「ニッポンに王子様はもういない。愛も性もゼイタク品となった時代をサバイブする、すべての女性が読むべき激辛にして、効果抜群のワクチン本だ。」作家・石田衣良さんが激賞した藤森かよこ氏の好評既刊『馬鹿ブス貧乏な私たちが生きる新世界無秩序の愛と性』。
◆なぜあなたはモテないのか?
男性は、既成の似非性交ファンタジーに植えつけられてしまった勘違いを繰り返して女性から嫌われないように、妻や恋人から軽蔑されないように、二村ヒトシの『すべてはモテるためである』(文庫ぎんが堂、2012年)を読んでおくべきだと思う。多くの人々から支持されているように、この本は、ほんとうにいい本である。
二村は、『すべてはモテるためである』の冒頭に、「なぜモテないかというと、それは、あなたがキモチワルいからでしょう」と、はっきりと言う。
そして、なぜモテたいと思うのか自己把握しようと言い、第1章では、その理由例として9点ほど挙げる。それから、どういうふうにモテたいのか、どんな状態を目指しているのかについてはっきりさせようと勧め、36例ほど挙げる。
たとえば、「セックスに不自由しない」ことが目的なのか? 「お金を払わないセックスを経験したい」のか? それとも、交際が長く続いたことがなく、すぐに女性に去られてしまうので、ちゃんとずっとつき合い続けたいのか? 配偶者(もしくは恋人)はいるけど、もっと愛されたいのか? 妻や恋人はいるが、もっといろんな女性と性交したいのか? すごい美人の恋人が欲しいのか? それとも貞淑ならブスでいいのか? ただひたすら、キャバクラでちやほやされたいのか?
そして第2章では、少しは外見を直すことと、バカを直すこと(特に下品を直すこと)、臆病を直すことについて、具体例を豊富に提示する。歯列矯正するとか、真性包茎を手術するとか、体臭や口臭が酷いのならば病院に行くように勧める。どの医科に行くべきかまでは書いてなかったが。
第3章では、女性に「お前」と言うなとか、ちゃんと相手の話を聴けとか、ギラギラしているなとか、自慢じゃなくて自分のありのままを開示せよ、と言う。
『すべてはモテるためである』の最高に秀逸な点は、自分自身の中の女性の部分を意識せよと書いている第4章だ。二村は、「男は[自分の中の女]と似たところのある女性を好きになるんです」(170頁)と書いている。
つまり、男性は、彼自身の投影でもある自分の中の女性とよく似た女性が、たまたま彼自身とよく似た男性像を内面化しているならば、うまく交際できる。愛し合えるというわけだ。含蓄が深い。
とはいえ、男性も女性も成熟してゆけば、自分自身の中の異性像を他人に投影することなく、自分自身の中で統合していく。いつまでも理想の異性を求めて恋愛したがる人間は、本来は精神的には両性具有の人間存在への理解が足りず、自分自身の中の異性像の存在に気がつかず、それらを統合して自己の精神世界を広げることに失敗している。
最近は、ユング心理学は流行していないので、男性の中の女性性(アニマ)と、女性の中の男性性(アニムス)との関係からの恋愛論や人間としての成長について書かれているものは少ないようだ。
よく考えてみると、私たち女性は、自分の中の男性の部分に質問しながら、生身の男性に対処する。たとえば「私が男性ならば、こういう言い方を女性にされるのは嫌だから、言い方を変えて主張しよう。私が男性だと臆病なくせに虚勢を張るだろう。だから、男性が脅(おび)えないように、ちゃんと敬意と柔軟性を男性に示して、決して性急にならなければ、話が通じるだろう」とか考えて、男性に対する言動を選ぶ。
その際に、その「私」が想像し設定する男性というのは、理想的に完ぺきな男性像ではない。自分自身にとってリアルな男性像のはずだ。自分が男性であったら、そうであったろう男性だ。自分が自分自身について好きだと肯定できる部分を共有実現している男性だ。
たとえば、自分の中の冷静な部分が好きならば、自分の心の中の男性は冷静さを維持できる人だ。そういう自分が心の中に設定している男性像に、相手の男性がほぼほぼ合致すると安心できるし信頼できる。
自分の中の自分が好きな部分を実現している男性像とかけ離れている男性には違和感が大きいので、関わってもすぐに離れることになる。うまくいっている夫婦というのは、だから、似た者どうしだし価値観が似ている。生き方も美意識も似ている。それは、互いの内なる異性像に互いが近いからだ。
独居の独身男性でなく、家族と同居の既婚男性でも体臭や口臭が非常に気になる人が稀にいるが、これは配偶者から自分の体臭や口臭について指摘されず、それらを治す契機がないからだ。なぜならば、彼は、彼の妻の心の中の男性像とあまりに不一致なので、彼の妻は彼に無関心だからだ。
◆成功者の中に不快な顔つきをしている人間がいるのはなぜか?
カネに不自由しているわけではないのに、国会議員とか企業の経営者とかの成功者の中には、何でこんな不快な汚い顔つきをしていて平気なのか? と不思議になるような人物をときどき見かける。それは、彼らの近くにいる女性(例えば妻とか)の内なる男性像と彼らがまったく合致していないということなのだ。どういうことか?
通常は、妻にとっては、夫は自分の中のもうひとりの男性形の自分なのだから、みっともないままに放置などできない。夫が、彼女の心の中の自分自身と似た男性像に近いのならば、夫はもうひとりの自分だ。自分をみっともないまま放置などできないではないか。それを放置しているということは、その夫は妻の内面の中では存在していないということなのだろう。
ともかく、このようなことを私に考えさせた二村ヒトシの『すべてはモテるためである』は、洞察と教えに非常に富んでいる。そして最後に、二村はモテたい男性たちに告げる。「大人だということは『もうそんなに長い時間は残ってないんだからなるべく他人を幸せにしよう』と考えることだ」(211頁)と。
『すべてはモテるためである』は、男性ばかりでなく女性が読んでも非常に有益だ。いくら女性を馬鹿にしても、女性から嫌われる人生は男性にとっては寂しい(と私の中の男性が言う)。
文:藤森かよこ