新型コロナのパンデミック、グローバリズムの崩壊、ロシアのウクライナ侵攻、安倍元総理の暗殺・・・何が起きても不思議ではない時代。だからこそ自分の足元を見つめなおしてみよう。

よく観察してみよう。静かに考えてみよう。森先生の日常は、私たちをはっとさせる思考の世界へと導いてくれます。連載第16回。





第16回 思い出って、作るものなの?



【「思い出」って何かな、と思い出してみる】



 家族旅行や修学旅行が難しい時期があったためか、「子供たちの思い出作りができない」とおっしゃっている人たちが沢山いた(あるいは、沢山いるように報道されていた)。そうなのか、旅行というのは思い出を作るためにするものなのか、と目から鱗が落ちた(目に鱗がある動物って、知らないけれど、聖書が語源だとか)。



 そんなわけで、無理に自分の過去を振り返り、旅行の思い出を書こうかな、と考えたのだが、これといって特別な思い出がないことを再認識した。海外へ20カ国くらいは行ったけれど、特に印象深い経験はない。せいぜい、「なるほど」くらいの感じだった。つまり、予備知識から想像したとおりのものがそこにあった。



 子供の頃の旅行など、ほとんど覚えていないが、北陸の永平寺へ連れていってもらったときの、電車の乗り換えシーンが思い出深いし、奈良のドリームランドへ連れていってもらったときは、名神高速道路でオーバヒートして停まっている車が多かったこととか、潜水艦が池の底にある線路を走っていたこととか、を覚えているだけだ。



 子供の頃や若い頃の思い出として鮮明なのは、自分一人でなにかに打ち込んでいる場面、新しい発想があったとき、難しい問題が解決しかけた瞬間、などが今でも記憶が蘇る。

旅行なんかよりもずっと思い出として強烈である。



 「思い出を作る」なんていっているけれど、それは観光業のありがちな宣伝文句では? そもそも思い出は、その時点に作るものではない。のちのちになって、思い出しているうちに、何度も頭に蘇るシーンのことで、もし「作って」いるとしたら、その事象よりずっと未来になってから、思考によって処理された結果だろう。



 思い出は楽しいものばかりではない。なにかに苦労することも、苦しんだことも、あとになって、あのとき頑張ったから今がある、と思い出すわけで、楽しみは未来にある。そのためには、今は我慢をした方が楽しい思いへとつながる可能性が高い。





【アリバイを買う人たち】



 とはいえ、未来になって思い出すために、今を生きているのではない。今が楽しいから生きている。違うだろうか?



 なにかの拍子に、ふと「そういえば、あのとき」と思い出すものはあるけれど、だいたいは、いつか読んだ本の内容であったり、工作をしている途中に気づいたことだったり、あるいは、犬がまだ小さかったときのことだったりする。いずれも特別な場所ではないし、特別な時間でもない。身近な場所での日常のシーンだ。このような「思い出」は、お金をかけて「思い出を作ろう!」と意気込んで記憶に刻んだものではないはず。



 頭の中には、沢山の記憶の引出しがある。これまで生きてきた時間、蓄積され続けている。ただ、多くは仕舞われたまま、二度と開けられることがない引出しだ。そういうものが、ちょっとしたきっかけで思い浮かぶのは、なんらかのリンクがあるためで、そのリンクとは、似たもの、同じような雰囲気、どこかで見たような、なにか関係がありそうな、といったぼんやりとした、つかみどころのない細い糸によって結ばれている。それが、蜘蛛の糸に触れたように感じられ、気になり、しばらく息を止めて考えるうちに、蘇ってくる。「思い出す」とは、本来そういうものだろう、と僕は思っている。



 一生懸命写真を撮って、この日時に、この場所に自分はいました。誰某と一緒でした、といった作られた思い出というのは、ずばりいうと、「アリバイ」だ。商売に煽られて買わされている思い出は、「あなたは孤独なのではありませんか?」と刑事に追及されたときに、「そんなはずはない、この写真を見て下さい」と提示するアリバイである。



 もちろん、全然悪くない。アリバイ作りが趣味の人はとても多い。よほど、身の潔白を主張したいのだな、とSNSに神経を使う人たちを見ていると微笑ましい。





【ドイツの街を夜歩いた思い出】



 ドイツで国際会議に出席したとき、レセプションのパーティで、日本から一緒に来た教授と院生が、途中で帰ると言いだした。二人はともにアルコールを期待していたのだが、スピーチの時間が長く、1時間もテーブルで我慢させられたためだ。会場に入るまえに食前酒が1杯配られ、それを飲んだのがいけなかったようだ。1杯だけ飲んで、そのあとなにも飲めない時間が、ビール党の彼らには耐えられなかった。二人は会場を抜け出し、どこかへ飲みにいく、と去っていった。



 僕は残った。そのあと食事が出るわけだし、隣に有名な大学の学長が座っていて、言葉は少ないものの、貴重な情報を交換できたからだ。結局、パーティが終わったあと、この学長と二人で会場を出た。彼も同じホテルに泊まっていたので、夜道を1kmほど一緒に歩いた。これが、ドイツで一番よく思い出すシーンである。



 ビールを飲んで気持ち良くなりたい人たちもいるし、そういう思い出もあるだろう。人それぞれ、自分にとっての思い出がある。

思い出は、その人の生き方に結集する。思い出は、誰かが用意していて、そこから選ぶようなものではない。パンフレットの写真から見つけるのではなく、ショーケースに並んでいるわけでもない。そもそも、探して見つけ出すものでもない。なんとなく、自分の生き方を続けているうちに、自然に、そしていつの間にか、自分だけの引出しに仕舞われるものなのだ。





【しっかりと思い出せなくても良い】



 人間の記憶というのは、カメラやビデオで記録した情報に比較すると、極めてあやふやなものであることは、誰もが知っているし、重々実感しているだろう。つい昨日のことでさえ、思い出せないことは多い。「忘れてしまった」と表現されるけれど、実は最初から頭に入っていない。つまり、記憶していない。見ているようで見ていないし、聞いているようで聞いていない。逆に、思い出せなくても、記憶に刻まれていることもある。



 僕の経験では、次のようなことがあった。

気がついたらデジカメがどこにもない。家中を探し回ったが見つからない。庭で落とした可能性もあって、歩き回って捜索した。しかし見つからない。出かけていないので、敷地内にはあるはずだ。どこに置いたのだろう。自分の行動を頭の中でリプレィし、その経路を辿った。



 夜になって、このリプレィを繰り返しているうちに、ある音が蘇ってきた。庭園鉄道を運転しているとき、聞きなれない金属音が鳴り、後ろを振り返ったのだ。そのときは、なにも異状がなかったから、そのまま走り続けた。



 懐中電灯を持って、その音を聞いた場所へ行った。線路が高架になっている場所だったが、その線路の下にデジカメが落ちていた。

ポケットから落ちたときの音を聞いていたのだ。



 デジカメを置いた記憶もないし、落ちているところを見た記憶もない。しかし、落ちたときの音を聞いていたのだ。頭に小型カメラを装備して撮影していたとしても、直接の証拠は発見できなかったはずだ。つまり、AIには見つけられない。しかし、人間の頭脳は、音から連想して、記憶を蘇らせる。



 カメラのレンズを向ける行為で、自分の頭の記憶能力が確実に衰えることを、多少は気にした方がよろしいでしょう。







文:森博嗣

編集部おすすめ