安倍元総理暗殺事件のあと、統一教会問題に関する話題が尽きない。これまで私たちが意識せずに見過ごしてきた「政治と宗教」の関係という大きな問題が顕在化した意味は大きい。
■「政教分離」と「信仰の自由」
安倍元首相銃撃事件の背後にあったとされる、容疑者の統一教会への恨みをめぐる問題がマスコミで大きく取り上げられるようになるにつれ、「宗教と政治」の関係という大きなテーマが浮上してきた。
連日、自民党を始めとする政治家と統一教会の“癒着”が伝えられるたびに、ネットで、「政教分離の原則」に違反している、という声があがる。しかし、“政教分離”を口にしている人の多くは、“政教分離”とは何かをよく分かっておらず、雰囲気でこの言葉を使っているようである。中には、統一教会との何らかの“関係”が明らかになれば、それだけで憲法違反であり、議員辞職に値すると言わんばかりの強引な“意見”もある。
しかし、それは付き合っている相手が“統一教会”だとそれだけで“政教分離”の原則の違反になり、創価学会や幸福の科学など他の宗教団体だと、必ずしもそうでもないということなのか、それとも、これらの団体と付き合いも本当は“政教分離”違反だと言いたいのか。明確な基準もないまま、“政教分離”という言葉が独り歩きしている状態は健全ではない。
私自身と統一教会の関係は、『統一教会と私』(論創社)等で繰り返し説明したので、前回同様、詳細は省き、政治思想史研究者の立場で、「政教分離」と「信仰の自由」とは何か考えてみたい。
政教分離の原則の原点は、宗教改革期以降の西欧における、キリスト教の宗派間の烈しい戦争だ。中世のヨーロッパでは、法王を始めとする高位聖職者は広大な領地を持ち、世俗の政治に様々な形で関与していた。
三十年戦争(一六一八-四八)では、カトリックvsプロテスタントの信仰の争いに君主間の権力闘争が結び付き、ヨーロッパ全体を巻き込む激しい戦闘が続き、ドイツの人口の三分の一が失われたとされる。この戦争を終結させるために締結されたウェストファリア条約で、宗教と政治の力関係が大きく変わることになった。条約では、各国を支配する君主の主権者としての地位を認めると共に、それぞれの君主が自国の国教をカトリック、ルター派、カルヴァン派のいずれかで選択できることになった。これを機に、宗教が世俗の政治を支配するのではなく、逆に政治が宗教を統治の対象にするようになったのだ。
次の段階では、次第に中央集権化していく主権国家の課題として、宗派間の争いが政治の不安定化に繋がることをどう抑えるかという問題が浮上した。国家が国教制度に拘り、出産死亡などの届け出を、特定の宗派の教会を通して行うことを義務化したり、非国教徒の財産権や公職への就任を否定し改宗を促したりすると、それを拒む人たちの抵抗が強くなる。フランスや英国では実際、それが長年にわたって大きな内乱をもたらし続けた。
社会契約論によって、国家の目的が広い意味での「所有権」の保障であることを明らかにしたことで知られるロックは、『寛容に関する書簡』(一六八九)で、何が正しい信仰であるかは、政府による統治の管轄外であるという前提に立ち、国教徒と非国教徒を差別的に扱うべきではないと主張した。この著作でのロックの議論は、たとえ自分にとって見るに耐えない信仰であっても、他者の信仰を尊重し共存を目指すべきとする「寛容 tolerance」論のモデルになった。
信仰を個人の問題としてより明確に位置付けたのは、功利主義の哲学者ジョン・スチュアート・ミルだった。今でも自由主義の政治哲学の最高の古典とされる『自由論』(一八五九)で、民主社会における人間の活動領域を、多数決による決定に従うべき「公的領域」と、他者に直接影響を与える可能性が低いため、原則各人の自己決定に委ねるべき「私的領域」に分割した。
ミルはこれまでの西欧の歴史で、他者がどういう信仰を持っているかに拘ったことがどれだけの対立をもたらしてきたかを繰り返し強調したうえで、どの宗教を信じるかは、各人の生き方の選択の問題であり、それを他人に押し付けようとすることがそもそも間違いなのだ。民主化された国家は、宗教など内面の問題に干渉して対立を煽るのではなく、むしろ社会の中に多様な考え方が存在するよう配慮すべきだ、という。
人々の生き方に対する宗教組織の影響力が弱まり、国民統合の観点から宗教や思想・信条の違いに関係なく人々を平等に扱う必要が高まったことから、近代国家は「政教分離」と「信教の自由」を基本方針とするようになった。しかし、個人に対する権利保障の問題である「信仰の自由」と違って、政治や法律全体の仕組みに関わる「政教分離」については、それをどの程度徹底するかは国によってかなり異なる。
英国は、国王を長とする国教会制度は維持しており、貴族院では国教会の高位聖職者が聖職貴族として議席を持っている。ただ現在は、国王や貴族院の政治的影響力はロックの時代に比べてかなり限定されるようになったので、下院を中心とする内閣制は実質的に政教分離で運営されていると見ることもできるが、厳格なものではない。
アメリカでは一七九一年に成立した憲法修正第一条項で、「連邦議会は、国教を定めまたは自由な宗教活動を禁止する法律」を制定してはならないとしている。しかし周知のように、大統領の宣誓式の際に左手を聖書の上に置くことや、紙幣や硬貨に〈IN GOD WE TRUST〉と印字されているなど、キリスト教が政治文化のベースになっていることを感じさせる表象は少なくない。
公教育についても、フランスのように「世俗性」の原理を徹底し、特定の宗教を連想させる事物を一切持ち込ませないようにしている国もあれば、ドイツのように、憲法に当たる基本法で、宗教団体の教義に従って行われる「宗教教育」を公立学校における正規の授業として認めている国もある。フランスのように、「世俗性」の原理に拘りすぎて、教室でイスラムの少女たちがスカーフを着用することまで禁じると、かえって、少数派の宗教生活が難しくなるよう国家が干渉しているような様相を呈する、という逆説が生じる。
■「反社」という言葉を安易に使う風潮がいかに危険か
日本の場合、憲法二〇条で政教分離が定められているが、天皇制(憲法一~八条)がかつて国家神道と制度的に結び付いており、天皇の地位の継承が、記紀等の神話に基づいている以上、天皇制自体が宗教性を帯びていることは否定できない。
「政教分離」は、特定の教団が他の教団や異なった世界観を持った人たちを、国家機関を利用して迫害・抑圧しないよう、国家機関を出来るだけ中立に保つための制度的な抑制だ。これをやったら、即アウトというような普遍的ルールがあるわけではない。
日本国憲法二〇条で、「いかなる宗教団体も……政治上の権力を行使してはならない」と定められているが、これは特定の宗教団体が、国会や内閣などの統治機構と組織的に一体化して、直接的に権力行使することを指していると解すべきだろう。そうした組織的な融合の禁止以上のことを意味しているとしたら、おかしなことになる。
宗教が自らの教義に基づいて、妊娠中絶や同性婚、教育、性表現、環境、安全保障などのテーマで独自の政治的主張を掲げ、それを政治家や法律家、ジャーナリスト、官僚などに働きかけることを一切禁じるような法律を制定している近代国家はない。そんなことをすれば、それこそ思想・信条の自由の侵害になる。
最近、アメリカの最高裁による判例変更が大きな話題になった、妊娠中絶をめぐる論争では、福音派と呼ばれる、聖書の教えに忠実であることをモットーとする保守的なプロテスタントの諸集団が、反中絶運動を牽引し共和党の一部に強く働きかけてきた。ヨーロッパには、キリスト教民主主義を名乗る政党が多くあり、それらは政権与党や第二党になっている。
統一教会であれ、他の宗教団体であれ、自分たちの宗教的理想の実現に協力してくれそうな政党や政治団体を支援し、影響を与えることが、政教分離の名の下に否定されるということはない。ここを理解しないまま、“政教分離原則”違反などと言い出すと、お子様な話になってしまう。
問題は、その働きかけの目的が、その宗教を信じていない人たちとも共有可能な理想ではなく、その教団に固有の利益を得るためであり、それによって政治や法が歪められてしまうことだ。
ただ、先に述べたように、宗教団体であれ、他の圧力団体であれ、政治家に会って働きかけること自体は違法ではない。贈収賄のような分かりやすい問題を除いて、政治家がどのような種類の働きかけ――信仰をたてにした脅迫的な説得、選挙での支援を見返りにした取引…――を受け、どのような行動を行ったら、その宗教に不当な便宜を与えたことになるのか、はっきりした基準を作るのは難しい。
旧統一教会の場合、勝共連合や天宙平和連合(UPF)のような関連組織を作って、それを介して政治家に働きかけたり、選挙協力したりすると、関係性が分かりにくくなっている、という固有の問題はある。この際、旧統一教会と政治の関係を、はっきりさせておくべきだと、元信者としても思う。ただ、そうは言っても、法律で「宗教団体と関係が深い政治団体は、その内容を公表する義務がある」というようなことを定めようとすると、「関係が深い」ということをどう定義するのか、という問題が生じる。下手をすれば、政治団体の会員の思想・信条をチェックしないといけない、ということになってしまう。特定の宗教団体に限定した情報公開義務を定めることは、法の適用対象の「一般性」という観点から見て無理がある。どういう制度にするのが妥当か、慎重に考える必要があろう。
元信者でもある私がこのようなことを指摘すると、短気で自分の聞きたい話以外は全て雑音に聞こえてしまうお子様たちが、「仲正はやはり洗脳が解けていない(現役信者だ)。統一は普通の宗教ではない、反社ではないか。政治家が反社と付き合っていいはずがない」、と騒ぎ出しそうだが、いい年したお子様はもはや治しようがないので、放っておくしかない。
■“反社”認定はお子様たちが思っているほど簡単な話ではない
旧統一教会の場合、霊感商法問題と多額献金問題が“反社”扱いされている最大の理由だろう――反共とか、韓国生まれの宗教だからという理由で、“反社”扱いしている輩もいそうだが、そういうのは無視しよう。宗教団体がこうした問題を起こすことを防止するために、旧統一教会のケースをモデルにして、宗教法人法の改正やフランスの反カルト法に当たる法律を作ろう、というのであればいいのだが、いずれにしても、イメージだけで、“反社的な悪い宗教”を作り出さないよう細心の注意が必要だ。
先ず、統一教会の信者でない人に壺や多宝塔など、“霊的”な商品を売る霊感商法と、信者による献金ははっきり分けて考える必要がある。
前者の“霊的な商品販売”については、先祖の供養とか開運、魂の浄化といった名目で、宗教的な商品を売るということは統一教会系の専売特許ではなく、古くからある伝統的な宗教でも行われている。霊の話をしたからアウト、というわけにはいかないだろう。
一部の統一教会の信徒がやっているように、霊的現象が起こっているかのような芝居をやってみせたりして、客を惑わせるのは明らかに詐欺だ。私が統一教会で活動していた当時、そういう本当の詐欺を働いている信者も実際にいるので嘆かわしい、という話を教会内の礼拝や講話で聞いた記憶がある。
ただ、これを言うと、また「マインド・コントロールが解けていない!」と言われそうだが、多宝塔、壺、印鑑など霊的なものに纏わる販売の全てが、そういう意味での詐欺というわけではない。
どういう風に説明して、どれくらいの値段で売ったら、“反社会的”と言えるほど悪質なのか、一概に決めるのは難しい。刑事事件に発展し、有罪が確定したものにだけ限って、話をすれば、かなり焦点は絞り込めそうだが、その団体の信者の何人、あるいは何割が有罪判決を受けたら、“反社認定”するのか。“宗教団体”なんだから、一人でも犯罪者を出したら、即アウトで“反社”と言いたい人もいるだろうが、そんな“厳しい基準”を設定すれば、統一教会だけでなく、多くの宗教団体がアウトになってしまうし、宗教弾圧の口実がいくらでも作れてしまう。犯罪には、道路交通法違反、不用意にカッター・ナイフを持ち歩いたことによる銃刀法違反、修業や祭事に際してのトラブルから発生した暴行・傷害のようなものなど、いろいろある。どういう種類の犯罪をカウントするのか。
ちゃんとした基準を定めるのが難しいので、法律をいじらない方がいい、と言いたいわけではない。お子様たちが思っているほど、簡単な話ではないということだ。
高額献金の場合は、もっと話が難しい。本人が信仰を持っていたのであれば、それを禁止するのは信教の自由に反するだろう。扶養家族がいる人の献金額を限定するというようなことは可能かもしれないが、全面禁止は難しいだろう。
「そんな献金は、マインド・コントロールを受けたことによるものなので、無効だ!」、と言う人もいるが、「マインド・コントロール」を、法廷で通用するような明確な基準で定義するのは難しい。より多くの犠牲を捧げるほど、試練を乗り越え、救いに近付けると信じている人もいる。下手に定義すれば、特定の宗教を“信じている”人は全てマインド・コントロールされていることになり、責任能力を一切否定されることになりかねない。第三者的に見れば不条理だが、本人にとっては、それが救いになっていることもあるのだ。
「信仰するほど、自分を追い込むことになってしまう教えはおかしい。そんなのはマインド・コントロールだ」、と感じる人が多いとしても、多数決でマインド・コントロールかどうか決めるわけにはいかない。
「マインド・コントロール」に明確な定義などない。ネット上で、「カルト!」「カルト!」と一日中吠えている連中は、ドラマに出てくるような、文字通り、思考停止していて、教祖の指示があるまで、機械的な運動を自動的に繰り返す人間を連想しているようだが、そんなものは、彼らの脳内にしか存在しない。反カルト言動を唯一の生きがいにしている依存症の連中は、自分が気に入らないものは、何でも「マインド・コントロール」と言って片付けようとする。こういう連中にとっては、「信教の自由」だけでなく、「言論の自由」も無意味だろう。「マインド・コントロールされている」と彼らの直観で認定された者は、一人前の人格として扱われないのだから。
■統一教会ネタに群がるアンチ・カルト依存症の輩
私がまだ「マインド・コントロール」状態にあると言っている連中は、私が統一教会のことを最大限にあしざまに罵ろうとせず、できるだけ見たままを語ろうとするのが気に入らないので、私がマインド・コントロールされていることにして、証言能力を否定しようとしている。そういう連中の中で特にしつこく悪質だったのは、自称ITジャーナリスト、自称囲碁漫画家、自称IQの高い発達障害者の三匹だ。
自称ITジャーナリストは、私が統一教会についてあまり悪く言わないことを、カルト研究用語で、「感情面でのマインド・コントロールが抜けていない状態と言う」と評していた。便利な言い方だ。統一教会がいやなことばかりの団体なら、信者になる人などそもそもいるはずがない。少なくとも心理的に多少のプラスの面があるから、何十年も信者になっている人もいるのだ。そこを私が客観的に語ろうとすると、「感情面でのマインド・コントロールが解けていない」とわめきたてる。恐らく、統一教会は地上の地獄だと言わない限り、私は「マインド・コントロール」から解放されたことにならないのだろう。こういう、他人を落としめることでネット世論を誘導する手口は、「マインド・コントロール」的やり口ではないのだろうか。
自称漫画家は、自分の妹が統一教会に入信していたことがあって、私がテレビでしゃべっているのを聞いて、その時の妹のしゃべり方を思い出して気持ち悪かった、と言っている。この妹が実在するにしても、こいつの空想の産物にしても、自分が何を言っているのか分かっているのだろうか、そんなことを言う自分が気持ち悪いと思わないのか、と言うしかない。
自称発達障害者は、「統一教会に入信した者のほとんどは大学中退に追い込まれているのに、仲正はちゃんと卒業させてもらっている、つまりエリートだった。だから統一教会に懐かしさを抱いており、いつか戻る危険がある」、などと、無根拠な前提に基づいて、勝手な妄想話を展開している。ほとんどが中退に追い込まれている、などという話をどこから仕入れてきたのか。統一教会ネタに群がるアンチ・カルト依存症の輩には、こういう出所の分からないネタを不動の事実であると思い込み、それを認めないと、「洗脳されている(洗脳が解けていない)!」と叫ぶのが多い。話にならない。
自分たちの思い込みは一切疑わず、気に入らないことを言う他人を、「マインド・コントロール」というマジック・ワードで抹殺しようとする輩によって、実質的に“反社”認定が行われるようになったとしたら、それこそ、ミルやアーレントが恐れたような社会になってしまう。
統一教会が従来やっていた活動の一部を違法化する立法措置を検討するのはいい。それで、旧統一教会が事実上の解散に追い込まれたとしても仕方ないだろう。しかし、繰り返し言うが、そのためには、宗教団体としての資格をはく奪するにたる客観的基準を決めねばならない。「マインド・コントロール」や「洗脳」という言葉が大好きな、アンチ・カルト依存症のお子様たちや、その機嫌を取る人たちが主導権を取れば、まとまる話もまとまらないか、極めて、おぞましいことになるか、どっちかだ。
文:仲正昌樹