作家・田中真知と、イスラーム法学者・中田考によるウイズコロナ小説『世界のエリートはみなヤギを飼っていた』。



〈これまでのあらすじ〉



 カーナビと言い争って高速道路を逆走したリュウ。

痴漢電車に乗りながらも日々健気に看護師として働く同級生のレイ。中学以来会ったことのない二人。レイが勤める病院に緊急搬送されてきた意識不明の重傷患者は、「リュウ」こと「八木劉弾」だった。不穏な予感が胸にざわざわ広がるレイ。リュウは偶然遭遇したレイのことにまったく気づかなかったが、同僚の看護師クルミの存在がリュウにレイのことを思い起こさせたが・・・



 大好評の【第6回】は「駅前のヤギは赤飯を食べるか」。



世界のエリートはみなヤギを飼っていた【第6回】「駅前のヤギは...の画像はこちら >>



世界のエリートはみなヤギを飼っていた



第5回 駅前のヤギは赤飯を食べるか



「レイ先輩、ひどすぎます!」



 一週間ほど前にリュウの担当を変わってもらった田所クルミが、出勤したばかりのレイのところへやってくるなり、そういった。



「そりゃ、先輩にもやむをえない事情があったんだと思います。そのことは疑っていません。もちろん、そんなことで先輩への尊敬はなくなりません。でも、あんまりです」



 クルミは一気にまくしたてた。顔が紅潮している。



「クルミ、ちょっとどうしたのよ。

わけわかんないんだけど」



 レイはとまどった。



「八木さんのことです!」



 クルミがいった。



 ーー八木さん? あっ、リュウのことか。リュウがクルミに失礼なことでもしたのだろうか。だとしたら、クルミに悪いことしたな。



 クルミはだれにでも愛想のいい性格のせいか、たちの悪い患者にからかわれることがある。セクハラもよくあった。でも、本人は気づかないのか、あるいは気づいていてもスルーできるのか、気にしているようには見えなかった。そのクルミがこんなに興奮しているのは珍しい。



「どうしたの。なにかひどいことされたの?」



「ひどいことしたのは先輩じゃないですか!」



「えっ?」



「好きなら、好きって素直にいえばいいじゃないですか。私はそうしてきました。

愛って恥ずかしがるものじゃないと思います」



「ますます、なにいってんのか、わかんないんだけど……」



 クルミはレイをまじまじと見つめた。



「八木さんが話してくれたんです、昔のこと」



「昔のことって?」



「先輩、八木さんと中学のとき同級生だったんですね」



「えっ? うん、そうだけど、クラスが同じってだけで、親しいわけじゃなかったし……」



「八木さんて、修学旅行に行かなかったんですってね」



「あっ、うん、そうだったよ……」



 当時リュウが修学旅行のための積立金を使い込んでしまったことを思い出したが、口にはしなかった。



「先輩も行かなかったんですってね」



「うん、うちの事情があってね。そんなことまで、あいつ……いや八木さんが話したの?」



 クルミはそれには答えず、レイをじっと見つめて口を開いた。



「それって愛だったんですね」



「はっ?」



「先輩、『八木さんが行かないんなら、私も行かない!』っていいはったんですってね。それ聞いて、私、感動しちゃいました」



 レイはあっけにとられた。



「……いってない。そんなこと、絶対いってないから。いうわけないし」



「恥ずかしいことじゃないですよ。先輩にそういう面があったって知って、私うれしかったんです」



「どういう面よ。だから、そんなこといってないって」



「八木さん、話してくれたんです。『オレが修学旅行へ行かなかったのは、病気の母を看病しなくちゃならなかったからなんだ』って」



「ちがう。

それ嘘、大嘘だから……」



「そしたら、それを知った先輩が『あたしも手伝う』っていって旅行をキャンセルしてしまった。八木さんが『オレのことはいいから旅行へ行くように』と説得したんだけど先輩は頑として聞かなかった」



「……」



 開いた口がふさがならないとはこういうことをいうのだろう。しかし、クルミの話はまだつづいた。



「八木さんが先輩に『どうしてそこまで?』って聞いたら、先輩は『私あなたが好きなんです!』っていって走っていったって。心配した八木さんがあとを追うと、先輩は学校の体育用具室に立てこもって、『私の気持ちを受け止めてくれるまで出ない!』っていって一晩出てこなかったって。先輩ってそんなに情熱的だったって知りませんでした」



 レイは口をぽかんと開けたまま、クルミの話を聞いていた。あまりのデタラメぶりに唖然として声も出ない。クルミをからかうために作り話をしたのか、それともリュウの病的妄想なのか。病気だとしても、自分がネタにされているのだから聞き捨てならない。メラメラと怒りがこみ上げてきた。



「でも、そのあとの先輩の行動がひどすぎます」



 クルミがレイをキッとにらんだ。



「そのあとって、まだ続きがあるの?」



「八木さんが先輩の気持ちに応えられないっていったら、先輩、不良の高校生たちに八木さんを襲わせたんですってね」



「はあっ?」



 ーーこんなアホくさい作り話をクルミは本気で信じているのか。

クルミ、あんたそこまでバカだったの?



「クルミ、あのさー」 



 レイは口を挟もうとした。それを制してクルミは続けた。



「先輩の気持ちはわかります。受け止めてもらえなかった愛情が憎しみに変わるっていう経験、私もあります。私も無言電話かけたり、迷惑メール送ったり、丑の刻参りしたり、あと、お仕置きしたい相手になりすましてお寿司の出前を30人前注文してやったこともありますから」



 ーークルミ、あんたって……。



「でも暴力はいけないと思います。やりすぎです。だけど八木さんは先輩が病院に謝りに来てくれたから、すべてゆるしたっていうんですよ。『過ちはゆるすためにある』って八木さんいってました。カッコいいですよね。だから……」



「だから?」



「だから、私も先輩をゆるします!」



 そういうとクルミは踵を返して、仕事に戻っていった。



 バカバカしすぎて、なにもいう気になれなかった。



 毒をもって毒を制すつもりが、かえって毒が増殖してしまった。



 レイはしばらく下を向いてすわって、気持ちが落ち着くのを待った。



 八木劉禅の名を目にしたときの不穏な予感が徐々に現実になりつつあった。







 「退屈だ!」



 リュウはベッドの上でつぶやいた。



 つぶやきといっても、リュウの場合、声が大きすぎて、病室にいる全員に聞こえるほどだった。



 同室の患者たちは最初は驚いたが、あきらめたのか、関わりたくないのか、耳が遠いのか、だれも何もいわない。



 「なにもかもが退屈だ!」



 リュウがまた声を上げた。



 気がつけば事故から1か月以上たっていた。



 痛みは以前に比べればやわらいできたし、リハビリの成果なのか、杖を使えば、よろよろとではあるがなんとか歩けるようになっていた。



「昼食です」



 配膳車ががらがらと音を立てながら病室に入ってきた。



 それと入れ替わるように、リュウはベッドから起き上がると、よろよろと病室を出ていった。



 病院の飯にはうんざりしていた。



 寝間着姿で杖をつきながら、リュウはエレベーターに乗り、ロビーから病院の外へ出た。



 むっとした熱気がからだを包んだ。



 夏の日ざしがまぶしかった。



 ふりむくと、「鶴亀病院」という看板が目に入った。



 つるかめびょういん? ふざけた名前だ。それにしても、なんでこんなことになっちまったんだ。



 同じことは警察にもなんども聞かれた。



 オレは、ナビのいいなりになりたくなかったからだ、といった。



 だが、警察は信じなかった。



 それどころか、やつらはオレの頭がおかしいと疑いだし、怪我から回復したら鑑定を受けるようにといいだした。



 冗談じゃない。



 ナビのいいなりに生きてきたやつらになにがわかる。



 だが、オレにも、じつはよくわからない。



 事故のせいで記憶がすっぽぬけたのかもしれない。



 いや、すっぽぬけたというより、あの事故以来、記憶の順番がどうもあいまいなのだ。



 なんというか、古い順から積み重ねられていた記憶の積み木が事故の衝撃でバラバラに崩れてしまい、それらをもういちどいいかげんに積み直したかのようで、どこか頭の中がぎくしゃくしている。



 そうだ。だいたい、あの武内ってナース、あれは中学のときのレイだろ。なんであいつがここにいる? あいつはオレのことを好きだったんだよな。いや、ちがったかな。まあ、どっちでもいいか。



 気がつけば、リュウは駅の近くのコンビニに入っていた。



 おにぎりコーナーへ行くと、リュウは赤飯のおにぎりをぽんぽんとカゴに放り込んだ。



 リュウにとって、おにぎりといえば赤飯だった。



 高校のとき、親類の葬式に参列したときもコンビニで買った赤飯おにぎりを会場でほおばり、大いにひんしゅくを買った。



 コンビニを出たリュウは赤飯にかぶりつきながら、商店街の方へとよろよろと歩いていった。



 くー、暑いな。



 駅前につづく道路に陽炎がゆらめていた。



 感染症のせいで、人通りも少ない。



 そのときだった。



 あれっ?



 熱気でゆらゆらする駅前の風景の中に妙なものが見える。四つ足動物のようだ。



 犬か? 



 一瞬そう思ったが、犬にしては大きい。角らしきものも見える。



 なんだ?



 リュウは杖をつきながら、よろよろとその生き物に近づいていった。



 ゆっくり歩いていたその生き物は、リュウに気づくと立ちどまって、ちらっと顔を向けた。白いひげがある。



 ヤギ? 



 動物園から逃げ出したのだろうか。それとも飼われているのだろうか。それにしては首輪や手綱もない。ひょっとして野生? いや、この都会でそれはないだろう。



 リュウはあたりを見回した。



 改札から出てくる人はちらほらいるものの、ヤギに関心を示す人はいない。



 ヤギは駅前の花壇の雑草をもぐもぐ食べはじめた。



 駅員が通りかかったが、やはりヤギを見ようともしない。



 駅員も通行人もヤギがいることに気づいていないかのようだった。



 リュウはゆっくりした足取りでヤギの方へ近づいていった。



 そばに寄ると、ヤギはけっこう大きかった、



 そのときヤギが花壇から頭を上げてリュウを見た。



 目が合った。



 リュウは無意識に手にしていた食べかけの赤飯をヤギの方へ差し出していた。



 ヤギは一瞬、鼻面を赤飯に近づけた。



 だが、次の瞬間、ヤギは顔を背けて、花壇を飛び越え、駅前のロータリーを軽やかにわたって、商店街の方へ姿を消した。



 呆然としていると、改札から一人の男があわただしく走り出てきた。



 男は花壇に近寄ると、身をかがめて草の様子を観察していた。それから顔をあげると、鋭いまなざしで、あたりを見回した。浅黒い顔をしたひげの濃い中東系の外国人だった。



「ひょっとして、ヤギ探してる?」



 リュウが声をかけた。ひげの外国人はびくっとしてリュウを見た。



「ヤギ、メーメー」



 リュウはヤギの鳴き声をまねた。外国人が大きくうなずいた。



「あっち行ったぞ」



 リュウは商店街の方を指さした。



「ありがとう!」



 外国人は胸に手を当て、流暢な発音で礼をいった。



 それから花壇を飛び越え、ロータリーを渡って、商店街の方へと走っていった。



(第7回へ、つづく…)

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