今年1月、文春オンラインに「《「美人」「主人」「奥さん」は使わないほうがいい?》断筆宣言の筒井康隆氏が考える現代の“言葉狩り”」という記事が掲載された。そのなかに、こんな文章がある。



「聞くところによると、いまは『美人』『美女』という言葉は『ルッキズムだ』ということで、使いにくくなっているそうですね。このルッキズムというのも変な言葉ですが、外見至上主義とか、外見にもとづく差別や偏見を意味するのだとか。(略)私に言わせれば、その程度でワーワーと騒ぎ立てるほうがおかしい。それこそ本当の言葉狩りになってしまいます」



 そんな筒井は29年前の時点で「小説に美人が登場しても差別につながるという常識が一般化した社会を想像する」と書いていた。言葉狩りという問題に人一倍敏感な、この作家ならではの虫の知らせだろうか。



 実際、それが杞憂ではなかったことを示すような騒動も起きている。北京五輪のクロスカントリーで銅メダルを獲得した米国の女子選手について、米紙が賞賛した記事がバッシングされたのだ。その原因となったのは、こんな文章である。



「スポーツにおいて、とても多くの女性ががっしりとした肩や太ももを有しているが、ディギンズはレーススーツを着ていると、まるで妖精のように見える。彼女のどこにそんなパワーが秘められているのかは分からないが、たしかに存在するのだ」



 これが他の選手だけではなく、彼女本人をも傷つけるものだとする批判が飛び出した。もはや、容姿について語ること自体が悪とでもいうような風潮が、一部とはいえ生まれ始めているようだ。



 褒めてもダメなら、けなせば当然叩かれる。

昨年、大リーグでも活躍した野球評論家・上原浩治をめぐる騒動を覚えている人もいるだろう。テレビ批評などで知られる作家・麻生千晶がネットニュースのコラム(ここでの筆名は黄蘭)で解説者としての上原に言及。「筆者は彼の顔が苦手で、余り好意をもっていなかった」としながらも「引退後の上原は美醜に関係がなくなり、発言もしっかりしてきた」「単純に面白かった」と評価したのだが――。



 これに対し、上原本人が「ブサイクでも野球頑張りました」「自分のことを言うのはまだ我慢します。ただ、容姿について、顔が苦手とか、好意を持ってないとか...親に対して失礼かと思うんです」と反発。世間の空気もそれに味方する流れになった。結果、そのコラムだけでなく、彼女のすべての文章がそのニュースサイトから消されたのである。



 そこでふと、気になったのがコラムニストで消しゴム版画家だったナンシー関のことだ。20年前に亡くなった彼女もテレビ批評を得意にしていたが、その芸風において容姿に関する審美眼も大いに活用していた。



 たとえば「人前で歌ってはいけない槇原敬之」と題されたコラムがある。世に出た頃の槇原の容姿がテレビ向きでないとして「表現的に不適切かもしれないが、人種が違う、そこに一緒に並ぶんじゃない、という感じなのだ」と書いた。このコラムでは、槇原以外にも大事MANブラザーズバンドや沢田知可子、楠瀬誠志郎について同様の言及をしている。



 ちなみに、彼女は子供の頃、郷ひろみの大ファンで、



「小学生の中学年ぐらいまで、ほんとに好きだったんです。部屋にポスター張ってたし」(週刊朝日)



 と、明かしている。物書きになってからも、ブレイク当時の神田うのの容姿を高く評価するなど、なかなかの美形好きだった。とはいえ、プロレスラーや凶悪犯罪者の容姿についてもその個性をいろいろ面白がっていたから、必ずしも美醜だけを基準にしていたわけではない。実際「歌番組不在の時代が生んだ『人前で歌うべきでない』歌手たち」というコラムでは、人前で歌っていい顔について「『歌う』という娯楽の一種で人にお金を払わせる、そのことに疑いを持たせない顔」だと定義づけている。華の有無とか笑えるかどうかなどをひっくるめた独自の基準を持っていたのだ。そういう意味で、彼女の死後、かつての冴えない好青年的イメージから怪しい芸術家的イメージに変化した槇原のことなら「人前で歌っていい」と思えたかもしれない。





 他にも、アイドルだったともさかりえを「顔が曲がっている」と指摘したり、アナウンサーの軽部真一を「目に愛嬌のカケラもないので」「一生ブレイクしない」と断言したり、棋士の林葉直子を「老け顔美人棋士」、宇宙飛行士の向井千秋を「妙に若いがその印象はとっちゃん小僧的だ」などと茶化したり。失脚して泣いた総理大臣の宮沢喜一についても、



「まだ羊水に濡れている赤ん坊の頭の形だ。眉毛も薄い。目もいつも半開き。(略)東北地方では痴呆老人のことを『二度童子(わらし)』と呼ぶらしいからな」



 と、いじったりした。



 作品を論じるにあたっても、月9ドラマの「いつかまた逢える」(フジテレビ系)について、福山雅治よりも椎名桔平の役のほうがカッコいい設定であることに物言いをつけた。「(椎名は)顔がデカいんだもの」として、キャスティングのバランスがおかしいとする不満を述べるなど、彼女においてルッキズムは逆にないがしろにはできないものだったのだ。



 なお、こうした芸風が許されたのは、彼女がいわば「ルックス弱者」だったことも大きい。同じ青森出身で、版画という共通点もある棟方志功にもどこか似た風変わりな容貌に、彼女の後継者というべきマツコ・デラックスにも通じる肥満体。ある意味、常人離れした雰囲気を醸し出すことで、その芸風をサンクチュアリ化していたといえる。



 ただ、そうは言っても、その容姿をいじられるのはやはりイヤだったのだろう。デーブ・スペクターのことを「面白くない」と書き、デーブから反論されたことへの返答として、彼女はこんな異議を申し立てた。



「あとさ、落とし込みみたいなとこに『太ってる』ばっかり持ってこられてもねぇ。昨日や今日急に太ったワケでもないし」



 もっとも、これは彼女が容姿いじりをモラル的に糾弾したということではない。その怒りはなるべく抑えつつ、反論として芸がないと皮肉ろうとしたわけだ。一方、デーブにも一理あると思うのは、ナンシー関の芸風とその容姿は絶対に切り離せないものだからである。それこそ、太るのにも理由があるし、期間がかかる。

彼女の感性同様、体型も理由と期間によって育まれてきたのだ。



 そもそも、人間の本質に迫ろうとすれば、見た目にも当然こだわることになる。本質と見た目は無縁ではなく、本人も他者も見た目を意識しながら生きているし、見た目は人と人の関係性にも大きく影響するからだ。それがわかっているから、彼女もルッキズムをないがしろにしなかったのだろう。





 ところで、筒井はこんなことも言っている。



「僕は基本的に『表現は自由だ』という立場です。『美人』でも『美女』でも使うのは自由だし、気に食わないのであれば『おかしい』と言って騒ぐのも自由です」



 要するに、おたがい好きにやればいいということで、ナンシー関とデーブ・スペクターの場合はそれにあたる。片方の自由を尊重せず、大量の記事が消える事態となった麻生千晶と上原浩治の場合とは大違いなのだ。



 さらに筒井は、自身の執筆活動についてのこんな事情も明かした。



「いま僕には誰も何も言いません。昔は出版社の校正者が、原稿に『この表現でいいですか?』と赤ペンで書きこんできましたが、ここ10年はなにを書いても、校正者の書きこみはないし、編集者も何も言わない。もうじき死ぬと思われているのでしょう(笑)。

この人はもはやレジェンドだから、古典としての扱いにしようということなのか」



 現在87歳の筒井はこの難局をなんとか生き延びられそうだが、ナンシー関はどうだっただろう。生きていれば、今年の7月で還暦。レジェンドとして特別扱いされていた可能性もなくはないものの、20~30年前のようには自由に思い通り書けてはいないはずだ。そう確信できるくらい、言葉狩りが行き過ぎたおかしな状況になってしまった。



 せめて、肝に銘じておきたいのは、筒井のこんな言葉だ。



「いまでも若い作家に対しては、そのような校正からの指摘があるそうですね。それを見て『この表現はいかんのか』と思って他の言葉に変えてしまうとしたら、僕に言わせると、作家のくせに何たることか、と」



 残念ながら、自分の表現をまったく変えずに執筆できる作家はほんのひと握りだ。言葉狩りに徹底抗戦しようとすれば、失業しかねない。いわば、作家としての首を取られてしまうのである。それでも、抵抗していくという気概だけは持っていたい。筆者のごとき、三文文士にも五分の魂、ということで。





文:宝泉薫(作家・芸能評論家)

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