現代日本人の「性愛」について社会学的見地から分析し考察する社会学者宮台真司と、フェチAVの新境地を開拓し性愛に関する著述も多い作家二村ヒトシが、タッグを組んだ書籍『どうすれば愛しあえるの 幸せな性愛のヒント』(KKベストセラーズ)が増刷を重ねている。マッチングアプリ全盛とともに、この時期は新しい出会いの中で「一目惚れ」現象が多く起こっているにちがいない。
■「恋に落ちる」直感と誤作動
二村 臨床心理士で心理カウンセラーの信田さよ子さんは、書籍『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』での僕との対談で「あらゆる一目惚れは、間違いである」と断言されています。「一目惚れした男とは絶対につきあわないようにすれば、あなたは幸せになれますよ」と。なぜなら一目惚れは、脳の誤作動だから。
宮台 一目惚れする男女は「顔がタイプだから」とか「声がタイプだから」とか言うよね。この科白(せりふ)をのたまう輩は間違いなくクズ(笑)。恋愛文学や恋愛映画の部厚さも知らない。好みからかけ離れた「法外」な相手が「かけがえなくなる」のが、「恋に落ちる」ことです。
二村 あと、一目惚れというのは〝心の穴の、一番弱い部分〞が自傷的に作動してしまうんです。でも、宮台さんがおっしゃるような、かけがえのない性愛やパートナーシップの体験を得られるかどうかも、直感的な判断によるものが大きい。正しい〝直感〞と誤作動の〝一目惚れの恋〞とは何が違うんでしょう?
宮台 「この人しかない」的な直観じゃない。「予想不能なことが起きる」予感です。
自分の体験のカウンターパートには相手の行為があります。他の人ならしない圧倒的な何かを相手が「する」ということです。顔とか声とか匂いとかじゃない。何か圧倒的な行為。それも一流大に入ったとか全国大会優勝とかじゃない。あくまで自分に向けられた行為です。
問題は、人類学的には〈性愛の営み〉が〈社会の営み〉と違って〈交換〉ならぬ〈贈与〉であることに関係します。まずそこに登場するのは〈愛のセックス〉ならぬ〈祭りのセックス〉です。
■女を〈物格化〉する「損得男」だらけの日本で性愛事情
宮台 最近ある女子校で、「正しさに執る男と、損得に執る男、彼氏にしたいのはどちら?」と尋ねたら、一学年160名全員が「正しさに執る男」と答えました。当然です。損得に執る男は、いざとなったら女や家族を守らず、遁走(とんそう)する可能性があるからです(笑) 。
同じことで、子を産み育てるためには「正しさ」がどうのこうの言っていられない。だから愛が期待できなくても金目当てで結婚し、爾後、夫との間に愛を持ち込まずに婚外の男との間に愛を持ち込む。人妻専門ナンパ師だった僕が言うんだから間違いありません(笑)。
しかし残念ながら、男が〈感情の劣化〉を被り、「正しさ」や「愛」に反応せずに専ら「損得」にだけ反応するようになります。そんな男は女を〈物格化〉する。つまり所詮は取替可能なモノ扱いする。そんな男との関係には実りがない。
損得野郎しかいないので性愛に実りがないという「期待外れ」を抱き続けるのは不快です。ならば「実りを求める」という願望水準を切り下げればいい――それが断念した記憶も忘れるということ。「男が劣化すると、やがて女も劣化する」というテーゼの所以です。
でも、女は男に比べて「承認だ、自己実現だ」と〈社会の営み〉を〈性愛の営み〉にだらしなく流し込んだりしない。「エロス的=象徴界未然的」な満足を自分の子との関係に求めるのと引き替えに、〈性愛の営み〉に意味はないと切り捨てるか、純粋な性欲のために一時の性愛に乗り出す。
代々木忠作品に登場する自分で応募してくる素人女性たち。代々木忠ブームだったころに雑誌『FUU』や『KIREI』の「AV男優としてみませんか?」みたいな企画に応募してくる素人女性たち。僕も交流したことがあるけれど「せめて一度だけでも」という女だらけ。
別にモノガミー(一夫一婦制)に抗おうとか、モノガミー恋愛ならぬポリアモリー恋愛(複数愛)に踏み出そうとかではない。かといって、遊びの軽薄さからはほど遠く、好奇心と言える軽さもない。
二村 スイッチの入った女性は、そこまでセックスに没頭し、楽しむことができる。その場においては女が搾取されているわけではなく、むしろ男は、女たちの強烈な欲望の発露に、ついていくのが精一杯……。その様は感動的ですらあります。
(『どうすれば愛しあえるの 幸せな性愛のヒント』から抜粋)