死のかたちから見えてくる人間と社会の実相。過去百年の日本と世界を、さまざまな命の終わり方を通して浮き彫りにする。

第16回は1940(昭和15)年と1941(昭和16)年。国葬の栄誉に浴した「最後の元老」や逮捕もされた「オタクの元祖」を取り上げる。





■1940(昭和15)年公家と武家、それぞれの退場西園寺公望(享年90) 徳川家達(享年76)



 昭和以降、国葬によって送られた政治家は三人しかいない。新しい順にいえば、安倍晋三、吉田茂、西園寺公望という顔ぶれだ。



 このうち、西園寺は「最後の元老」と呼ばれた。元老とは、大日本帝国において天皇を輔弼(ほひつ)し、後継首相の奏薦(推挙)などを行なった「憲法外機関」のことだ。当初は伊藤博文や山縣有朋をはじめ複数の実力者がその役割を担ったが、大正13年に松方正義が亡くなると、西園寺ひとりとなり、以後十数年にわたって10人の首相を誕生させた。戦後の田中角栄などとは意味合いが異なるものの、一種のキングメーカーである。



 それを可能にした要因のひとつに、異例の長命がある。18歳にして戊辰戦争の指揮官のひとりに抜擢され、パリ留学を経て政治家に。40代から60代にかけて首相や外相、文相を歴任し、90歳まで生きた。ただ、こういう人にありがちな幸運も持ち合わせていたようだ。



 1969(明治2)年9月、兵部大輔(今でいうところの防衛大臣)の大村益次郎のもとを訪れようとしていたところ、友人の万里小路通房に誘われ、飲みに出た。その日、大村は刺客に襲われ、2ヶ月後に死去。もし予定通りの行動をしていたら、巻き添えを食い、二十歳前に命を落としていたかもしれない。



 と同時に、長命が評価を下げることもある。自由主義かつ平和主義者で、昭和天皇にも信頼され、親米親英という立場でありながら、日中ひいては太平洋戦争への突入を防げなかったとして「失敗した政治家」「政治家としては気力に欠ける」などと見なされてもきたのだ。しかし、あの戦争への流れはある意味歴史の必然で、誰にも止められるものではなかった。そもそも、政敵でもあった原敬のように60代なかばで大正のうちに死んでいれば、そんな批判は受けなかっただろう。



「元老 西園寺公望 古希からの挑戦」を著した伊藤之雄は、そういうイメージの修正と再評価を試みている。バランス感覚と駆け引きに長けた政治力、さらには3人の女性と事実婚をした艶福家ぶり、などなど。なかでも印象的なのが、死の数年前に到達した苛立ちと悟りの境地だ。



「種々やって見たけれど、結局人民の程度しかいかないものだね」「どうせ自分の死んだ後のことだろうが、こんなような今日の空気が永く続けば、一体どうなるか判らない」



 70年にもわたって国づくりに関わった経験と矜持から、遅れを取り戻そうと近代化を急ぎすぎたことの限界を認め、迫りくる破局を予感しながらの晩年だった。最期は腎盂炎などを患ったことによる衰弱死である。



 さて、西園寺は藤原家の流れを汲む公家の出で、また、明治天皇と同じ、東山天皇の6世の孫だった。この年にはもうひとり、名門の人物が他界している。76歳で病死した徳川家達(いえさと)だ。



 幼名は亀之助で、御三卿のひとつ、田安徳川家に生まれ、4歳のとき、明治維新を迎えた。将軍職を辞し、謹慎生活に入った徳川慶喜に代わって宗家を継ぎ、駿府藩主となる。その後、英国留学を経て、貴族院議長、ワシントン海軍軍縮会議全権委員、日本赤十字社社長などを務めたほか、幻に終わった東京五輪組織委員長にも就いた。



 それゆえ「十六代様」などとも呼ばれたが、本人はそれを嫌がり、慶喜の娘に対しても、



「慶喜さんは徳川家を滅ぼしたお方。私は徳川家を再興した人間」



 と、語ったりしたという。



 実際、隠居となった慶喜の面倒はすべて家達が見た。「最後の将軍」が狩猟や写真といった趣味に没頭し、好物の豚肉を堪能する日々が送れたのは、この跡継ぎのおかげなのだ。



 さらに、年が改まって1月には「最後の大名」林忠祟(ただたか)が92歳で世を去った。明治維新の際は19歳で、旧幕府側として戦うために藩主でありながら脱藩。

各地を転戦するうち、慶喜から家達への徳川家存続を見届け、降伏した。



 その後は職を転々としたが、娘との二人暮らしとなった晩年は、現存する最後の大名として新聞の取材を受けるなど、淋しいものではなかった。ただ、明治維新の前と後とでは、やはり別モノの人生だったようだ。92歳で病死する直前、辞世の歌を求められると「明治元年にやった」と答えた。



 ちなみに、それは降伏時に詠まれた、こういう和歌だ。



「真心の あるかなきかはほふり出す 腹の血しおの色にこそ知れ」



 自らの正義のために、真心を懸けて戦ったのだという強固な思い。彼は「最後の大名」のまま、生きて死んだのだ。



 この11ヶ月後に、真珠湾攻撃が起きる。まさに、開戦前夜。時代の終わりを感じさせる退場の連続は、明治維新を遠い過去にした。







■1941(昭和16)年昭和天皇からも愛されたオタクがあきらめた禁忌的悦楽南方熊楠(享年74)



 オタクというのは、戦後、1980年代以降に広まった呼称だが、その定義やイメージに当てはまる人は昔からいた。この年、萎縮腎により74年の生涯を閉じた南方熊楠もそうだろう。

その知識欲や収集欲は、質量ともに圧倒的で、戦前最強、あるいは史上最強のオタクかもしれない。



 一応、専門は生物学で、米国や英国でも学んだものの、大学の堅苦しい空気には合わず、在野の学者としてすごした。オタクなのでこだわりが強く、しかもかんしゃく持ちなので、ときにはトラブルを起こすことも。明治の末には「神社合祀令」にともなう自然(鎮守の森)破壊への反対運動に熱中するあまり、集会に乱入して逮捕された。ただ、この運動自体はエコロジー運動の先駆けとして評価されることになる。



 生物のなかでも好んだのが粘菌類で、これは生物学者でもあった昭和天皇が研究していたテーマでもあった。それゆえ、天皇は熊楠を気に入り、1929(昭和4)年には彼の住む和歌山の白浜へ行幸。熊楠の講義を聴き、粘菌標本の献上を受けるなどしている。



 その33年後、再び白浜を訪れた際には亡き熊楠をしのび、こんな和歌まで披露した。



「雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし 南方熊楠を思ふ」



 とまあ、そこそこ満たされた人生に思える熊楠だが、研究をあきらめた学問もあった。男色、それも美少年愛だ。「〈変態〉の時代」(菅野聡美)によれば、結婚して2児の父になったものの「生来女嫌いにて」という性向であり、海外から帰国後は動植物の採集と並行して「持ち還りし変態心理学の書」に耽溺したという。



 粘菌類のキノコだけでなく、別のキノコにも……と下ネタのひとつも言いたくなるところだが、その嗜好はあくまでプラトニックなもの。「男色は必ずしも肛門を犯すとか猥雑なことに限らざる」とか「社会の様子によっては大いに世益あり」といった主張もした。



 また「紅夢楼主人」の名で「美少年論」という本を出そうとしたが、編集者の宮武外骨から修正を求められ、修正するくらいなら出さないという決断をしたという話も伝わっている。澁澤龍彦をして「権威によって拘束されない」「悦ばしき知恵の体得者」と言わしめた自由人をもってしても、当時はそんな時代だったのだ。



 そうこうするうち、



「変態心理の自分研究ははなはだ危険なるものにて、この上続くればキ印になりきること受け合い」



 という結論に至った熊楠。もし今の世の中を見たら、どう思うだろう。BLの漫画やアニメがあふれ「おっさんずラブ」のようなドラマが大ヒット。もし生まれ変わったら、その手のジャンルのオタクとしてもぜひ大活躍してほしいものだ。





文:宝泉薫(作家・芸能評論家)

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