「チャールズ三世隠れムスリム説」ではチャールズ三世に思想的に影響を与えたと言われている英国人改宗ムスリム知識人を紹介した。実際英国の歴史において英国人イスラーム改宗はいつの時代から存在するのだろうか? 今回は、近代以前の英国社会において話題となった二人の英国人改宗ムスリムについて紹介したい。
■1. 捕虜からムスリムになったイギリス人ジョセフ・ピッツ
イギリス人がイスラームに改宗した歴史は古く、およそルネサンス期の16世紀にまで遡ることができる。しかしそのほとんどは地中海を中心に活躍したバルバリア海賊などによって捕虜となった人たちである。1600年から1850年の間に二万人以上のイギリス人、アイルランド人の船員や乗客が海賊によって捕らえられたが、彼らの中からイスラームに改宗する者が多くいたという。
イギリス人の元捕虜の改宗ムスリムにジョセフ・ピッツという人物がいる。彼は1678年、14,15歳の頃にアルジェリアの海賊によって捕えられ、奴隷として売られることになった。後にイギリスに戻り、その体験期『ムハンマド教(イスラーム)の宗教と習俗に関する本当の話』を出版し、一躍人気となった。
彼の残した記録によると、奴隷時代に彼は三人のムスリムの主人に仕えたそうだ。一人目の主人についてはほとんど記述がないが、二人目の主人であるイブラーヒームという人物はかなり暴力的な男で、ピッツを殴ることもしょっちゅうだったという。ピッツはバルバリア海賊に捕虜とされた時期か、あるいはイブラーヒームに仕えている時期にイスラームに改宗したらしい。ピッツはイスラームへの改宗の儀式が右手の人差し指をたてて信仰告白「アッラー以外に神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒である」と唱えるだけの簡素なものであることを印象的に語っている。
三番目の主人はとても温厚な人物だったようで、ピッツを息子のように大切に扱った。
面白いのは、近世の英国人にとってイスラーム世界は、ロシア東方教会やローマ・カトリック勢力に比べれば「安全」であると考えられていたことだ。少数派ではあるが、「ムハンマド教」への偏見を否定し、その寛容性や開かれた視座を積極的に取り入れようと主張する者もいた。
ピッツも体験記で当時のムスリム社会における奴隷への扱いの残酷さなどの記述もたくさんあるが、キリスト教徒がイスラームから学べることもあるとも述べている。また自身の改宗に関しては望まないものであったことを明かしながらも、当時「恐怖を感じることなくイスラームに改宗する英国人がたくさんいた」ことを証言している。
例えば、彼は自発的にイスラームに改宗したウェイマスのジェームズ・グレイという人物について次のように語っている。
彼はアルコラン(クルアーン)の読み方を熱心に学び、サッラー(サラート:イスラームの礼拝)を行うことに非常に前向きで、信仰熱心な人だと周囲から見られていました。彼は、私がモスクに行くのに後ろ向きであることや、近所の奴隷と親しくしていることをよく咎めたので、私は何事も彼に反対したり反論したりするのが怖くなったくらいです。
他にも、16世紀から19世紀にかけてインドでイスラームに改宗するイギリス人もいたそうだ。例えば1797年から1805年にかけてハイデラバードの宮廷に駐在したジェームズ・アキレス・カークパトリック少佐は、インド風の口ひげにインド風の服を着て生活していた少し一風変わった人物だったそうだが、彼はハイルルニサーという名前のムスリム貴族との結婚を期にイスラームに改宗したことが伝わっている。
■2. ヘンリー・スタンレー・アルダリー男爵:英国初の改宗ムスリム貴族
次に紹介するのは英国初の貴族院議員の英国人改宗ムスリム、ヘンリー・スタンレー・アルダリー男爵である。
ヘンリー・スタンレーは1827年に政治家エドワード・ジョン・スタンレーの長男としてチェシャー州のアルダリーパークの領地で生まれた。ヘンリーの父親はヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)(1784-1865)の友人で、ホイッグ党政権のなかでいくつかポストを歴任した経験を持つ。彼の母親ヘンリエッタ・マリア・スタンレーは第13代ディロン子爵の長女で、女性教育の支持者であった。スタンレー家は他の貴族よりも宗教的・文化的に柔軟であったと言われており、ヘンリーも少年期にアラビア語に興味を持ち、アフリカ探検の夢を抱いていたという。
実際に1846年にヘンリーはケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに入学し、アラビア語を学んだ。1847年にケンブリッジ大学を卒業したヘンリーはパーマストン子爵の補佐官として外務省に入省する。
当時の英国、ひいてはヨーロッパ全体において議論されていた外交問題はオスマン帝国の領土と各地域の民族問題めぐって生じた東方問題であった。ヴィクトリア朝中期の英国はオスマン帝国に対して非常に対立的な態度を取っていたが、パーマストンに代表されるホイッグ党のリベラル層の一部はイスラームの精神性を高く評価し、ロシアの政治的・宗教的脅威に比べれば「許容可能な他者」と考えていたらしい。少なくともパーマストンはオスマン帝国はロシアよりも文明的であると考えており、補佐官として働いていたヘンリーも彼の考えに影響を受けるようになる。
その後1850年にヘンリーはコンスタンティノープル(現在のイスタンブル)の英国大使館に赴任し、オスマン帝国市民たちとの交流を深める。50年代にイギリスに一時帰国した際には親戚が彼のことを「トルコ人のように振る舞う」と評していることからも、彼がかなりの親オスマンの外交官であったことは明らかだろう。
そして1958年ヘンリーはエジプト、アラビア半島、スリランカなど中東、アジア圏の旅に向い、旅の途中でイスラームに改宗したようだ。『ボンベイ通信』がヘンリーが「預言者の聖地マッカから船に乗ってスエズに到着し、そこでイスラームに改宗した」と報じている。「ムハンマド教徒の恰好をしたイギリス人」のニュースはたちまち本国イギリスにまで届き、彼の家族は衝撃を受けることとなる。ヘンリーの家族は数年したら彼がイスラームに飽きるだろうと思っていたようだが、実際にはヘンリーは熱心な改宗者で一時の気の迷いどころか生涯に渡ってムスリムのアイデンティティを維持し続けることになる。
さらに1869年に父親が亡くなったことで彼は家督を継ぎ、なんと彼はイギリス発の英国人イスラーム教徒の貴族院議員となった。貴族院議員となってからの彼はインドにおける英国統治の改善に努めたり、親オスマン派としてトルコ傷痍軍人救済基金に多額の資金を提供したりなど、英国貴族院のなかでは親ムスリムと呼べるような議員として活動した。
その後1903年にヘンリーは亡くなった。彼の遺体はアルダリーパークの領地内にイスラーム式で埋葬されることとなり、埋葬の喪主は、在ロンドン・オスマン帝国大使館の一等書記官が務めた。さらにこのとき、リバプールのモスクでは、アブドゥッラー・クイリアムによって故人を偲ぶジャナーザ礼拝が行われた。このアブドゥッラー・クイリアムも、英国イスラーム史を代表する英国人改宗ムスリムであり、オスマン帝国のスルタンから「英国のイスラーム最高権威(シャイフルイスラーム・ブリテン)」の称号を与えられた人物である。
(続く)
文:山本直輝
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