どうやら世間では「推し活」なるものが流行っているらしく、編集者さんから「推し活について記事を書きませんか!」という元気のいい打診をもらった。どうやら普段から私がちょっと変わった趣味の活動……例えばコーヒー好きが高じて定休日のカフェを借りてマスターをやってみたり、能を習ってみたり、学生でもなんでもないのに高校や大学の範囲の勉強をしてみたり……をしており、Facebookなどによく投稿していることが目を付けられたようなのだ。



 しかし、こういった趣味の活動がいわゆる「推し活」かというと、それはちょっと違うように思える。



 何を書いていいものか途方に暮れるが、ライターらしくまずは「推し活」という言葉の使われ方を考察するところから始めてみよう。



 世間一般で言う「推し活」という言葉は、多分アイドルを応援することを起源とし、昨今は歌手、作家、あるいはスポーツ選手、場合によっては「行きつけのカフェ」みたいなお店まで含むこともあり……このような広い意味でのエンターテイナーを応援することと考えていいだろう。



 さらに言えば、「○○のファン」という受動的な状態が、「推す」という能動的な行為として再定義されたことで、娯楽のただの消費者/受け手であることに留まらず、「応援することで、自分自身の生活が彩り鮮やかになる」ことまでを射程に捉えた言葉であるように思われる。「生活が彩り鮮やかになる」とは、例えば、日々の仕事に追われ生活に張り合いがない時、自分より若い歌手やスポーツ選手がストイックに頑張っている姿を「推す」ことで、「○○君/ちゃんがあんなに頑張っているんだから、自分も頑張ろう」と自分を奮い立たせるようなことだ。特にアイドルのファンにはこういう人が結構見受けられる。



 



「推し活」を、自分自身の考え方や行動も変化するくらいに誰かのことを応援したり、追いかけたりすることとして定義した時、その観点から私にとってもっとも重要な「推し」は誰か。



 考えるまでもない。それは、小沢健二だ。



 小沢健二より素晴らしいと思うミュージシャンは何人もいるけれど(小沢健二がミュージシャンとして素晴らしくないというわけではない。特に歌詞の良さとギターのアルペジオ奏法の巧さは出色だろう)、小沢健二ほど、創作物を通じて私に考え方・行動に影響を与えた人間は、本職の哲学者や思想家まで含めて他にいない。



 これは私に限った話ではなく、私の観測範囲(ツイッター上での小沢健二のファンダム)では、彼のファンのかなりの割合が、ただ「好きな歌手」ということで小沢健二を推しているのではなく、ある種「人生の道標」みたいなものを彼に重ねている。



 この原稿を書いている2023年1月現在、小沢健二のツイッターアカウントにはフォロワーが約15万人いるが、このうちの少なくない割合(少なくとも3割以上)は、小沢健二を預言者か、人生の師か、そこまででなくても信頼できる思想家/哲学者のような存在と考えているはずだ。かくいう私がそうなのだから、他の人もそうでないと馬鹿みたいじゃないか。



 



■いたいけな大学生がオザケン沼に落ちるまで

 



 小沢健二のファンは、何が魅力でそれほどまでに彼を崇拝しているのか。



 小沢健二を推しておらず、かつ90年代の活躍をなんとなく知っている世代の人は、90年代の「オザケン」に大体こんな印象を持っているはずだ。



「東大卒で、なよなよした雰囲気のいいとこのボンボン。歌はあまり上手くない」



 小沢健二を熱狂的に推す私たちオザケンファンだが、この印象に関してはまったく否定しない。なよなよしていたことも、いいとこのボンボンであることも、歌があまり上手くないことも、すべて事実だ。(正確には、小沢健二は「小沢健二的歌唱法」の当代随一の使い手なのだが、「小沢健二的歌唱法」の評価軸は一般にいう「歌の上手さ」とは異なるので、「オザケンは歌がヘタ」と誤解されても仕方ないことはファンも認めざるを得ない)



 



 それではなぜ、なんか雰囲気が鼻につくし、歌だって大して上手くない(と思っていた)小沢健二に、私たちは沼落ちしてしまったのか。



 結論を言えば歌詞の素晴らしさに惹かれたからだが、例として私の沼落ち過程を紹介しよう。



 90年代に小沢健二がテレビに露出しまくっていた当時、私は小学4~5年生で、やはり「歌手なのにあんまり歌上手くない。なんか有名な音楽家(小澤征爾)の親族らしい」くらいの印象しか持っていなかった。若い頃は誰しもものの道理が分かっていないもので、汗顔の至りだ。



 転機が訪れたのは、小沢健二が一般に露出しなくなってから数年経った2003年、私が大学に入学した年のこと。私は、SHIBUYA TSUTAYAの当時地下2階にあったレンタルCDコーナーで、「そう言えば、高校の軽音楽部の先輩が好きだったな」くらいの軽い気持ちで、だいぶ年期が入り歌詞カードもよれよれだったフリッパーズ・ギターのアルバム『カメラ・トーク』(1990)を手に取った。家に帰り、借りてきたCDを自分用のCD/MDコンポにかけた瞬間から、私の人生はそれ以前とまったく変わってしまった。



「走る僕ら 回るカメラ もっと素直に僕が喋れるなら」(「恋とマシンガン」)



「花束をかきむしる 世界は僕のものなのに」(「午前3時のオプ」)



など、まるで自分の心のうちをそのまま覗いて具現化したような歌詞に、少年から青年へと移り変わるさなかにいた18歳の私は完全にノックアウトされてしまったのだ。



 さらに言えば、フリッパーズ・ギターとして活動していた当時の小沢健二は東大の学生だったわけだが、私が入学した大学も東大だった。東大に入学してすぐのガキンチョは、往々にして高校の勉強が人より得意だった程度のことで天狗になるものだが、おかげさまで私の鼻は入学後すぐにへし折られたのだった。



 駒場キャンパスのベンチに座り、MDウォークマンから『カメラ・トーク』を流し、夏の日差しを遮る青々としたいちょう並木を眺める。十数年前に同じ場所を、大体同じ景色の中を歩いていた時期に書かれたのであろう歌詞を聴きながら、



「小沢健二は、俺と同じくらいの年齢でこんな凄い歌を作っていたのか。俺なんてただの凡人じゃないか」と、今振り返ってもまったくもって正しい認識に至ったのだった。



 



 それから、フリッパーズからの当然の流れとして小沢健二のソロを聴くようになり、「ぼくらが旅に出る理由」を一日に最低10回は聴く時期がひと月ほど続き、次に「さよならなんて云えないよ」を同じく最低10回は聴く時期が半月ほど続き……とオザケン漬けの日々が始まった。アルバムに収録されていなかったシングル曲を聴くために、ヤフオクで短冊CDのセットを定価の倍の値段で買い求めたりもした。般若心経を求めてシルクロードを旅した三蔵の気持ちが、少し分かった気がした。

歌詞に描かれた世界がダイレクトに伝わってくる瑞々しい歌い方にも、いつの間にか惹かれるようになっており、ただ音程が合っているだけの歌手をつまらなく感じるようになった。



 ……以上が私がオザケン信者になった経緯だが、私のような後追いファンは大体似たような経緯を辿っていることだろう。





■思想家/哲学者としての小沢健二

 



 ここからは、本記事の本題である「思想家/哲学者としての小沢健二」について論じていく。



 その前に、ここで論じるのはあくまでも「私が小沢健二から受け取った思想」であり、「小沢健二の思想そのもの」ではないことをご承知いただきたい。



 そもそもプラトンを読もうがアレントを読もうが、一冊の本にまとめられているものは彼らの哲学的思索のほんの一部なのだし、彼らと同じ哲学的思索を踏破していない我々が彼らの本を読んだところで、彼らの思想を完全にものできるはずがない。彼らの著作から「知ったかぶりはよくない」とか「民主主義の前提は知性に優れた人同士の議論だ」みたいなことを吸収したとしても、それらはあくまで「彼らの著作から私が受け取った思想」に過ぎず、本人の思想にとっては海面の泡程度のものだったり、あるいは単純に私の誤読かもしれない。



 その上で、私が小沢健二から受け取った価値観や思想をいくつかのキーワードにまとめると、



「温故知新」



「信仰を軽んじないこと」



「手仕事を大切にすること」



ということになり、私の考えや行動の重要な指針になっている。



 



■「温故知新」

 



 フリッパーズのデビューから、少なくとも90年代の一連のソロ作品までの小沢健二の楽曲は、歌詞が高く評価されていた一方、作編曲には「パクリ」という批判がされることも多かった。実際フリッパーズの3rdアルバム『ヘッド博士の世界塔』は、(恐らく現代のコンプライアンス基準では問題があり、元ネタ側の許可を取るのが難しいのか、)長らく廃盤になっている。ファンにしてみれば、フリッパーズ/小沢健二が楽曲をパクっていることは承知の上で、「センスいいポップスを紹介してくれるお兄さん」的な扱いをしていた面もある。



 



 フリッパーズ~ソロの初期の小沢健二が引用していた曲には「知られざる佳作」(いわゆる「レア・グルーヴ」)みたいなものが多かったが、オザケン人気を不動のものとした小沢健二の2ndアルバム『LIFE』以降は、ポップス史に残るメジャーなミュージシャンからの引用が目立つようになった(と私は感じている)。



 パッと思いつく名前を挙げると、マイケル・ジャクソンやジャクソン5、ポール・サイモン、プリンス(のバングルスへの提供曲)からメロディやリフを引用しているし、アルバム『LIFE』のロゴはスライ&ザ・ファミリー・ストーン(ファンクミュージックのオリジネイターのひとつ)の同名アルバムそのものだ。

日本のバンドでもゴダイゴからメロディを引用している。



「小沢健二のようになるには、小沢健二が触れてきた作品に触れなければならない」と直観した私は、それら引用されたミュージシャンの楽曲をむさぼるように聴き、次第に私の水に合った70~80年代の洋楽を広く愛聴するようになった。



また、曲の引用ではないが、「天使たちのシーン」という曲の歌詞には「スティーリー・ダン」というバンド名が出てくる。「天使たちのシーン」を初めて聴いてから4年後、黒い背景に怪しくたたずむ山口小夜子がジャケットのCDをHMVで見つけて「おお、これがスティーリー・ダンか」と買ったことが、フュージョン、ひいてはジャズを愛聴するきっかけにもなった。小沢健二が引用した楽曲が、先行するポップスや、さらにその源流にある音楽の豊かな水脈との橋渡しになったのだ。



 このような経験を重ねる中でいつの間にか、私の中で「偉大なものの背後には、先行する偉大なものがある」「偉大さに少しでも近づきたいなら、先行する偉大なものを吸収すべきだ」という、「温故知新」の思想が血肉になっていったのだった。



 



■「信仰を軽んじないこと」

 



 小沢健二には「神様」に言及した歌詞が多い。90年代の曲(私にとっては、「ファンになった時にすでに発表されていた曲」ということでもある)では、例えば以下のような形で「神様」について触れている。



 



「神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように」(「天使たちのシーン」)



「それでここで君と会うなんて 予想もできないことだった 神様がそばにいるような時間」(「ローラースケート・パーク」)



「僕の心は震え 熱情がはねっかえる 神様はいると思った」(「ある光」)



 また「神」という単語は出てこないが、「戦場のボーイズ・ライフ」の曲全体、特に



「胸の奥にそっとロザリオ隠して人はみな歩く」(「戦場のボーイズ・ライフ」)というフレーズは、ある種の信仰を歌ったものと言えるだろう。



 



 小沢健二がどのような神を(あるいは仏を、なんにせよなんらかのdivineを)信仰しているか、プライベートなことに興味はない。しかし人並み外れた知性と才能に恵まれ、社会的にも成功している小沢健二にとってでさえ、「天使たちのシーン」にあるように「神様を信じる」ことが「生きることをあきらめてしまわぬ」ための支えになる。



 小沢健二に心酔しきっていた私にとって、これは大きな驚きであり、それまでの自分の常識を疑うきっかけにもなった。

私が少年時代を過ごした(そして小沢健二が最初に世間で活躍していた)90年代の日本には、戦前の国家神道への反省か、あるいは統一教会やオウム真理教の反動か、「宗教や信仰の話題は、なんか気持ち悪い」みたいな空気がうっすらと漂っており、2000年代でも相変わらず続いていた(2020年代では、その嫌悪感がより顕在化しているようにも思える)が、その空気に身を沈めず、距離を置いて観察しようと思うようになった。



 



 偉大な知性も「神(ではないかもしれないが、何らかの信仰)」を必要とする。



 この驚きに一つの答えを得たのは、それから何年か後に、ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスの『自省録』を読んだ時のことだった。



 『自省録』の中でマルクス帝は、数え切れないほど神への感謝と、神の意思に従うことについて書いている。



 私などより遥かに聡明であることが文章の端々から伝わってくるマルクス帝が神を信じていたのは、それではローマ人がまだ未開だったからかというとそうでもない。(ちなみに、彼の文章を日本語に翻訳した神谷美恵子も私などより遥かに聡明だし、彼女の代表作『生きがいについて』でもやはり「信仰」は重要なテーマになっている)



 マルクス帝自身が「「君がそんなに神々を敬うのは、どこかで彼らを見たからなのか。それともなにかの方法で彼らの存在を確かめでもしたのか」と尋ねる人々に」(向けてその理由を記す、の文脈・筆者補足)といったことを書いていることから、彼のような信仰心は、当時のローマ帝国でも決して一般的ではなかったと推察される。



 それではなぜマルクス帝は、神に感謝し、神の意思に従おうとするのか。



 彼の言葉を借りると、ひとつには、神々の支配の下に身を置くこと(そのような霊感に従うこと)は、「理性と公共精神という善きもの」を大切にし、「大衆の賞讃とか権力とか富とか快楽への沈溺のごとく本質の異なるもの」に対抗させないためだと言う。(上3段落のカギ括弧内は『自省録』(マルクス・アウレーリウス・著、神谷美恵子・訳、岩波文庫)より引用)



 これを私なりに解釈すると、しょせん人間はろくでもない生き物なので、自己都合だけで動くとろくなことをしない。しかし「神」という名の「超越的な善の視点」を自分の外に置き、そこから自分の選択や行動を照らすことで、善い行動を取ることができるわけだ。



 べらんめえ調に言えば、「テメエの都合や世間様でなく、お天道様に恥ずかしくないように生きろよ」ということになる。



 



 小沢健二から得た「信仰」というものへの疑問をこのように消化した私だが、その答え合わせになったのが、2017年に19年ぶりのシングル曲として発売された「流動体について」だ。そこには以下のような歌詞がある。



「神の手の中にあるのなら その時々にできることは 宇宙の中で良いことを決意するくらい」



「無限の海は広く深く でもそれほどの怖さはない 宇宙の中で良いことを決意する時に」(「流動体について」)



 



 ここでの「神」は運命を握っているものとして解釈され、新たに導入された「宇宙」という言葉が「超越的な善の視点」の比喩であることは明らかだろう。



■「手仕事を大切にすること」

 



 それでは小沢健二は、何を「善いこと」だと考えているのか。



 彼が2000年代後半から発表してきた物語やエッセイにはその答えが具体的に書かれているのだが、楽曲の歌詞にもそのエッセンスは見え隠れしている。例えば2012年の「東京の街が奏でる」コンサートで発表され、後に音源化された「神秘的」では以下のように歌われていれる。



 



「幻? いや それはイスラム教の(2番では「キリスト教の」)詩(うた)のように 確かな時を刻むよ(2番では「愛という奇蹟を讃うよ」)」



「幻? いや それは台所の音とともに 確かな時を進むよ」



「神秘的 でも それは台所の歌とともに 確かな時を遠く照らす」



(「神秘的」)



 



 つまり小沢健二は、イスラム教やキリスト教の祈りの詩と、台所の音(歌)は、同じように神秘的だと評価しているのだ。私の解釈によれば、台所の音は「超越的な善の視点」に適うということだろう。



 



「流動体について」「神秘的」を含め、活動再開後に発表された多くの曲が収録された2019年のアルバム『So kakkoii 宇宙』(英題:So kakkoii Pluriverse)では、この思想がさらに明確に打ち出されている。



 



オープニングナンバーの「彗星」では



「今ここにある この暮らしこそが宇宙だよと 今も僕は思うよ なんて奇跡なんだと」(「彗星」)



と「暮らし」という言葉をフィーチャーしており、最後を飾る「薫る」では



「君が君の仕事を(2番では「学業を」)する時 偉大な宇宙が 薫る」(「薫る(労働と学業)」)



と、仕事(労働)と学業を賛美している。



 つまり小沢健二は、仕事や学業で構成された日々の生活を「善いもの」として捉えているのだ。ある時から小沢健二は、コンサートの最後にカウントダウンし、(エンターテインメントという非日常から)「日常に帰ろう」と締めるようにもなっている。



 



 それでは小沢健二は、「何でもいいから働け」というブラック企業の経営者みたいなことを言っているのかというと、まったく真逆だ。



 2016年に発表された「仕事をせんとや、生まれけむ」という朗読台本の中で、小沢健二は「人には、仕事をしたいという性質が備わっている」が、「与えられた仕事が、したくない仕事だから」(人はサボる)という研究結果を紹介し、「社会にある仕事は(中略)」、例えば数字を動かすだけのような「手で触れられないものになった」ことに言及している。その結果「「嫌だなあ、仕事したくないなあ」と思っているとしたら、僕は、やっぱり、したい仕事が多い世の中になればいいなあ、と強く願う。」と語っている。(本段落のカギ括弧内は「仕事をせんとや、生まれけむ」(小沢健二、2016)より引用)



 



 手で触れられる、私の生活から離れない、「したい仕事」。それが小沢健二にとっての「善いこと」なのだろう。



 カール・マルクスは、資本主義により人は世界との交感を妨げられ、疎外されていることを看破し、労働者の団結を呼びかけ共産主義の到来を予言した。



 小沢健二は、やはり資本主義が人と世界の交感を妨げていることを問題視したが、「だったらこっちからさっさと世界と交感すればいいじゃん」という、より直接的、かつ一人ひとりが個人的に実現可能な方法を提案した。それが宇宙を薫らせる、善いことなのだと。



 日常のために作られた道具の中に阿弥陀仏の業を見出し、「民藝」と名付けた柳宗悦のように、小沢健二は日々の生活の中に神秘的なものを見出した。その結果ツアーグッズなんかもオザケン自身がデザインするようになった。



 この思想が前面に顕れているアルバム『So kakkoii 宇宙』の英題では、「宇宙」という単語が一般的に使われる「Universe」ではなく「Pluriverse」と訳されている。



「Uni」=「ひとつの、統一された」宇宙ではなく、「Pluri」=「多量の」宇宙、よく聞く言葉で言えば「多元宇宙」ということになるだろう。



 しかし、これまで解説してきたような小沢健二思想を吸収してきた私は「一人ひとりの宇宙」と理解するのがより適切だと思える。かつて「神は死んだ」と宣言したニーチェが、後になってツァラトゥストラの口を使って「死んだのは「唯一」を名乗る神であり、一人ひとりが頂く神は生きている」と訂正したように。ニーチェの言う「超人」とは、言い換えると人間が「一人ひとりの神」になることを目指す途上にいる半神のことだ。



 



■すべては小沢健二への「推し活」である

 



 とまあ、ここまで駆け足で、私の思想の小沢健二からの影響を紹介してきたが、要ははじめに提示した「温故知新」「信仰を軽んじないこと」「手仕事を大切にすること」が、私が小沢健二から受け取った思想だ。



 こうして自分の思想の形成過程を振り返ってみると、はじめに私の趣味として挙げたコーヒーを淹れることも(結果喫茶店のマスターをやってみたことも)、能を習っていたり、数学を勉強してみたりしたことも、演劇に参加していることも、すべて「小沢健二から受け取った思想の体現」だったことに今更ながら気がつく。私の中の小沢健二が、私をして「喫茶店やりませんか?」という誘いに「YES」と答えせしめ、習い事として能を選ばせしめたのだ。



 だとしたら、キリスト者が人生をキリストへの捧げ物にするように、私はオザケン者として人生をオザケンへの捧げ物にしてきたと言って過言ではないし(過言ではないにせよ、強引だとは承知しています)、その態度はたしかに私自身の人生を彩り豊かにしてきた。



 SHIBUYA TSUTAYAで『カメラ・トーク』を手に取ったあの日から、私は小沢健二への「推し活」としての人生を送ってきたのだ。





文:甲斐荘秀生

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