「子どもたちは年々幼くなっているのではないか・・・」 現役の教師たちから毎年そのような嘆きの言葉がよく聞かれると語るのは、小学校教員歴40年の西岡正樹氏だ。子どもたちが幼稚化しているというのはどういうことなのか。

もしそうだとするなら、何故子どもたちは幼稚化しているのか。“学級崩壊”から“学校崩壊”へと、教育現場の混乱が日常的に語られる今、子どもたちが生活する社会の変化に目を向ける必要があると西岡氏は指摘する。学校で起こっている問題は、学校だけで解決できるようなそんな生易しいものではないことを、大人たちはみな認識すべきだと主張する。すでに地域社会(中間共同体)の崩壊がめざましい日本で、子どもたちを教育していくことは果たして可能なのか。難しい問いを私たちに突きつけている。





 



 



■日本社会は幼くなってはいないか、子どもを幼く育ててはいないか

 



 今でも目に焼き付いている光景がある。それは、20年前、北米を横断し、イギリスからアイルランドへ渡り、再びイギリスに戻る、フェリーの中でのことだ。国際フェリーは大きくゆったりしていたので、私もそのゆったり感に浸り、オープンデッキに座ってヒューマンウォッチングをしていた。すると、柱にもたれかかって話をしている老人と少女の姿に、目が止まった。少女は小学生であることは、間違いないだろう。



 二人は、特別なことをしているのではない。しかし、ただ会話しているだけなのに、その雰囲気から日本では感じられない特別なものを、私は感じていた。

というのも、二人の間に漂う関係性が、年長者と子どもという関係性ではなく、日本ではほとんど感じることのない対等な関係に見えたのだ。また、二人の態度や漏れ聞こえてくる声に、年長者の横柄さや“上から目線”も感じられないし、また、子ども独特の生意気さや受け身的な態度も全く感じられなかった。その様子からして祖父と孫の親族関係ではないことは、あきらかだ。そこには、程よい距離感があり、孫が持つ祖父への甘えのような態度や言葉もない。お互いを尊重し、お互いの話をとても楽しんでいる様子が、態度や言葉の調子から感じられた。二人は完全に自立した存在としてお互いを認め合っていることが、見ている私にも分かった。そして、私はその様子を、羨ましささえも感じながら見ていたのだ。



 翻って、日本社会ではどうだろうか。大人たちは子どもを一人の自立した存在として育て、そして、認め、尊重しているだろうか。また、小学校高学年になった子どもたちは、大人を甘えられる存在としてではなく、一人の人として認め尊重しているだろうか。



「年々子どもたちが幼くなっているように感じるんだけど・・・」



 毎年のように教師たちから発せられる言葉である。そんな声を聴くたびに、私はアイルランドからイギリスに渡るフェリーの中で出逢った老人と少女の姿を思い出すのだ。



 



「年々子どもが幼くなっているように感じるんだけど・・・」



 そう発する教師たちは、子どもたちのどのような言動から、そう感じているのだろうか。確かに、私も同じように感じる時はある。しかし一方で、「果たして、幼くなっているのは子どもだけだろうか」という思いを抱いている。



 最近続けて二度、大型書店に行った。そしてその二度とも、きれいに並んでいる筈の本が散乱しているのを見かけた。それも一か所ではない。「この大型書店は自動精算機を導入し、人員削減を試みているようなので、本を整理する人が少なくなっているのかもしれない」という思いが一度目の時はあった。しかしその散乱した状況を二度続けて見た時は、「客が無造作にやっているな」という思いが大きくなった。他者を意識できない者が、本を読み散らかしている姿を思い浮かべた。



 私の友人は、事あるごとに言う。



「電車の中はフラストレーションに溢れている」



 彼は、一時片目の視力と視野が極端に弱く、狭くなったために、電車に乗るのが怖くなった。そこで、身障者のサポートマークである「ヘルプマーク」を取得して、電車に乗ることにしたのだが、



「電車の中で立っていても声をかけられることなんて一度もなかったよ、それどころか、こっちの存在を消しているようにしか感じられなかったね」



 そう嘆いていた。



 私の友人は、正義感が強いのか、おせっかい焼きなのか分からないが、電車の中で立っているお年寄りに席を譲らず、知らんぷりしている若者に



「席を譲ってあげたらどうですか」



と声をかけてあげるような人である。だからさぞやイライラしたことだろう。



 このような大人たちの様子を見ていると、「子どもたちが幼くなった」というよりも、子どもたちは大人を見て、大人と同じように生活しているのではないかと思えるのだ。



 



「幼い」「幼稚」という言葉は、「ひとりよがり」「わがまま」「がまんできない」などの言葉でイメージされる。長年、小学校の教室で子どもたちを見てきて、その幼さ(幼稚さ)が具体的な行動として見える時があった。同僚の教師たちが発する「子どもたちが年々幼くなってきた」という言葉が耳から離れず、どこにその幼さ(幼稚さ)を感じるのか、自分なりに意識して子どもたちを観ていたからかもしれないが、そこで見つけたものは・・・





 「話を聞けない子どもたちが増えている」



 この実感は、現役の教師ならばほとんどの者が持っているのではないだろうか。そう感じられる明確な理由が一つある。それは、「聞いているふりさえできない子どもたちが増えている」ということ。ひと昔いやふた昔前は、実際聞いていなくても、聞いているふりをしてやり過ごす子どもがたくさんいた。聞いていないということは同じでも、聞いているふりができる子は、少なくとも、「今何をする時なのかが分かっている」から聞いているふりをするのだ。



 また、「聞く(聴く)」ことは、根気のいる行為だ。「見る」という行為とは異なり、言葉から自分のイメージを創り出さなければ、次の自分の行為に繋がらない。

すぐにイメージが浮かばない時には、「聞く(聴く)」ことを繰り返すしかない。しかし、「がまんする」ことができなければ、幼い(幼稚な)子どもたちは「聞く(聴く)」ことからの逃避を、すぐさま始めてしまう。幼い(幼稚な)子にとって、「聞く(聴く)」ということは容易ではないのだ。



 子どもたちは、「遊び時間」と「授業時間」を行き来しながら、学校生活を送っているのだが、子どもの気持ちとしては「自由」(プライベート感)と「不自由」(パブリック感)がずっと繰り返されているという感じなのだろう。場面に応じて、「自由」と「不自由」を自由に行き来できている子どもは、「今何をする時なのか」が分かっている子どもだから、「授業時間」は「我慢しなければならない」と自分に言い聞かせることができる。しかし幼い(幼稚な)子どもはそれができない。



「独りよがり」=幼い人(幼稚)は、他者が存在していないし、より幼く(幼稚に)なればなるほど、他者を意識できない。逆に、他者を意識すればするほど、「がまんすること」も増えてくる。滑り台の下に並んでいる保育園の子どもたちは、一人で滑る滑り台を「みんな」でしている。他者意識やみんな意識が芽生えてくると「独りよがり」ではいられなくなることが分かっているのだ。幼さ(幼稚さ)は年齢ではない。それは、滑り台の下で静かに待っている保育園児たちの後ろ姿が教えてくれているではないか。



 



 毎年のことだが新年度が始まると、私は担任した子どもたちに、必ず「幼稚とは何かな」という話をする。(低学年の場合)



 



「みんなは『幼稚』という言葉を知っていますか?」



「知ってる。幼稚園の幼稚」



「そうだよね。幼稚園の幼稚だ」



「では、みんなは幼稚な人になりたいですか?」



「なりたくないです」



「どうして?」



「もう小学生だから、幼稚園生のような幼稚になりたくない」



「そうなんだ」



 



 高学年、低学年に対する言葉の違いはあるにしても、だいたいこのような会話が成立する。そして、ほとんどの場合、子どもたちは「幼稚」という言葉に拒否反応を示すのだ。



 そこで、



「それじゃあ、みんなに幼稚な人ってどんな人なのか、教えてあげようか?」



「うん」



「まず一つ目、『幼稚な人は、話が聞けない』んだよ。二つ目、『幼稚な人は、今何をやっているか分からない』んだ。そして三つ目、『幼稚な人は、みんなでできない』んだよ。この三つができない人は、とても幼稚な人だと思うよ」



 



 さらにもう一つ、子どもたちに大事な話をする。



「人間は一人では生きていけない動物だよ」ということ。それは、私が子どもたちと学級活動をする上で欠かすことができない考えだからだ。



「人間は一人で生きていけない動物」だから、他者を尊重し、他者と繋がり、自分のため、みんなのために自分が何をするべきかを考えることが大切なのだということ。

私は子どもたちに繰り返しその話をする。何故なら、子どもたちがそのことを理解していなければ、教室は一つの共同体として成立しないからだ。それは、学校に限ったことではないだろう。



 この共同体感覚が薄れてきていることと、日本人(子どもから大人まで)が「幼く(幼稚に)なっている」ことは切り離せないものなのではないかと、私は思っている。そのことは、学校内外で起こる様々な出来事が物語っている。ここでは詳細は省くが、前述の大型書店の出来事や、電車の中の出来事は、まさしく教室の中で起こっていることと同じである。



 幼い(幼稚な)子どもたちは、学校や地域の中で多くのことを体験し、学ぶことで脱皮を繰り返し、やがて子どもたちのなかに共同体感覚が目覚めていく。そして、幼さ(幼稚)から抜け出していくのだろう。



 さて、大人たちはどのようにして、幼さ(幼稚)から抜け出していくのだろうか。



  



文:西岡正樹

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