「ニッポンに王子様はもういない。愛も性もゼイタク品となった時代をサバイブする、すべての女性が読むべき激辛にして、効果抜群のワクチン本だ。」作家・石田衣良さんが絶賛した藤森かよこ氏の最新刊『馬鹿ブス貧乏な私たちが生きる新世界無秩序の愛と性』が話題だ。
◆『馬鹿ブス貧乏な私たちが生きる新世界無秩序の愛と性』において書けなかったことのふたつめ
先月発売された拙著新刊『馬鹿ブス貧乏な私たちが生きる新世界無秩序の愛と性』において書かなかったことのひとつは、「聡明で美貌で富裕な人々」の愛と性の様相だったいうことを、私はここで書いた。
もうひとつ新刊拙著で書かなかったことがある。
それは、小児性愛犯罪者を産みやすい日本の性文化についてである。誰にとっても生きることはたやすいことではないが、日本における女性を取り巻く環境は厳しい。その理由のひとつは、無自覚にも性差別文化に依存している男性が多いことだ。女性をどうしても自分と対等な人格の持ち主と思うことができない男性が多いことだ。それは、女性差別文化が消えていく過程が始まってから、日本ではまだ100年も経過していないのだから、しかたのないことだ。
小児性愛犯罪というのは、女性差別文化が消える過程において生れやすい現象である。
女性差別文化や小児性愛犯罪が完全に消えるということはないだろう。なぜならば、そもそもが人間は病みやすい存在であり、ある種の男性たちには、性欲の暴走を止める脳の機能不全が、どうしても残るであろうから。
一部の小児性愛犯罪者について詳しく書くことは、日本の女性が、日本の男性に対して抱いている嫌悪と軽蔑を一層に募らせるようなことになりかねない。だから、私は、新刊拙著においては、小児性愛については少しだけ言及するにとどめた。
ちなみに、令和4年(2022年)3月に発表された警察庁生活安全局少年課による報告書『令和3年における少年非行、児童虐待及び子供の性的被害の状況』によると、児童売買春の被害者数は、2020年で1531人である。2021年で1504人である。児童ポルノの被写体となった被害者は、2020年で1320人であり、2021年で1458人である。
性犯罪は犯罪として摘発された数の10倍くらいは起きているかもしれない。何が自分の身に起きているか理解できない年齢の児童に対する性的虐待は、犯罪として警察が把握した件数の20倍くらいはあるかもしれない。
■日本は小児性愛犯罪無策大国
『「小児性愛」という病 −−− それは愛ではない』(ブックマン社、2019)の著者である精神保健福祉士であり社会福祉士の斉藤章佳(さいとうあきよし、1979-)によると、1996年にストックホルムで開催された「第1回児童の商業的性的搾取に反対する世界会議」において、日本は強く非難された。欧州で流通している児童ポルノの約8割が日本製だという理由で。
この8割という数字に根拠があるのかどうかという問題はさておいて、少なくとも1996年当時には日本の児童ポルノが野放し状態であったことは事実であった(p.108 ※『「小児性愛」という病』参照頁。以下同)。日本人は、良きにつけ悪しきにつけ、性的に実に大らかであるので、うっかりすると国際的に大恥をかいたりする。
恥と言えば、1980年代から90年代にかけての日本には、東南アジアや東アジアへの性交買いツアーが流行していた。そのツアーには、12歳前後の児童との性交を売り物にするものもあったらしい(p.79)。
というわけで、児童への性的搾取防止後進国であった日本において、やっと1999年に「児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律」が成立した。通称「児童ポルノ法」である。2005年には、「児童の売買、児童買春及び児童ポルノに関する児童の権利に関する条約の選択議定書」(The Optional Protocol on the Sale of Children, Child Prostitution and Child Pornography)を日本は批准した。
しかし、10歳前後から10代半ばまでの子どもにしか見えないセックスドール(セックスロボット)は、中国や香港とともに、日本でも製造されている。
小児性愛そのものは、単なる個人の趣味であるので、黙って心の中に秘めておくのならば問題はない。ただ、小児性愛犯罪者からの聴き取りによると、性犯罪の引き金は児童ポルノであったと述べる事例が多い。だから児童ポルノの所持だけなら問題ないのではないかという説には説得力がない。子ども相手の性犯罪に関しては、いかに厳しくても厳しすぎるということはない。児童ポルノの制作も売買も所持も規制すべきものだ。
日本には、小児性愛犯罪者の再犯防止プログラムを受けさせる制度はないし、再犯防止のための施設もほとんどない。しかし、前述の『「小児性愛」という病』の著者の斉藤章佳が勤務する大森榎本クリニックでは、2006年5月から2019年5月までで、子どもへの性加害経験者117人の治療にあたった。30種類以上の治療プログラムのひとつとして、グループミーティングも実施してきた(p.45)。
アルコール依存症患者や薬物依存症患者が集まり、体験を語り、依存症から脱け出すことをめざすグループミーティング治療法は、犯罪者の更生にも活用されてきた。
斉藤章佳のリサーチによると、日本における小児性愛犯罪者は、どの世代の男性にも幅広く存在している。逮捕時の年齢は20代から40代が多い。最少年齢は17歳で、最高年齢は62歳である。平均年齢は36歳。小児性愛犯罪は再犯率が非常に高い(p.45-51)。
彼らは10代前半で自分の性的嗜好に気がつき、その嗜好を満たせるような職業に就く傾向が多い。教師、学校職員、学童クラブのスタッフ、保育士、塾講師、スポーツインストラクター、ボーイスカウトやガールスカウトのスタッフなどである(p.134)。
小児性愛犯罪者の認知はひどく歪んでいる。相手は自分の意志を示すこともできない幼児なのに、その幼児と自分との間には「純愛」があったと言い張る。
彼らは、「子どもを見ると吸い寄せられるようについて行ってしまう」と語り、子どもが磁石で自分は砂鉄だと思っている(p.78)。子どもを見ると頭が真っ白になり、子どもに接近してしまい触ってしまうと言う。自分の意志ではなく、子どもが自分を誘うのだと思っている。
この認知の歪みこそが病気の証左だ。性的同意年齢に達していない人間と性交する小児性愛犯罪者は「小児性愛障害」(Pedophilia Disorder)という病気だと、「ICD-10国際疾病分類」や「DSM-V精神疾患の分類と診断の手引き」が定めている(p.58)。
Wikipediaによると、性的同意年齢は、国家・州ごとに大きな幅がある。ヨーロッパでは、オーストリアとドイツとハンガリーとイタリアとポルトガルが14歳である。ギリシアとポーランドとスウェーデンとフランスが15歳。ベルギーとオランダとスペインとロシアとイギリスが16歳。キプロスが17歳。
メキシコのような事例もあるが、先進国のような顔をしつつ、性的同意年齢を13歳以上にしてきた日本は、世界基準から見れば、かなり異常だ。小児性愛者にとっては天国と言えるかもしれない。しかし、そんな日本もやっと性交同意年齢を16歳に引き上げることが法制化される見込みとなった。
小児性愛犯罪を防ぐために、アメリカでは「メ―ガン法」(Megan's Law )が1994年に施行され、小児性愛犯罪者の現住所や犯罪歴を広く公開して、インターネットで検索できるようになっている。アメリカの複数の州や韓国では、性犯罪前科者にはGPS端末を装着させ、彼らの位置情報を常に把握している(p.186-187)。
日本では、加害者の人権のみが重要視されるので、小児性愛凶悪犯罪者にも司法は甘い。そもそも性犯罪一般について甘い日本の姿勢の背後には、何か表沙汰にできない事情があるのだろうか?
政府の小児性愛犯罪への対処の遅れにつきあってはいられないので、地方自治体によっては独自の取り組みをしている。大阪府では「大阪府子どもを性犯罪から守る条例」を2012年に施行した。福岡県は「福岡県における性暴力を根絶し、性被害から県民等を守るための条例」を2019年に施行した。新潟県は性犯罪前科者にGPS端末を装着して監視するシステムの導入についての検討を求める意見書を国に提出している(p.187-188)。おそらく、性犯罪者の人権がどうのとか、プライバシーがどうのと言い張る政党や国会議員のせいで、新潟県の意見書は無視されるかもしれないが。
◆小児性愛文学というジャンル
小児性愛のうち、幼女や少女のみを対象にする人間を、日本では「ロリコン」と呼ぶ。幼女や少女への性的嗜好(しこう)が、日本でロリコン(ロリータ・コンプレックス、Lolita Complex)と呼ばれるようになったのは、言うまでもなく、亡命ロシア人作家で詩人のウラディミール・ナボコフ(Vladimir Nabokov、1899-1977)が1955年にフランスで、1958年にアメリカで発表した『ロリータ』(Lolita)という小説の影響だ。
主人公の中年男性ハンバートは、初恋の少女の面影を持つ12歳の少女ロリータ(愛称)に近づくために、彼女の未亡人の母親と結婚する。その母親がハンバートの真意を知ったショックのために事故死したのち、ハンバートはロリータを連れてアメリカ中を放浪する。ロリータは彼に抵抗し、彼の友人の力を借りて彼から逃亡し、若い男の恋人を作り妊娠する。主人公は、ロリータが自分から逃げることを手伝った友人を殺害し、逮捕され獄中で病死する。一方、ロリータは出産で命を落とす。
こうして、物語の筋だけを書くと、『ロリータ』は、単なる変態の中年男の妄執の悲劇を描いた小説に見える。しかし、1962年にはスタンリー・キューブリック(Stanley Kubrick,1928-1999)によって、1997年にはエイドリアン・ライン(Adrian Lyne、1941-)によって映画化されたほどに、この小説は読者を惹きつけてきた。ちなみに、ラインは、不倫に身に覚えのある男性たちを震撼させた『危険な情事』(Fatal Attraction,1987 )の監督である。
『ロリータ』の魅力について、ナボコフ研究者の中田晶子は、次のように書いている。「小説では、pedophile である Humbertは自己中心的な恐ろしい怪物であるが、同時に永久に不可能な愛に苦しむ人間であり、同情しうる存在である、という矛盾を読者は受け入れざるを得ない。小説の Humbert の語りにはそれだけの力があるし、また Lolita の主題自体こうした両義性にある。Humbert の物語は恐ろしいpedophilia の物語であり、同時に永遠に満たされない愛の物語である」と。
『ロリータ』を読んだ私自身も、そのような感想を持つが、単なるフィクションではなく、実際にこういう事件が起きたら、認知の歪んだ中年のおっさんの「永遠に満たされない愛の物語」につきあわされるのは、少女にとっては、実に迷惑で気持ち悪いものであるに違いない。
1865年刊行の『不思議の国のアリス』(Alice's Adventures in Wonderland )も、小児性愛が生産した文学作品として有名だ。作者のルイス・キャロル(Lewis Carroll、1832-98)、本名チャールズ・ドジソン(Charles Dodgson)は、オックスフォード大学の数学の教師であり、論理学者であり、作家で詩人だった。同時に写真家でもあった。彼の写真の被写体は少女たちだった。少女たちのヌード写真も多く撮影した。
このルイス・キャロルの嗜好については、彼が神に最も近い純粋無垢な存在として裸の少女たちを見ていたのではないかと解釈されてきた。どう解釈しようが自由であるが、ヌード写真を撮影していたことは、少女たちへの性的欲望に喚起されてのことだ。たまたま知的能力が高かったので「視姦」で十分に満たされたのかもしれないが、現在ならば、確実に警察案件である。
アメリカの小説家シャーウッド・アンダーソン(Sherwood Anderson,1876-1941)の『ワインズバーグ、オハイオ』(Winesburg,Ohio:A Group of Tales of Ohio Small-Town Life)は、1919年に発表された短編集であるが、その中には、教え子の少年に性的接触をしたということで職を失い老いた元小学校教師の男性に関する物語が含まれている。作者の目や語り手の姿勢は、子どもを愛してしまう性的嗜好を持つがゆえに孤独と社会的孤立に苦しむ老人に限りなく同情的であるが、子どもの親からすれば、彼は油断ならない変態でしかない。
小児性愛文学に含まれる作品はまだまだあるが、文学作品として、どう美しく描こうと、現実の小児性愛犯罪はおぞましい。弁護の余地など全くない。小児性愛犯罪を防ぐために、小児性愛を美化するような表現は、法的に規制されるよりも前に、市民感情として受容されなくなっていくだろう。大人の認知の歪みによって、子どもを性的搾取することを愛と呼ぶような錯誤は、認められなくなっていくだろう。
我が国の古典『源氏物語』における紫の上と光源氏の関係も、充分にロリコンであり小児性愛だが、これは1000年以上も前の事例なので、ついこの間まで原始時代だった時代の人類のすることに目くじらを立ててもしかたがない。
◆日本のアニメの小児性愛傾向
ジブリのアニメ『となりのトトロ』で、さつきとメイが父親と入浴するシーンが外国では小児性愛的であるということでカットされているらしいと知って、私はなるほどなあと思った。
作家の意図はどうであれ、ジブリのアニメには小児性愛的と思われかねないシーンが多いことは、前から指摘されてきた。たとえば、アニメの『魔女の宅急便』や『風の谷のナウシカ』を初めて見た時に、なんでヒロインの少女たちの風にたなびくスカートから下着が見えるシーンがやたら出てくるのだろうと私は不思議だった。
またジブリ作品ではないし、作品名は忘れてしまったが、スクール水着姿の少女がやたら登場するアニメにも違和感があった。作家や監督にとっては、それは別に奇妙なことではないのだろうが。
そもそもが、日本アニメはロリコン要素でいっぱいだ。中学生くらいの巨乳の美少女がヒロインである日本アニメは多い。というより、そればかりだ。それ以外のヒロインが思い浮かばないくらいだ。
あまりに、そういうアニメばかりなので、舌足らずに話す少女が成人女性のような豊満な肉体の持ち主という設定をあたりまえのように感じてしまうが、これは相当に奇妙なことではある。巨乳の少女とは、男性にとっては、成人女性のようなセクシーな身体は持つが、自分にとって脅威にはなることはなく、常に自分の方が優位に立てる子どもだ。つまり、巨乳美少女とは、「自分を支配することはないが永遠に若く自分を受け容れてくれる幻想の母」の表象なのかもしれない。
小児性愛犯罪の引き金になるという理由で児童ポルノの規制は、今後はより一層に厳しくなっていくだろうが、日本のアニメの巨乳の美少女という表象も、日本の小児性愛犯罪を喚起するものとして考える人々が増えていくかもしれない。
同時に、自分の幼い娘に化粧を施し、肌の露出の多い衣類を身に着けさせる類の昨今の親にも厳しい視線があてられていくようになるかもしれない。自分の子どもが小児性愛者の欲望の対象になりかねないことに思い至らないとは、いかにも不用心で間抜けだろう。
最近は、SNSに自分の幼い子どもの写真を掲載しない親が増えている。小児性愛犯罪を回避するためである。当然の見識だし危機管理だと思う。
私は、NHKの番組で、肌の露出が多い衣類を身に着けた幼い少女が出演している番組を見た時に、NHKのスタッフには小児性愛者がいるのかといぶかしんだことがある。
◆LGBTPZNの権利提唱者が忘れていること
『「小児性愛」という病』の著者の斉藤章佳は、インターネットを中心に広まる「これからはLGBTではなく、LGBTPZNの権利が認められるべきである」という言説に、当然のことながら批判的だ(p.34)。
言うまでもなくLGBTは、レズビアン(lesbian)とゲイ(gay)とバイセクシュアル(bisexual)とトランスジェンダー(transgender)のことだ。PZNとは小児性愛(Pedophilia)と獣姦(Zoophilia)と死体姦(Necrophilia)のことだ。
同性愛は当事者相互の同意があれば問題はない。異性にも同性にも性的嗜好があることも、性交相手の同意があれば問題ではない。生来の性を拒否して異性になりたがるのも好きにすればいい。しかし、小児性愛にしろ、獣姦にしろ、死体姦にしろ、性交相手の同意を得ることは不可能なのだから、PZNの権利を言い立てる人々は、そのような権利をどうやって要求できるのだろうか? 他者を、その他者の意思を無視して性的道具にする権利など、誰にもない。
SMAGの権利も認めろという主張まであるそうだ。今は廃刊となった『新潮45』において某文芸評論家が、そう主張したそうだ。
SMAGは、サディズム(Saddism)とマゾヒズム(Masohism)とお尻フェチ(Assfetish)と痴漢(Groper)のことだ。サドもマゾも、当事者間に合意があれば勝手にやっていればいい。お尻フェチも、臀部の写真でも動画でも集めていればいい。しかし、痴漢の権利などは認めることはできない。同意を得ていない性行為は犯罪である。
小児性愛は、対等な性交相手になる意識も見識もない幼い子どもを相手にするという意味で、必然的に子どもを性的道具にする。しかし、それが理解できないような脳に機能不全を持つ男性は、自然界に一定数は生まれてくる。しかし、そんな男性はあくまでも少数なので、馬鹿ブス貧乏な女性は、性交を支配の手段にしない資質のある男性を粘り強く探し求めよう。
文:藤森かよこ