昨年もさまざまな死があった。田村正和や千葉真一といった名優、すぎやまこういちや橋田壽賀子などの巨匠、古賀稔彦のような名アスリート、あるいは心療内科クリニックを惨劇に陥れた放火殺人犯。

ただ、有名人の悲劇という点で群を抜いていたのは神田沙也加の最期だろう。



 ミュージカル女優で、声優でもあった彼女は昨年1~3月期のアニメ「IDOLY PRIDE」(TOKYO MXなど)でアイドル・長瀬麻奈を演じた。とはいえ、その出演の大半は幽霊としてだ。初回に交通事故で亡くなるからである。



「麻奈の事故死はその後の報道により、今年最大のニュースになった」



 これは初回に担当マネージャーがつぶやく台詞だが、沙也加自身にも重なる気がしてしまう。もっとも、こちらは事故死ではない。「週刊文春」によれば、遺書もあり、交際中だった俳優・前山剛久宛てのものにはこんな言葉が綴られていたという。



「女性にあんまり強い言葉は使っちゃダメだよ。一緒に勝どきに住みたかった。2人で仲良く、子供を産んで育てたかったです。ただ心から愛してるよ」



 ちなみに、死因は外傷性ショック。15センチ程度しか開かない窓から6階分下に転落したことによるもので、解剖の結果、事件性はないことも発表された。



 そんな死ではあるが、最近は厚生労働省の意向もあり、メディアの報道にさまざまな配慮が施されている。そのひとつについて、雑誌「創」の篠田博之編集長はこういう指摘をした。



「異様なほど目に付いた『いのちの電話』の告知にしても、自殺か事故死か明示しないという報道にあれだけ付け加えてしまえば、別の意味合いを生じてしまう」



 これにはなるほどと感じる人も多いのではないか。テレビでもネットでも、最後にとってつけたように置かれるあの告知は、どこか思考停止による選択にも思われ、むしろ違和感を抱かせた。



 そして、筆者には別の違和感もある。沙也加の35年の人生に大きな影響を与えたであろう両親の生き方、とりわけ、母・松田聖子の自由奔放な男性遍歴について、スルーするなど、ぼかして報じるメディアが目立つことだ。





 これはもちろん、遺族を思いやるという優しさの反映でもあり、同時に、保身の結果でもあるだろう。詳しく報じると、聖子を責めているみたいになり、同情的な世間を敵に回しかねないからだ。それらがあいまって、正義としての忖度が働いていると考えられる。



 にもかかわらず、そのあたりをぼかしても報道が成立するのは、世間の「やっぱり感」を当てにできるからだ。聖子の不倫や最初の夫・神田正輝の女遊び、沙也加が中学で経験したイジメなどなど、さんざん報じられてきたため、沙也加の離婚や不倫、さらにはその最期についても、いろいろあって彼女も大変だったのだろうな、というコンセンサスが自然とできあがっている。メディアにしてみれば、この状況下であからさまに報じれば面倒になることをすっ飛ばしても済むわけだ。



 ただ、それでいいのかという思いも禁じ得ない。「やっぱり感」を当てにするやり方は、受け止める人のイメージに左右されすぎるからだ。ちゃんと伝えたいことがあるなら、どう「やっぱり」なのかを具体的に挙げたほうがよいではないか。



 たとえば、筆者は当サイトで年末に書いた「『聖子の娘』という宿命、神田沙也加、国民の『マイフェアレディ』として生きた35年の葛藤」という記事のなかで、聖子との不倫を告白した米国人俳優、ジェフ・ニコルスの『真実の愛』に出てくるエピソードを紹介した。



 それは夫婦が別居したあと、聖子と沙也加が住む家にジェフが来ていたとき、正輝が様子を見に来て一緒に飲むことになり、その際、幼い沙也加が父親ではなく、愛人のほうになついていたというものだ。沙也加が生まれ育った「特殊な環境」の一例を挙げるための紹介だった。



 とはいえ、聖子もそんな「特殊な環境」が娘にもたらす悪影響については心を痛めていた。自分自身が米国での活動のため、留守にしがちなこともあって、ジェフにこんな悩みを打ち明けたという。



「娘も学校でいろいろ問題があるみたい。母親も父親もそばにいないんですものね」



 じつは不倫の背景にも、夫婦関係の冷却化がもたらした新たな恋への欲求、いわば、そういう情熱的なものがないと生きていけないアーティスティックな業があった。そんな自分を持て余しつつ、母親としては娘に申し訳ないという呵責の念にかられていたことが、この本からも感じられる。



 そのあたりをちゃんと伝えないことには「NHK紅白歌合戦」を辞退したほどの聖子のつらさも深い部分で理解されないと思うのだ。





 なお、衝突と和解を繰り返したこの母娘はここ数年、没交渉だったようだが、遺伝子を引き継ぎ、似た人生を歩みつつあった沙也加は聖子のこともある程度、許容できつつあったのではないか。恋に翻弄されながらも、芸に生きる母のたくましさは、娘にとって道標にもなり得たはずだ。



 しかし、彼女が出演したある番組を見返していて、ちょっと絶望に近い思いにとらわれた。2015年3月放送の「A-Studio」(TBS系)だ。前年に大ヒットしたアニメ映画「アナと雪の女王」により、評価を高めていた時期とあって、トークからは自信がうかがえたものの、番組終了後、次の番組「NEWS23」の特集企画の予告が流れたのである。



 それは「教祖の娘 素顔で語るオウムと父」という、麻原彰晃の三女へのインタビューだった。その瞬間「子供は親を選べない」という世の真理が思い浮かんでしまったのだ。むろん、麻原がやったことは聖子とは違うが、ともに歴史に名を残す存在ではあり、そういう人の子供に生まれるのはなんにせよ大変なことだろう。



 そんな親のパワーに翻弄されないためには、同等以上のパワーが必要かもしれない。同じ業界で生きようとするならなおさらだ。聖子のパワーと同等というのは、あまりにもハードルが高すぎる。



 そういう意味で、沙也加はよく健闘したし、聖子も、そして正輝もやれることはやったのではないか。

頑張ってもどうにもならないことも、世の中にはあるものだ。



 ともすれば違和感もある報道のなかで、この死には、そんな「やっぱり感」を抱いてしまう。哀しみとともに、それはずっとくすぶり続けるのかもしれない。





文:宝泉薫(作家・芸能評論家)

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