「バカとは、自分をヘビだと勘違いしたミミズ」「人間はみなダメです。(中略)ダメなのは、何も知らないことではなく、知るべきことを知らないことです。
「世界のエリートはみなヤギを飼っていた」■第2回 レイの不吉な火曜日
火曜日は不吉だ。
混雑した電車のドアに押し付けられ、流れていく雑居ビル群を眺めながらレイはつぶやいた。
そう、たいてい面倒が起きるのは火曜日だ。
過去に交通事故にあったのも、ふられたのも、財布を失くしたのも、なぜか火曜日だった。
そして、今日はといえば、先ほどから腰からお尻のあたりに不審な圧迫感がある。
最初はほとんど動かなかったその圧迫感が、電車の揺れに合わせて小さな輪を描きはじめた。
自然な揺れをよそおっているのだろうが、不自然きわまりない。
おぞましい火曜日。
密着を避けなくてはならないこの時期に、なんてやつだ。
怒りがこみ上げてきて、レイは舌打ちした。
背後の動きが止まった。
車両がカーブにさしかかってがくんと揺れた。
それに合わせてふたたび輪を描くような感触があった。
どこで線路がカーブし、どこで電車が揺れるのかも計算済みらしい。
C感染症の流行がはじまってから、電車が空いて痴漢も激減した。その点だけはレイはC感染症に感謝していた。
今日の火曜日をとどこおりなく過ごせたら、レイは、それを祝して美容院で髪をセットするつもりだった。
それから、前からほしかった私の好きなアクアマリンをあしらったネックレスを買って、来週は婚活サイトのオンラインパーティーに参加する予定だった。そこで完璧な出会いが待っていないはずはなかった。
だが、それには火曜日が不吉であってはならない。
今日をクリアすれば、自分は火曜日の呪いから解放され、明るい未来が待っている。なぜか、レイはそう確信していた。
そのためにこれまで努力もしてきた。
痴漢にねらわれないように、おしゃれも化粧もせず、髪も中学のときのような、ぼさぼさのおかっぱ頭にして、自分をダサく見せるよう努めてきた。
ずぼらだからではなく、わざとそうしているのだ、とレイは自分にいい聞かせてきた。
それは輝かしい未来を切り開く遠大な計画への布石だった。
ところが、その計画をこいつは台無しにしたのだ。
痴漢されたことことより、乙女の涙ぐましい努力と計画をつぶされたことががまんならなかった。
許せない。
レイはバッグから先の鋭く尖ったピンセットを取り出して握りしめた。
車両が揺れて背後の圧力が強まったときを見計らって、その手を後ろにまわし、気持ちの悪い感触のするあたりに器具を突き立てた。
「うっ!」
押し殺すような呻き声とともに圧迫感が消えた。
レイは手にしたものを無言でバッグに戻した。先が鈎状になった医療用のピンセットだった。
電車を降りると、むっとした夏の空気が全身を包んだ。熱気の立ち上る道路を足早に職場へと向かった。腹立たしさはまだ収まらなかった。
まもなく道の向こうに白い四階建ての建物が見えてきた。
建物の屋上に「医療法人 鶴亀病院」と書かれた看板が見える。
「亀」の文字の書かれた看板だけ、留め金が外れているのか、右下に傾いている。
ナースの間では、あの亀の看板が下に落ちたときに、この病院はつぶれると噂されていた。そういわれながらもう十年くらいあのままだという。
レイは建物に入り、更衣室で白衣に着替えた。
急患らしい。
「レイ、おはよう!」
すれちがいざまにスズメがレイの肩をたたいた。
一瞬合ったスズメの目にどこか喜々とした表情が浮かんでいるのをレイは見逃さなかった。
交通事故かな、とレイは思った。
救急科のナースのスズメはふだんは無表情で淡々としている。急患があってもあわてたりすることはない。でも、交通事故のときだけは目の色が変わる。本人曰く、頭が割れていたり、手足がありえない方向に曲がったり、ちぎれかけていたりするほど、やる気が湧いてくるのだという。
要するに、スズメは変態なのだ。
そのとき、走り去ったと思っていたスズメに背後から声をかけられた。
「レイ、ごめん、手が足りないの。
時計を見ると、まだ時間にはゆとりがあった。
「うん、いいよ」
病棟ナースのレイが救急救命室の仕事を手伝うことはふだんはない。しかし、C感染症の蔓延がはじまってからスタッフが次々にやめて、どの現場も人手が足りず、救急救命室もその例にもれなかった。
「この前入ってきた子、もうやめちゃったんだよね。ま、気持ちはわかるけど」小走りで救急搬送口へ向かう途中、スズメがいった。
レイも田舎の母親から、仕事をやめて帰ってくるようにいわれていた。しかし、就職して二年足らずで、やめるのは悔しかったし、もう一つの目的である都会での「完璧な出会い」の方もまだ始まってもいなかった。少なくとも「亀」の看板が落ちないうちは、仕事を続けるつもりだった。
「交通事故?」レイが聞いた。
「うん」スズメがうなずいた。
レイと同じく、スズメも二年目の新人だったが、その冷静な判断力や的確な処置はすでにベテランナースや医師から信頼されていた。
でも、レイは知っていた。
処置にあたっているときにスズメの顔に浮かぶ陶酔したような表情を。
いちど直接聞いたことがある。
「スズメって、ひょっとして交通事故フェチ?」
スズメは笑った。
「そんなんじゃないわ。私、壊れているものを直すのが好きなの」
「直す?」
「うち小さな自動車修理工場だったんだ。事故車の修理が多くて、ぐしゃぐしゃになった車体を新品みたいに直すところを子どものころ、よく見た。父は、こいつに乗っていたやつは死んじまったけど、車はオレが直してやるんだってよく話してた。本当に嘘みたいに車がぴかぴかに生まれ変わって、しばらくすると、夜遅くに外国人ぽい人が来て車を引き取っていくの」
「それって……」
「そういうの見てて、私なんとなく修理ってすごいって思った」
「でも、修理に憧れてナースになるって飛躍あるよね・・・」
「うーん、父が車直していたから、私、車に乗っていた人を直したいって思ったのかな」
わかったようで、よくわからない。スズメの話はいつもそうだ。それでも、スズメが有能なナースなのはたしかだった。
「お父さんはいまも修理工場やっているの?」
「それがね、突然いなくなったの」
「いなくなったって・・」
「蒸発したの。なにかまずいことがあったみたい」
「まずいこと・・・」
「うん、父がいなくなって数日したら、怖い顔した、たどたどしい日本語しゃべる外国人が来て『オトーサン、ドコデスカ、オトーサン、ドコデスカ!』と問い詰めてきたの。母も私も知らなかったから、首を振り続けていたら行っちゃった。そのあとはもう来なかったから大丈夫だと思う」
「大丈夫って・・それでお父さんは?」
「さあ・・・」
スズメの話はやっぱりよくわからない。
救急搬送されてきた患者はたしかにスズメの喜びそうな状態だった。
頭からかなりの出血がある。足が不自然な方向に曲がっている。右脚と骨盤が折れているかもしれない。
脳や内臓の損傷の程度はまだわからない。
「わかりますか!」
スズメが患者に呼びかける。
呼びかけには応えないが、酸素マスクの中で苦しげな嗚咽をあげている。かろうじて意識はあるようだった。
患者は20歳くらいの男性だった。
腕や足からかなりの出血がある。
搬送先がなかなか見つからず、あちこちで断られたあげく、やっとここにたどりついたらしい。
スズメは血圧や呼吸を確認するだけでなく、手足をさわったり、胸や腹を押して患者の状態をチェックしている。
「血尿が出ているわね、腎臓が傷ついているかも」スズメがいった。
救急外来の若いドクターがかけてきた。
「おそい!」
「すみません……」
若いドクターはスズメの一喝にちぢみあがった。
「レイ、ありがとう。あとは大丈夫」
ドクターとスズメに付き添われて、患者はCT検査室へと運ばれた。あとは緊急手術になるだろう。
病棟へ引き返そうとしたレイに、救急隊員が患者のものと思われるリュックを渡した。ほかにナースはいないので、受け取らないわけにはいかない。
「どんな事故だったんですか?」レイは救急隊員にたずねた。
「高速で逆走して、中央分離帯に追突したようです」
「逆走って・・・この患者が、ですか?」
「はい」
若い男性ドライバーの逆走はあまり聞いたことがない。酒酔い運転だろうか。
「よく助かりましたね」
「車は大破でした。運が強いですよ」そういって救急隊員は立ち去った。
机の上でリュックをひっくり返すと、ペットボトルと財布とスマホが転がり落ちた。目当ては免許証だ。免許証があれば身元が確認できる。
財布の中には現金の他に、歯医者の診察券と「ひつじまみれ」という店のポイントカードもあった。
「ひつじまみれ? どんな店よ」
財布から免許証が転がり落ちた。
つまみあげた免許証の写真を見たレイは、思わず「あれっ?」といった。
「だれだっけ?」
血まみれで酸素マスクをつけていたときには気づかなかったが、免許証の写真はどこかで見覚えがある気がした。
だれだっけ・・・。
名前は「八木劉禅」とある。
「あっ!」レイは声を上げた。「ひょっとしてリュウくん……」
(第3回へ、つづく)