新型コロナのパンデミック、グローバリズムの崩壊、ロシアのウクライナ侵攻、安倍元総理の暗殺・・・何が起きても不思議ではない時代。だからこそ自分の足元から見つめなおしてみよう。
第17回 言葉を覚えて知ったつもりになる。
【固有名詞を記憶できない人】
僕のことである。人の名前をまったく覚えられない。親しい人の名前も思い出せないことがある。また、地名も全然駄目だ。その場所が地理的にどこにあって、どのような環境なのか、あるいはその場所の絵なら描ける。でも、地名は記憶していない。
歳をとったからではない。子供の頃から、ずっとそうだった。
固有名詞を思い出せなくても、ぼんやりとしたイメージならば覚えている。2文字で、前の漢字は画数が多いとか、なんとなく、全体に不揃いな図形の文字列だったとか、あるいは、発音したときのリズムがツートントンだったとか、そんなことなら思い出せる。
僕をよく知っている人なら、田中さんと加藤さんを呼び間違えたり、清水さんと斉藤さんを区別できなかったりするのも知っているはず。僕だけが紛らわしく感じる名前の組合わせがある。多くの人たちが、固有名詞をずばり記憶できることが不思議でならない。
普段の僕が会話をするのは、奥様(あえて敬称)のスバル氏だが、彼女は固有名詞で物事を記憶している。彼女から店の名前を言われたり、お菓子の名前を言われたりすると、僕はそれがどこなのか、どんな味なのか、と尋ねるはめになり、「このまえ行ったじゃない」「いつも食べているじゃない」と眉を顰められる。逆に、彼女はその店がどの方角にあるのか指差すことができないし、お菓子の包装の模様が思い出せないのだ。
映像記憶していることは確からしいけれど、スバル氏はイラストレータだし絵を描くことが趣味だ。ただ、彼女は現物を見ないと絵が描けないが、極めて写実的。僕は現物を見て描いても、見ずに描いても、ほぼ同じ絵で、必ずデフォルメした絵になる。
【言葉で記憶すること】
たとえば、「7は孤独な数字」というフレーズが、ある小説で登場するのだが、この作品を読んだ多くの割合の人たちが、何故7が孤独なのか、という理由を思い出せない。その作品には理由が書かれているのに、その理屈を忘れるためか、あるいは理解できないためか、説明ができないらしい。
これは、「孤独」という言葉を記憶して、その理由を忘れている証拠だ。なにをもって孤独だと表現されたのか、どのような状況を孤独だと指摘しているのか、といったディテールを記憶せず、「孤独」という言葉だけを記憶に留めることで、メモリィ容量、つまり情報量の節約をしている。言葉、すなわち記号とは、このような合理化、最適化を促す。
「7」が「孤独」という2つの言葉をリンクさせて記憶するだけで、もう忘れない。そのかわり、何故7なのか、どういう意味で孤独なのか、という理屈が消去される。
一方、この命題の本質である数学的な理屈を理解した人は、十進法の自然数や約数などの組合わせなどから、7だけが特殊であり、仲間はずれであることを覚え、「孤独」だったかどうかは問題でなく、「7は特別だ」といったイメージを記憶する。その特殊性を「孤独」と表現した部分に文学性を感じるかもしれないが、同時に違和感も抱くだろう。
カラスという鳥を知っている人は、ただ「黒い鳥」という言葉を記憶しているだけかもしれない。カラスがどんな姿の鳥なのか、絵を描いてみよう。その絵を(黒く塗らずに)人に見せ、カラスだと伝えることができるだろうか?
また、言語が異なる国では、「カラス」も「黒」も通じない。そうなったとき、「カラスを知っている人」といえるだろうか?
このように、言葉を覚えて、知ったつもりになるのは、子供の頃のテストが原因かもしれない。テストで点が取れることが「知識」だ、と認識している人もきっと多い。
とにかく、言葉を覚える、ときには語呂合わせや歌にして記憶する。繰り返し暗唱させる教育は、大部分の人には有効かもしれないが、僕にはむしろマイナスだった。まったく、意味をなさないからだ。たとえば、僕は「九九」が今でもすらすらと言えない。
暗算は誰よりも早かったけれど、記号を意味もなく記憶することを強いられるのが、子供の頃に大変な苦痛だった。
【フォーカスを合わせない捉え方】
一般に、抽象的よりも具体的なものが求められる。抽象的なものは、ぼんやりとして、はっきりしない。
写真は、ピントが合っていなければならない。見せたいものに対して、焦点を合わせた画像が必要だ。しかし、あるものに焦点を合わせることで、その周辺の全体像は逆にぼんやりと霞んでしまう。見たいものだけにフォーカスすることは、その対象がどんな環境にあって、周囲とどう関係するのか、別の視点からはどう見えるのか、という数々の情報を消し去る。
具体的な情報は、ずばりその条件だけなら役立つかもしれないが、それに似たもの、少し違う条件への展開がしにくい。逆に、全体像を客観的に捉えた知見は、適用できる範囲を広げてくれるし、立場の違う場合にも有用な情報となりうる。
同じよう意味で、「俯瞰」という表現がある。高い位置からの観察を意味する。地面で活動していても、人間は空から全体を眺める目を持っているのだ。
事象を客観的に捉えるには、ぼんやりと全体を感じることが大切だ。客観的に捉えると、自身を離れ、いろいろな立場から物事を考えられる。
相手の立場になって考えることができるのは人間だけだ。これが、「気持ち」という言葉を生んだのだと思われる。もし、自分だけのことしか考えられないのなら、気持ちという言葉は、ほとんど意味をなさない。
【道はどこまでも続いている】
秋といえば行楽のシーズンだろうか。僕の庭は年中行楽シーズンである。ただ、ここ数日で2000kmほどのドライブに出かけた。スバル氏と犬1匹が一緒だった。
人混みへは行かない。誰もいない場所が好きだ。人気のなさそうなところ、誰も注目しないところへ行く。そして、写真など撮らない。
なにが楽しいかというと、移動していること自体が面白い。風景がどんどん変化するし、空気も変わる。この道はどこへ行くのか、と好奇心をそそられる。道は滅多なことで行き止まりにはならない。
道中、スバル氏と久しぶりにいろいろ話ができた。同じ家に住んでいても、普段はほとんど会話がないので、彼女の近況が少しわかった。犬は、新しい場所がそれほど好きではない。連れていったのは一番若い一匹で好奇心旺盛なのだが、それでも毎日同じことがしたいのが、人間以外の動物の習性だ。人間も歳をとると、だいたいこの傾向が強くなるように観察される。
同じことをしていても、毎日違うことを考えられる頭を持っていたい。非日常の行動はさほど必要ではない。思考はいつでも自由に非日常に飛び込める。
文:森博嗣