「保守」という言葉が歪曲されたまま安易に使われている。その代表例が、自称保守の安倍晋三だった。
■吉田松陰と安倍晋三
菅義偉がBSよしもとのニュースショー「ワシんとこ・ポスト」にスペシャルゲストとして登場し、自らが推進した地方創生政策を振り返ったという。収録には新喜劇で使用したうどんの屋台セットを設置。菅は「地方を大事にしている吉本さんらしい」と持ち上げたという。嫌な世の中になりましたね。
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ネトウヨライターの百田尚樹が「保守政党」を結成すると言い出した。LGBT法案が成立すれば社会の根幹をなす家庭や、皇室制度が崩壊し、日本が徹底的に破壊される恐れがあり、同法案を推進する岸田文雄率いる自民党はもはや支持できないとのこと。「安倍氏が亡くなってから、自民党は音を立てて崩れ、保守政党ではないことが明らかになった」だって。
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そもそも安倍が日本を徹底的に破壊したんじゃないか。
バカなんですかね?
バカなんだろうけど。
安倍が保守とか一体なんの冗談なんですかね?
安倍は自身のウェブサイトで「闘う保守政治家」などと自称していたが、「保守主義」を理解していた形跡はない。安倍とその周辺は反日のエセ保守である。それを支えてきたのは、新自由主義勢力と政商、統一教会などのカルト、マルチ商法や反社の複合体であり、いかがわしいメディアに洗脳されたネトウヨなどの情報弱者である。成蹊大学の元学長で国際政治学者の宇野重昭は《彼の保守主義は、本当の保守主義ではない》と言う。
《安倍くんは保守主義を主張している。それはそれでいい。ただ、思想史でも勉強してから言うならまだいいが、大学時代、そんな勉強はしていなかった》《安倍くんには政治家としての地位が上がれば、もっと幅広い知識や思想を磨いて、反対派の意見を聞き、議論を戦わせて軌道修正すべきところは修正するという柔軟性を持って欲しいと願っている》(『安倍晋三 沈黙の仮面』)
安倍は「保守がイズムであるかどうかということは、さまざまな議論があるところ」などと言っていたが、もちろん「さまざまな議論」など存在しない。あらゆる思想家が指摘するように、保守主義は思想体系でもイデオロギーでもない。「主義」とついてはいるものの、逆に「主義」を否定する態度のことである。
「人間理性に懐疑的であるのが保守」である。
保守は抽象を警戒し、現実に立脚する。人間は合理的には動かず、社会は矛盾を抱えていて当然だと考える。保守は近代啓蒙思想をそのまま現実社会に組み込むことを否定する。単純な反近代ではなく、近代の不可逆性の構造を熟知した上で、近代理念の暴走を警戒する。
保守が伝統を重視するのは過去を美化するためではなく、合理や理性では捉えきれないものが、そこに付随すると考えるからだ。人間の行動には情念や慣習が大きく関与している。人間はゼロから生まれるわけではなくて、環境の中に生まれる。理性的に考えれば、理性により決着できないことのほうが多いことに気づく。合理的に考えれば、合理が通用しない領域があることがわかる。そこで反合理になるのではなく、合理に一定の効用を認めておく。それを判断するのは常識である。
よって、保守は漸進主義になる。すべてに適応できる公式を持たないので、ゆっくりと慎重に判断をする。一貫した「イズム」がないのだから当然だ。
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安倍はすべてにおいて保守の対極にある人物だった。
2007年2月5日、安倍は国会で「私は、更に構造改革を進めたいと、こう思うわけでありますが、(中略)いよいよ新しい未来を切り開いていくために改革を前進をさせていかなければならないと、このように決意をいたしておる次第でございます。私どもが進んでいる道は間違いのない道でございます」と述べ、こう続けた。
「村田清風もまた吉田松陰も孟子の言葉をよく引用されたわけでありますが、自らかえりみてなおくんば、1千万人といえどもわれゆかんと、この自分がやっていることは間違いないだろうかと、このように何回も自省しながら、間違いないという確信を得たら、これはもう断固として信念を持って前に進んでいく、そのことが今こそ私は求められているのではないかと、このように考えております」
要するに、「自分の意見が正しい」と確信したなら、1千万人が反対しても、突き進むと。
安倍はよく長州の武士で倒幕のイデオローグである松陰の名前を出す。
「この道しかない」「この道を。力強く、前へ。」といった安倍政権のスローガンはここから来ているのだろうが、保守主義は「間違いのない道」「この道しかない」という発想を根底的なところで否定する。人間理性を疑い、過信を戒めるからだ。
人々が熱狂しているとき、冷静に観察するのが保守の態度だ。未知の出来事が発生したとき、立ち止まって考える。フランス革命ならそれが人類の将来にとってどのような意味を持つのか、それによって得るものはなにか、失われるものはなにかを考える。暴走したときに人類はそれを制御できるのかと考える。安易に結論を出すのを戒め、現実に即して観察を続ける。保守はわからないことはわからないと認め、断言を避け、自らの理性すら疑う。人間は完全な存在ではないからだ。
それは「間違いのない道」といった発想の対極にある。
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安倍は『新しい国へ』で《わたしが政治家を志したのは、ほかでもない、わたしがこうありたいと願う国をつくるためにこの道を選んだのだ》と語っている。
保守思想の理解によれば、「統治者の職務とは、単に、規則を維持するだけのことなのである」。
《この性向の人(保守)の理解によれば、統治者の仕事とは、情念に火をつけ、そしてそれが糧とすべき物を新たに与えてやるということではなく、既にあまりにも情熱的になっている人々が行う諸活動の中に、節度を保つという要素を投入することなのであり、抑制し、収縮させ、静めること、そして折り合わせることである。それは、欲求の火を焚くことではなく、その火を消すことである》(「保守的であるということ」)
これは政治の役割を軽んじているのではない。逆だ。世の中にはいろいろな人がいる。彼らが持つ夢も多種多様である。それが暴走したり、衝突するのを制御するのが政治の重要な役割であると考えるからである。
保守的な統治者は、政治とは「価値ある道具」を修繕しながら調子を維持するようなものと考える。一方、人民政府の「指導者」は、私的な夢、個人的な理想を社会に押し付ける。要するに、保守思想の歴史が否定したのは、安倍のような発想である。「わたしがこうありたいと願う国」を作るのが人治国家だとしたら、多種多様な意見を尊重し、たとえ「正しい」と思われることでも早急に物事を進めないのが保守である。
リーダーを探し、その夢に依存するのがオークショットが指摘した「できそこないの個人=大衆」という類型である。西欧近代は「個人」を生み出したが、同時に「できそこないの個人」という性格が派生した。彼らは前近代的な社会的束縛を失い、自由になった反面、不安に支配されるようになった。自分を縛り付けてくれる対象を見つけようとしても、前近代的な共同体は消滅している。だから、彼らは自己欺瞞と逃避を続けた。彼らには判断の責任を負う気力はない。そこで、自分たちを温かく包み込んでくれる「世界観」、正しい道に導いてくれる強いリーダーを求めた。やがて政治はそのニーズに応えるようになった。
こうして地獄が発生する。オークショットは、「個人性の熱望」が生み出した統治の形式を「議会政府」と呼ぶなら、大衆が求めたものは「人民政府」だったと述べた。
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百田は「国民が覚醒しなければならない」とも言っていた。国民が覚醒して一番困るのは、百田みたいな連中が集まるエセウヨ・ビジウヨ界隈だろう。
■ほぼ日。維新クオリティ。
日本維新の会参院議員の猪瀬直樹が、国会内で持ち込みが原則禁止されているスマホを質疑中にいじって音を出し、質疑が中断。維新クオリティ。
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日本維新の会衆議院議員の藤巻健太が、学校では「古文漢文よりも金融経済を学ぶべきではないか」などと国会などで持論を展開。維新クオリティ。
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日本維新の会交野市支部の高石康幹事長から、繰り返し威圧的な言動を受けたとして、大阪維新の会の女性府議が党のハラスメント調査に対し、被害を申告。このハラスメント調査も、維新の笹川理前府議団代表による女性議員へのセクハラ問題を受けて実施されたもの。二重に維新クオリティ。
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名古屋出入国在留管理局の施設でスリランカ人のウィシュマ・サンダマリ氏が収容中に体調不良を訴えて死亡した問題で、日本維新の会の梅村みずほは、法務委員会で「ハンガーストライキかもしれない」などと繰り返し発言。「善かれと思った支援者の一言が、皮肉にも、ウィシュマさんに、病気になれば仮釈放してもらえるという淡い期待を抱かせ、医師から詐病の可能性を指摘される状況へつながった恐れも否定できません」とも言っていたが、単なる妄想で根拠はなにもなかった。維新クオリティ。
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維新は梅村を法務委員会の委員から外したうえで、「政治倫理に反し、党の規律を乱した」として、党員資格を6か月間停止する処分を下したとのこと。政治倫理? 政治倫理が完全に欠如しているのは、一体どこの政党か。
文:適菜収