。若くて可憐で天真爛漫だったヒロインの死は予想外で、大きな衝撃をもたらした。これはフィクションだけとは限らない。現実においても、死は予想外であるほど衝撃的で、印象に残りやすいものだ。



 そんな予想外な死が、相次いだ年がある。1985(昭和60)年だ。



 まず、7月24日、コメディアンのたこ八郎が44歳で亡くなった。焼酎を飲んで海で泳いでいるうちに、心臓麻痺を起こしたらしい。







 たこは元ボクサーで、日本フライ級チャンピオンまで登りつめた。

劇画「あしたのジョー」の主人公のモデルともされる。相手に打たせるだけ打たせ、疲れたところを仕留めるという戦法を得意としたが、それが祟り、パンチドランカーになって引退した。その後もおねしょや物忘れに悩まされ、鍋を作れば食材と間違えて財布を入れるほどボケていたという。



 ただ、このボケっぷりがコメディアンとしては得難い味となる。タモリら才人に愛され、バラエティーの「今夜は最高!」(日本テレビ系)や映画「幸福の黄色いハンカチ」などで活躍した。



 しかし、売れっ子となったことがストレスを生んだのか、晩年は酒浸りに。それが死にもつながったわけだ。



 とはいえ、死の直前、彼は恩人たちに暇乞いのような行動もしていた。たとえば、芸人として芽が出る前に面倒を見てもらった作家の団鬼六には「久しぶりに仲間と真鶴の海で泳いできます」と電話。その海で亡くなることになる。以下は団のコメントだ。



「たこと過ごしていた頃、私の本宅は真鶴にあって、週末にはよく私の息子を海水浴に連れていってくれた。

いわば青春の思い出の場所だったのです」(週刊文春)



 そんな謎めいた結末を迎えた人生だが、それはよくできたコントのようでもある。たこが海に還るとは、なんと見事なオチだろう。と同時に「めいわくかけてありがとう」という美しい詩のような名文句も遺した。また、岸本加世子はデビュー作となったドラマ「ムー」(TBS系)で共演した際、将来への不安をもらしたところ、たこに困った顔で「ガンバッテ」と励まされ、気が楽になったと明かしている。



 ちなみに、たこはボクサー時代、風貌と本名から「河童の清作」というあだ名で親しまれた。亡くなった7月24日は河童好きで知られた作家・芥川龍之介の命日、いわゆる「河童忌」でもある。





「海に還ったたこ八郎、空に消えた坂本九、佳人薄命の象徴となっ...の画像はこちら >>



■日航機墜落事故の犠牲者となった坂本九



 その翌月には、歌手・坂本九が43年の生涯を閉じた。8月12日に起きた日航機墜落事故の犠牲者となったのである。死者数520人は単独機の航空事故として今も世界一の数字。東京発大阪行きの便だったことから、著名人の乗客も多く、その代表が坂本だった。



 ただ、坂本の妻は事故が起きた直後、夫が犠牲になっているとは思っていなかったという。彼が常に全日空を使っていたからだ。

しかし、お盆の時期で飛行機の予約が混み合っており、ようやく取れたのがこの日航の便だった。彼の出世作のひとつに洋楽をカバーした「ステキなタイミング」があるが、このいきさつを知ったとき、なんというバッドタイミングかと感じたものだ。



 なお、歌手・坂本九の全盛期は1960年代。代表作「上を向いて歩こう」は61年から翌年にかけて日本で1位になり、63年には「SUKIYAKI」のタイトルで全米1位となった。周知のとおり、日本人歌手唯一の偉業である。



 他に「見上げてごらん夜の星を」「明日があるさ」「涙くんさよなら」といったヒット曲を出し「NHK紅白歌合戦」には61年から71年まで連続出場した。



 とはいえ、64年生まれの筆者にとっては、NHKの連続人形劇「新八犬伝」(73~75年)での姿が印象的だ。語りと歌を担当し、エンターティナーぶりを存分に発揮した。オーディション番組「スター誕生!」(日本テレビ系)の3代目司会者でもあり、彼の時代に中森明菜が巣立っている。



 また、亡くなる2年前には覆面歌手「XQS(エクスキューズ)」として発表した「ぶっちぎりNO文句」が歌謡曲マニアに注目された。目と口にだけ穴をあけた紙袋をかぶり、スーツ姿で踊りながら歌うプロモーションビデオはインパクト抜群。レコードジャケットには、こんなキャッチコピーが記されていた。



「みんなみんな知っている、だけど誰だかわからない。だ、誰だ!」



 たしかに、彼の独特な歌唱法は多くの日本人の耳にこびりついており、面白い仕掛けだったといえる。



 死後の坂本は全米1位の偉業だったり、熱心に取り組んだ慈善活動だったりが語られがちだが、そんな遊び心も持つ人だった。あの「タイミング」が「ステキ」なほうにずれていたら、もっとさまざまな活躍を見せてくれたことだろう。







■白血病による27歳の夭折、夏目雅子



 さらに、その翌月には、女優の夏目雅子が帰らぬ人となる。白血病による、27歳での夭折だ。



 亡くなった9月11日は「ロス疑惑」の三浦和義が逮捕された日でもあり、メディアはごった返した。が、彼女の死の衝撃がうすれることはなく、むしろそのコントラストにより、儚い悲劇性がより際立った感もある。



 当然ながら、彼女の活動期間は短く、丸9年にも満たない。女優デビューは76年9月で、病に倒れ、最後の舞台を降板したのは85年2月だ。



 ただ、そのあいだにいくつもの作品で鮮烈な印象を残した。ドラマなら「西遊記」(日本テレビ系)に「野々村病院物語」(TBS系)映画なら「鬼龍院花子の生涯」に「瀬戸内少年野球団」。

NHKの大河ドラマにも3作出演していて、最初の作品が「黄金の日日」(78年)だ。これが現在、BSプレミアムのアーカイブ枠で再放送中だったりする。



 彼女が演じたモニカは敬虔なクリスチャンだが、根津甚八扮する石川五右衛門に犯され、恋に落ちたあと、非業の死を遂げる。初期の彼女は「お嬢さん芸」などと揶揄されてもいたので、そう思って見ていると、どうしてどうしてちゃんとしている。体当たりで濡れ場に挑んでいるあたり、いわゆる女優根性というやつをひしひしと感じるのだ。



 そう、彼女の武器は美貌だけでなく、エネルギッシュな熱情だった。たとえば、闘病中、立原正秋の小説「春の鐘」が古手川祐子主演で映画化されたことを知ると、自分がやりたかったと悔しがったという。



 立原は朝鮮の血をひく作家で、不倫などの愛憎モノを得意としていた。そして、夏目は私生活において在日韓国人の作家・伊集院静と不倫の末、結婚。いわゆる不義の子を何度も中絶したことも明かされている。そういう愛憎の世界なら自分のほうがリアルに演じられるという自負もあったのだろう。



 とはいえ、そういう人だけに、長生きしていたら薄幸の美女ではなく、魔性の悪女というイメージをふりまいていた可能性もある。

不幸にして、伊集院との結婚生活は1年ちょっとで終わったが、彼女が白血病にならなかったら、別のかたちで途切れた気もしなくもないのだ。



 しかし、彼女は夭折した。それゆえ、こんなエピソードも清らかな印象をかもしだす。子役時代「瀬戸内少年野球団」に出演した山内圭哉が明かした話だ。



「ロケでずっと旅館におるんですけど、男湯が1階で女湯が真上やったんですよ。お風呂場で騒いでたら『うるさい』って声が聞こえて、窓をのぞいたら、ハダカの夏目さんが『うるさいよ、あんたたち』って。で、スタッフのお兄ちゃんたちが色めき立って『お前、行って来い』と。洗面器渡されて『お湯、持って帰って来い』と。『子供行かせてもいいですか』『いいよ』って。それで『どうやった?どんなんやった?』ってお兄ちゃんたちに聞かれて、僕は苦しまぎれに『ハート型やった』って言ったら『ほー、ハート型や』って」(「帰れマンデー見っけ隊‼」初回3時間スペシャル」テレビ朝日系)



 山内はこの番組に、波瑠とともに出演。NHKの朝ドラ「あさが来た」で共演した関係だ。「波瑠ちゃんとお仕事したとき、夏目さんに似てるな、と思った」とも話していた。じつは朝ドラの2年前、波瑠は伊集院の自伝的小説の実写化である「いねむり先生」(テレビ朝日系)で夏目をモデルにしたマサコを演じている。



 それにしても、たこ、坂本、夏目はわずか50日のあいだに亡くなったわけで、これほど有名人の予想外の死が相次ぐことは珍しい。ただ、今となっては三人三様に運命的な必然だったようにも思われる。たこは海に還り「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」の坂本は空に消え、夏目は白血病という悲劇的な病気で佳人薄命の象徴となった。



 いずれも人々の心に若々しい輝きをとどめているのは、せめてもの救いだろうか。ほとんどの予想外の死は、時がたてばたつほど、どこか自然なものとして受け止められるようになっていく。それもまた、せめてもの救いかもしれない。





文:宝泉薫(作家・芸能評論家)



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