BEST TIMES人気連載だった森博嗣先生の「道なき未知 Uncharted Unknown」。同タイトルで書籍化されて早5年。

不可解な時代を生き抜く智恵の書としていまもロングセラーだ。新型コロナ感染の流行、ロシアのウクライナ侵攻、格差の広がりやポリコレ騒ぎ・・・時代はさらに不確実で不安定になってきた。再び、森先生のお話を静かに聴いてみたい。浮き足立つ時代に必要な「生きる構え」を知るために・・・。あたらしい連載エッセィの第5回。





第5回 5月が一番夏らしい季節



【常夏の国というのは何が良い?】



 当地では、ようやく樹の葉が出始めたところ。まだとても小さい葉だ。これが広がると、庭園内全域がほぼ木陰になるため、気温が上がらなくなる。一年で一番暑いのは5月。葉が全部落ちる11月も暖かい。6月から10月の5カ月がいちおう夏といえ、過ごしやすい季節であることは確か。でも冬だって、床暖房で室温はずっと20℃一定なので、家の中にいるかぎりは快適だ。

梅雨はないし、台風も来ない。それから地震もない。雨が降っていて犬の散歩に困る日は、一年で3日くらい(雨はほとんど夜に降る)。雪が降るのは2日程度だが、低温のため積もった雪は解けない。水捌けが良く、水溜りとか泥濘を見かけたことがない。犬の足をシャワーで洗わなくても良いのはそのため。



 ハワイのことを「常夏の国」といったりした(今もそうだろうか?)。つまり、年中夏で楽園だ、という意味だ。しかし、日本人にとって、夏はそんなに素晴らしい季節ではないはず。暑いだけではない。熱中症の危険もあるし、またエネルギィ消費量も増加する。電力事情がぎりぎりというジリ貧の国なのだ。



 クーラは空気を冷やすのではない。熱交換をするだけである。室内を冷やせば、屋外はその分(それ以上に)暑くなる。人間を快適にするのが目的のはずなのに、部屋中の空気を冷やす。部屋が大きくなるほど無駄が多い。おまけに、人が出かけていく巨大なスペースもすべて冷やしておかないといけない。みんなが、家の中に籠もってゲームをしていれば、どれだけ省エネになるかしれない。そもそも人が移動しなければ、もっと省エネだ。



 せっかくネットでなんでも買えるようになり、なんでも見たり知ったりできるようになったのに、どうして出かけていく必要があるのだろう?



 出かけることが趣味の人が多すぎるように見受けられる。そんなに自分の家が気に食わないのだろうか、と首を傾げたくもなる。でも、人の趣味に文句をいうつもりはない。無駄なことをするのが贅沢というものだ。

趣味は贅沢で良い。大勢をその気にさせて稼いでいる産業があるのだから、経済も回る(これは皮肉)。



 ロシアの戦車部隊の渋滞を見て、「馬鹿じゃないのか」と驚いたけれど、日本のGWの高速道路の渋滞だって馬鹿にならなくはない(言い回しがやや難しいから、馬鹿にはわからない?)。





【生きていることが無駄である】



 無駄だ、贅沢だ、というのなら、生きていること自体が無駄で贅沢な状況といえるだろう。人間は何故生きているのか、と問われれば、僕は「生きるのが趣味です」と答えるのが適切だと考えている。趣味は無駄で贅沢なものなのだから、辻褄が合っている。



 それを、なにか社会にとって有意義な目的にしよう、と無理にいろいろ理屈を捻り出すから、難しい問題になってしまう。それら多くの理屈は、結局は言葉を飾っているだけ、つまり綺麗事である。社会に貢献する、人のためになる、平和を訴える、後世のために尽力する、といった方向へこじつける理屈だ。悪くはない。非難しているわけではない。ただ、「それだけじゃないでしょう?」という気持ちを抱いてしまう。

正直者なので、つい素直に考えるだけのこと。



 たとえば、「お客様に喜んでいただきたい」という目的を語る商売が数多いけれど、9割以上は金儲けが目的であり、残り1割程度が、客の反応を見たい、というほのぼのとした動機になるだろう。それが素直な観察結果である。悪くはない。非難しているのでもない。商売とは元来そういうものである。ただ、正直な気持ちの9割を表に出せず、氷山の一角が語られているだけだろう。



 生きることも、これと同じで、9割は自分一人が楽しければそれで良い、という気持ち。生きていれば、そこそこ嬉しいこと、楽しいことがある。この9割は、いわば無駄であり、贅沢ではないだろうか。ただ、無駄で贅沢だから、何故か後ろめたさを感じてしまい、それを隠して綺麗な言葉を語ろうとする。なかには、語らなければならない、と思い込んでいる人がいる。

また、それが本当の使命だと勘違いしている人もいるだろう。悪くはない。むしろ立派だと思う(皮肉ではない)。だけど、僕のように素直な人間には、ただ「普通」に見えるだけだ。



 「普通」という言葉を、皆さんはどう感じるだろうか? 普通は良いことだろうか、それとも悪いことだろうか。人それぞれだとは思う。多くの親は、子供が普通に育つことを願っている。社会も普通の人材を求めているように見える。したがって、普通の人が大量生産されている現実がある。「普通」がわからない人は、「人並み」に置換しても良いだろう。「人並み」とは他者の目を気にした結果だ。他者を気にする人は、人並みになる(皮肉ではない)。





【誰とも戦わない贅沢】



 無駄で贅沢なものといえば、その筆頭は「戦い」ではないか、と思う。気合を入れて、人を鼓舞するとき、「えい、えい、おう!」と叫び、「戦おう!」と拳を振り上げる。非難するつもりはないけれど、客観的に見てエネルギィが無駄に消費されているな、とは感じる。もったいないし、贅沢だなあ、と思うくらいは許してもらいたい。



 世の中には、「殺し合い」といえる「戦い」もある。本当に無駄だし、誰もが馬鹿げていると感じるはずなのに、何故か消えることがない。その理由は、戦いたい人たちが沢山いるからだ。これについては、僕は半ば諦めている。諦めるしかない、という結論に至って久しい。



 何故なら、平和を訴えるデモ行進だって、やっぱり拳を振り上げているのだ。選挙活動でも、みんなで「戦い抜こう!」と叫んでいるではないか。これが不思議だと思わない人たちが多数派なのが、僕には不思議だけれど、これが諦めた理由だ。



 おそらく、「戦おう!」という叫びの根源には、他者を巻き込もうとする気持ちがあって、「みんなで一緒にしたい」という、いわば「共感」や「絆(きずな)」への欲望が窺える。そして、それらは「ひとりぼっちは嫌だ」「孤独は最悪だ」という思いに根ざしているようだ。



 孤独は最悪って、本当にそうだろうか?



 そよ風が気持ちが良い季節になった。この静けさは、ひとりぼっちのときほど爽やかに感じられるものだと思う。孤独は、静かでのんびりとして、ゆるぎのない幸せを感じさせてくれる時間のことではないだろうか。



 誰とも戦わない。不戦の契りも一人だけなら必要ない(最近、「進撃の巨人」を全巻読んだ)。それもまた、最高に無駄で贅沢だといわれそうだけれど、一人でいるなら、誰でも比較的容易に実現できる。一人なら、周囲から非難される機会もない。自分を無駄だとは思わないように動物はできているから、大丈夫。死ぬまでは、安心して生きられる。







文:森博嗣

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