統一地方選挙の前半戦、大阪維新の会は、大阪で知事と市長のダブル選挙を制したほか、奈良県知事選挙では、大阪以外で初めて維新公認の知事が誕生した。さらに、初めて大阪府議会と市議会の両方で過半数を獲得したほか、41の道府県議会議員選挙で選挙前の倍以上となる124議席を獲得。
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著者の適菜収氏は、これまでも、ニーチェやゲーテ、あるいは三島由紀夫や小林秀雄などの思想をベースにしつつ、現代日本の全体主義化に対して、繰り返し警鐘を鳴らしてきた。
今日の日本が全体主義化しているというのが大げさに聞こえるのだとしたら、それは、全体主義というものに対する理解不足のせいである。本書の第五章や第六章を読めば、日本がすでに十分に全体主義化していると認めざるを得ないはずだ。
この恐るべき全体主義化を防ごうとしたら、そもそも全体主義というものを、その本質から理解しておく必要がある。
まず、押さえておかなければならないのは、全体主義とは、近代の産物だということである。
近代は、前近代的な制度や共同体の束縛から解放された「個人」という存在を生み出した。身分や職業を固定されていた前近代社会とは異なり、近代の「個人」は、自らが進むべき道を決定する自由を得るようになった。
自由を得たということは、一見すると、幸福なことのように見える。だが、自ら考え、自らの進むべき道を選択するというのは、実のところ、個人に重い負担を課す。一部の人間は、その自由が伴う負担を喜んで引き受けようとする。
■近代化や自由化が大衆を誕生させ、全体主義が生まれる
近代化や自由化を進めれば、全体主義は防げるのではない。その反対に、近代化や自由化が進んだ結果として、「大衆」が発生し、全体主義が生まれるのである。この点が、全体主義の本質を理解する上で、非常に重要である。オークショット、アレント、オルテガ、フロムなど、全体主義の病理を診断した西洋の思想家たちは、いずれも、この結論に達している。それは、本書がその前半で明らかにしているとおりである。
「大衆」とは、自ら判断せずに世論に流され、多数派の価値観に同調して少数派にマウントをとり、そして、政治の強いリーダーシップを求めるような人々のことである。そういう人々が日本中に満ち満ちていることは、言うまでもあるまい。その「大衆」から全体主義が発生するものであり、そして、実際に発生している。
ただし、適菜氏が注意を促すように、全体主義は、国や時代によって、「症状」が多少異なっている。「ニッポンを蝕む全体主義」は、その近代史に起因して、西洋とは異なった姿で現れた。そのことを論じるのに、適菜氏は、夏目漱石を手掛かりにしている。
全体主義は近代化がもたらした現象であるが、漱石が言ったように、日本は、内発的に近代化したのではなく、西洋から受け入れるというかたちで外発的に近代化した。その結果、日本の近代化は、西洋のそれよりも表層的なものとなった。
内発的に近代化した西洋では、近代化に対する反省や批判も内発的に現れた。そうした反省や批判は、「保守主義」となって近代化の行き過ぎを予防してきた。
■「全体主義」の病理は、西洋よりも日本のほうが厄介である
ところが、西洋を真似て、突貫工事で近代化しただけの日本では、近代化に抵抗する保守主義もまた、中途半端にしか現れなかった。そればかりか、外発的に近代化したに過ぎないことも認められずに、いかにも内発的に近代化したかのような自己欺瞞にすら陥った。漱石が診断したこの日本独特の病理は、今日、「保守」を名乗る人々が「日本スゴイ論」に浸るという倒錯となって現れている。その意味では、「ニッポンを蝕む全体主義」の病理は、西洋のそれよりも厄介である。
全体主義が近代の産物だというのは分かった。では、どうすればいいというのか。前近代に戻れとでもいうのか。「ニッポンを蝕む全体主義」などという診断はもういいから、処方箋を出せ。処方箋がなければ意味がないではないか。
本書を読んで、そう言いたくなったとしたら、失礼ながら、その読者は、自分もまた「大衆」の一人かもしれないと疑った方がよい。自ら困難に立ち向かうという負担から逃れて、安易に解決策が与えられるのを望むというメンタリティは、「大衆」のそれにほかならないからだ。
全体主義が「大衆」の病理であるならば、その処方箋とは「大衆」ではないものになることに決まっている。大勢に従属する「できそこないの個人」ではなく、オルテガの言う「自分に多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする」個人になることである。そのような個人の姿勢のことを、漱石は「自己本位」と表現した。
漱石は、明治日本の上滑りの近代化に悩みぬいた結果、「ようやく自分の鶴嘴(つるはし)をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がした」と言う。その鉱脈こそが「自己本位」の思想にほかならない。
だが、「自己本位」とは、「党派心がなくって理非がある主義」であり「朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動しないという事」なので、「人に知られない淋しさも潜んでいる」。この「淋しさ」という表現を漱石が繰り返しているのが、印象的である。
「個人主義は人を目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、ある場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。それはそのはずです。槇雑木(まきざつぽう)でも束になっていれば心丈夫ですから」(『私の個人主義』)。
ファシズムの語源であるファッショ(fascio)とは「束」を意味する。「槇雑木でも束になっていれば心丈夫」という大衆のメンタリティから、全体主義が発生するのだ。しかし、その全体主義に抗して「自己本位」を貫くのは、淋しい心持がするというのである。
本書の読者は、適菜氏の「ニッポンを蝕む全体主義」に対する容赦のない批判のうちに、「人に知られない淋しさも潜んでいる」ことに気が付くことだろう。
(『ニッポンを蝕む全体主義』(祥伝社新書)「解説」より)
文:中野剛志