放送法の政治的公平の解釈などを説明したと記された行政文書をめぐり、関係した総務省職員の一人が「原案を作成した認識はある」と説明しているとの調査結果を報告。“捏造でなかったら議員辞職する”とまで啖呵を切った高市はそれを全面否定した。

高市のメンタリティはどのような土壌の上に発生したのか。『日本をダメにした新B層の研究』を刊行し、売国政治屋・マスコミをのさばらせた近代大衆社会の末路を鋭く分析した適菜収氏の「だから何度も言ったのに」連載第36回。





■表情は硬直し目が泳ぎまくる高市早苗

 私は『月刊日本』という雑誌で「保守のための必読書」という連載をやっているが、4月号の特集で『安倍晋三回顧録』の批判をしていて面白かった。私も『回顧録』を1時間くらいで読んだが、気分が悪くなった。そこから見えるのは、安倍という男の絶望的な幼さ、自己中心的な思考、地頭の悪さだ。内容も真偽不明で検証不能な話の数々、寒々しい自慢話、酔っ払いのようなクダ、責任の押し付け、卑劣な言い訳のオンパレード。恥知らず。



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 安倍が残したゴミも腐臭を放っている。放送法の政治的公平性に関する行政文書をめぐり、高市早苗が自身に関する記述を「ねつ造だ」と発言した件について、野党側は国会で追及。高市はついに「私が信用できない、答弁が信用できないんだったら、もう質問なさらないでください」と言い出した。支離滅裂。意味不明。

「答弁が信用できない」から質問しているのではないか。



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 同文書について総務省が調査を行った結果、「捏造はなかった」と国会に報告したことを立憲民主党の議員が明らかにした。石橋参院予算委筆頭理事は「(総務省関係者に)捏造と言った者は誰もいなかった。つまり、2月13日はあったということですから、高市大臣の捏造というのはすべて崩れたと思います」と説明。



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 麻生太郎が街頭演説で「政治に関心がないことは決して悪いことではない。健康なときに、健康に興味がないのと同じだ」と発言。麻生は以前にも「若者が政治に関心がないことは、悪いことではない」と言っているが、麻生が政治に無関心だったら日本はもう少しまともな国になっていたのではないか。



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 控えめに言って麻生は人間のクズである。1983年、「東京で美濃部革新都政が誕生したのは婦人が美濃部スマイルに投票したのであって、婦人に参政権を与えたのが最大の失敗だった」と発言。2013年、「ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうかね」。

2016年、「90歳になって老後が心配とか、わけのわかんないこと言っている人がこないだテレビに出てた。『オイ、いつまで生きてるつもりだよ』と思いながら見てましたよ」。2017年、「何百万人を殺したヒトラーは、いくら動機が正しくても駄目だ」。同年、衆院選の自民圧勝に際し「明らかに北朝鮮のおかげもある」。2018年、自衛隊の日報隠蔽に関し「10年以上前の話でどうだったかと言われると、防衛省も困るのかもしれない」。同年、財務事務次官のセクハラ問題について「セクハラ罪という罪はない」。同年、財務省の公文書改ざんに関し、「少なくとも、バツをマルにしたとか、白を黒にしたというような、いわゆる改ざんとかいった悪質のものではないのではないか」。よくこんな人間に投票するよね。



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 連中に共通するのは、安倍と同様の絶望的な幼さだろう。オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガは、『ホモ・ルーデンス』で小児病患者を描写した。もちろん、「小児病」とは小児に特有な病気を指すのではない。ホイジンガの言う文化的小児病(ピュエリリズム)は、一昔前の「中2病」というスラングに近い。

これは思春期に見られる、背伸びしがちな言動を揶揄する言葉であり、転じて自己愛に満ちた空想や嗜好を指す。



 ホイジンガは言う。



《心理的にさらに深いところに基礎をおいた特質で、これまた同様に小児病と名づけることによって最もよく把握することのできるものには、ユーモア感覚が欠如していること、反感を秘めた言葉に対して、いや、ときには愛情をこめた言葉に対しても、誇張的な反応の仕方をすること、物事にたちまち同意してしまうこと、「他人」に悪意ある意図や動機があったのだろうと邪推して、それを押しつけてしまうこと、「他人」の思想に寛容でないこと、褒めたり、非難するとき、途方もなく誇大化すること、自己愛や集団意識に媚びるイリュージョンにとり憑かれやすいこと、などがある》



 ネットで「真実」を知り、「目覚めて」しまう人々はこれに近い。





■国家のリーダーが「中2病」である恐ろしさ

「ホモ・ルーデンス」とはラテン語で「遊ぶ人」という意味だ。この「遊び」が文化および人間の知的活動の源泉であると多くの学問領域を横断する形で論じたのがホイジンガである。思想史上の通説では、遊びは文化のなかから出てくるものとされていたが、逆に文化は遊びの中で発生するとホイジンガは唱えた。では「遊び」とは何か。



《たとえば笑いは、真面目のある種の反対ではあるが、遊びとはけっして無条件に結びつかない。遊んでいる子供、フットボール選手、チェスの棋士などは、きわめて深い真面目さのなかにあり、いささかも笑いの気配など現わしたりしないではないか》



 遊びの形式的特徴としては、まずはそれは自由な行為であり、日常生活における「必要」といった概念や「欲望の直接的満足」という過程の外にある。それは定められた時間・空間の中で、一定の法則に従って秩序正しく進行し、場はリズムとハーモニーで満たされている。秘儀や仮想は現実との距離を示す。この遊びの固有性・自立性についてホイジンガはこうまとめる。



《この同種性(遊びがいかなる民族の中でも、同じ観念、形式となって現れているということ)に対する一番もっともらしい解釈は、われわれ人間はつねにより高いものを追い求める存在で、それが現世の名誉や優越であろうと、または地上的なものを超越した勝利であろうと、とにかくわれわれは、そういうものを追求する本性をそなえているが、この本性そのものがその同種性の原因なのだ、ということだろう。そしてそういう努力を実現するために、人間に先天的に与えられている機能、それが遊びなのだ》



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 しかし、遊びは劣化した。現代は社会生活一般の問題を覆い隠すために「遊び」という形式が利用されているとホイジンガは言う。それは「偽りの、見せかけの遊び」であると。真の遊びを取り戻すことはできるのか?



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 私は最近チェッカーズに憑りつかれている。チェッカーズがブレイクしたのは私が小学生の頃。当時はアイドルグループとして売り出されたので、小学生ながらに「けっ」と思っていたが、それこそ「中2病」である。あらためて聴き直したが、芹澤廣明と売野雅勇のタッグの作品も藤井フミヤ、尚之兄弟、鶴久政治がつくった曲もかなりいい。当然、フミヤの声は国宝級に素晴らしい。日本の歌謡界では群を抜いていた。



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 私はとりあえず20曲くらい課題曲を選んで、自宅で聴きこんだ。カラオケのJOYSOUNDではチェッカーズ専用のアカウントを作り、毎日練習をしている。

そんなことをしていても1円にもならないが、それでもやらなければならないことはある。まさに《それは自由な行為であり、日常生活における「必要」といった概念や「欲望の直接的満足」という過程の外にある。それは定められた時間・空間の中で、一定の法則に従って秩序正しく進行し、場はリズムとハーモニーで満たされている》



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 唄った曲は録音し、自宅に戻ってから音程と譜割をチェックする。正確でないところは音源をループ再生して頭に叩き込む。なかなかハードだが、そこには「真剣さ」がある。先日某所のグラウンドの前を通りかかったら、中学生がサッカーをしていた。そのときハッと気づいた。毎日行く酒場が学校だとしたら、チェッカーズの練習は部活なのではないかと。部員はまだいないが。





文:適菜収

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