◆統一教会問題の本質は何か
7月に発生した安倍晋三元総理(以下「安倍総理」)の殺害事件を契機に、わが国では重大な事実が浮上しました。
安倍総理本人をはじめ、自民党の少なからぬ国会議員が、韓国で生まれた新興宗教・統一教会(現・世界平和統一家庭連合)、およびその関連団体と関係を持っていたのです。
関係の深さは人によってさまざまですが、教団施設を何度も訪れたり、選挙でも支援を受けたりするなど、かなり深く関わった者もいる模様。
憲法改正をめぐる自民党の案が、統一教会の関連団体「勝共連合」の提唱しているものと似通っているうえ、政教分離の原則を緩めることで、同教会の政治活動をより容易にすることも指摘されています。
自民党に限らず、野党の立憲民主党にも、同教会と何らかの関わりを持った議員が複数いることが判明しました。
上記の事実はなぜ重大なのか。
これを理解するには、国政の目的は何かという点に立ち返らねばなりません。
国政の目的は国益を満たすこと。
そのために策定される計画が〈国家戦略〉です。
そして「国益が満たされる」とは、国家の存立と繁栄の安定的な維持を通じて、国民が心配なく豊かに暮らせる状態、すなわち経世済民を可能なかぎり実現することにほかならない。
言い換えれば、ナショナリズムこそ国政の大前提。
日本国憲法の前文にも、こう書いてあるくらいです。
【そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。】(原文旧かな。
ところが統一教会は、発祥の地が韓国のためか、教義に反日的な要素が目立つ。
日本は「サタン(悪魔)の国」であり、とりわけ朝鮮にたいしては植民地支配の罪を犯したため、それを償うためにも日本人(の信者)は貢がねばならないというのです。
これが日本の国益や、日本人の幸福と両立するでしょうか?
同時に統一教会は、いわゆる「霊感商法」や、信者による多額の献金、大規模な合同結婚式の開催など、さまざまな社会問題を引き起こしてきました。
わが国の国会議員が統一教会と関係を持ったり、まして支援を受けたりするのは、「ナショナリズムこそ国政の大前提」という原則を揺るがすものであり、ゆえに重大なのです!
ちなみにこれは、地方議員なら構わないことを意味しません。
経世済民を目的にしなければならないのは、地方自治も同じだからです。
だいたい地元への愛着こそ、ナショナリズムの基盤なのですぞ。
しかるにこのような視点から、統一教会と政治家との関わりを批判する主張は、私の知るかぎり非常に少ない。
同教会の起こしてきた社会問題、とりわけ霊感商法や多額の献金といった〈経済被害〉にばかり注目するものがほとんどです。
なぜ、そうなるのでしょうか?
◆見失われた国政の大前提
「ウクライナ戦争と安倍総理殺害」(第45回)、さらには平和主義は貧困への道 または対米従属の爽快な末路』をお読みになった方には、もうお分かりですね。
戦後日本は、無残な敗北に終わった昭和初期の戦争を否定しようとするあまり、平和主義の名のもと〈国家の否定〉や〈政府への不信〉をテンプレとしてきました。
国政は国民の利益を満たすためのもの、そう謳った憲法前文まで、直後にこんなことを言い出す始末。
【(日本国民は)平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。
戦後日本において、国益とは国家戦略を通じて主体的に実現されるものではなく、他国(民)の「公正と信義」にたいする信頼、要するに対外依存によって実現されるものなのです!
くだんの対外依存を、アメリカへの従属という形で追求するのが「保守」で、社会主義、ないしコスモポリタニズムへの憧れという形で追求するのが「革新(=左翼)」、ないしリベラル。
ナショナリズムこそ政治、とくに国政の大前提であることが見失われているのですよ。
だから「なぜ政治家が、統一教会と関わってはいけないのか」が分からなくなる。
向こうにしてみれば便利な話。
「勝共」「平和」「家庭」など、日本の国益にもプラスになるようなスローガンさえ掲げていれば、根本のスタンスがナショナリズムに反する点は見過ごされるのです。
それどころか「自分はナショナリズムを信奉しており、〈家庭重視〉のような伝統的価値観を尊重している」と主観的に思っている人々、つまり保守ほど気を許すに違いない。
いや、政治家は統一教会と絶対に関わってはいけないとまで言うつもりはありませんよ。
「ナショナリズムを否定して、反日的な主張に賛同することこそ、日本の国益を満たす道」と本気で信じており、公式の場でもその旨を発言する覚悟があるのなら、それはそれで認められるべきでしょう。
ただし、そこまでの覚悟を持つ政治家は皆無のようなので、この点は脇に置くことにします。
◆平和主義は売国への道
すでに述べたとおり、統一教会の問題がクローズアップされた現在も、批判の大部分はナショナリズムをめぐる視点を欠いている。
「国政に関わる者が、反日的な主義主張を掲げた勢力とつながりを持っていいのか」ではなく、「国政に関わる者が、多くの経済被害を出してきた勢力とつながりを持っていいのか」へと、論点がずれてしまうのです。
「何が問題か、僕はよく分からない」と公言する政治家が出るのも無理からぬことと評さねばなりません。
ほかならぬ安倍総理の名言にならえば、まさに「国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました」です。
とはいえナショナリズムこそ国政の大前提である以上、国境や国籍へのこだわりを捨てるとは、国政へのこだわりを捨てるにひとしい。
これは国民の利益や幸福を追求しようとすることの否定を意味します。
裏を返せば、売国への歯止めもなくなる。
統一教会をめぐる問題が浮き彫りにしたもの、それは「平和主義の名のもと、対外依存を当たり前のごとく見なし、ナショナリズムをないがしろにする国では、売国を否定する理由もなくなる」というシビアな真実なのです!
ここで思い出されるのが、18世紀イギリスの政治家・文人エドマンド・バーク。
名著『フランス革命の省察』において、彼は同国の革命政府を厳しく批判しましたが、その中に「戦争の開始や終結を決める権限は国王に戻すべきだ」という旨のくだりがありました。
理由は以下の通り。
【これらの権限を王へ戻すことは、明らかなリスクを伴うとしても、それを十分に埋め合わせるだけのメリットを有する。
【こうでもしないかぎり、ヨーロッパ諸国のいくつかは、国民議会(注:革命政府の最高機関)のメンバーと個人的なパイプをつくり上げることで、フランスの政治に必ずや介入しようとするだろう。やがては国家の中核に、恐ろしく有害な勢力が台頭することになる。外国の指令のもと、その利益のために動く勢力だ。】(エドマンド・バーク著、佐藤健志編訳『新訳 フランス革命の省察』、PHP文庫、2020年、292~293ページ)
◆弔意表明を求めない国葬はゴマカシだ
政治とは複雑なもの。
統一教会と関わってきた議員諸氏も、同教会の指令のもと、その利益のために(のみ)動いたわけではないでしょう。
ただしバークの言葉を「アメリカの指示のもと、アメリカの利益のために動く」と読み替えれば、これは戦後日本、わけても平成以後の日本の政治をめぐる、なかなか的確な要約となる。
『感染の令和 またはあらかじめ失われた日本へ』の第二部「黄昏の現地妻国家」で論じたとおり、われらの安倍総理も、日米貿易交渉においては、先方の意向に沿おうとするあまり、自国民を実質的に騙すような振る舞いを見せたのです。
さてお立ち会い。
安倍総理については、9月27日に国葬が行われることが閣議決定されています。
ただし世論調査を見ると、国葬をめぐる賛否は分かれているうえ、賛成派が減ってゆく傾向が目立つ。
8月20~21日、毎日新聞と社会調査研究センターが行った調査で、賛成と答えた者は30%。
反対は53%です。
同じ8月20~21日、産経新聞とFNNが行った調査でも賛成は40.8%。
反対は51.1%でした。
なるほど、安倍総理が国葬に値するかどうかは微妙なところ。
戦後の総理大臣では、安倍晋三の前に吉田茂が国葬となっていますが、吉田茂の場合、最初に総理となった1946年と、最終的に退陣した1954年を比べれば、日本の状態は格段に良くなった。
何と言っても独立回復をなしとげましたし、戦災からの復興もおおかた達成したのです。
片や安倍晋三の場合、最初に総理となった2006年と、最終的に退陣した2020年を比べて、日本の状態が良くなったとは評しがたい。
否、少なからず悪くなったのが実情でしょう。
国政の目的が国益を満たすことであり、経世済民の実現だとすれば、安倍総理は在任期間の長さにもかかわらず、結果を出せなかったのです。
しかも「保守のナショナリスト」と目されながら、反日的な教義を掲げ、多くの社会問題も引き起こした宗教団体と懇意にしていたと来る。
国葬にするのはふさわしくないことになります。
けれども戦後日本の本質が「国家の否定」であり、ナショナリズムならぬ対外依存によって経世済民を達成しようとすることだとすれば、安倍総理こそは国のあり方をみごとに体現した指導者であり、在任期間の長さもあいまって、まさしく国葬にふさわしいとも考えられる。
どちらの立場を取るかは、人それぞれでしょう。
た・だ・し。
国葬は「国家の大典(重大な儀式)として国費で行う葬儀」のこと(広辞苑)。
すなわち国を挙げて弔うのが本質です。
岸田総理も「故人(安倍総理)にたいする敬意と弔意を国全体として表す儀式」と明言してきました。
ならば国葬を実施するうえでは、欠かせない条件がある。
国民にたいし、弔意の表明を求めること。
当たり前じゃないですか。
国民は「国全体」に含まれないとでも?
ところがどっこい。
松野博一官房長官は8月26日、「国民一人一人に弔意を求めるものであるとの誤解を招くことがないよう、(地方公共団体や教育委員会などに弔意表明を求める)閣議了解は行わない」と明言しました。
2020年、中曽根康弘総理の内閣・自民党合同葬が行われた際には、表明を求めているにもかかわらず、です。
今回の国葬、内閣・自民党合同葬よりも扱いが低い!
どういう国葬ですかね、それは?
それはまあ、賛成が半分にも達しない状態で国葬を行ったあげく、弔意表明まで要請した日には、ただでさえ急落している支持率がいっそう落ち込むのはまず確実。
だとしても、国民に弔意表明を求めないまま(松野官房長官によれば、安倍総理への「政治的評価」も求めないのだそうです)、国全体として弔意を表すふりをする儀式など、ゴマカシ以外の何物でもない。
国家を否定したうえ、それに直面することすらできない〈あらかじめ失われた国〉は、発展と繁栄を維持するどころか、指導者の葬式一つ、まともに出せなくなるのでありました。
この先は次回、お話ししましょう。
文:佐藤健志