早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。

その後、文筆家・タレント「神野藍」として活動し、注目されている。AV女優「渡辺まお」時代の「私」を、神野藍がしずかにほどきはじめる。「どうか私から目をそらさないでいてほしい・・・」連載第9回。



たまたまマッチングアプリで知り合った人が駆け出しのホストだっ...の画像はこちら >>



 



【思い返すだけで反吐が出そうになる、あの夏】



 その日はうだるような暑さだったのを覚えている。



 大学四年の夏、卒論演習の一コマだけ受講していた。一、二年のときに授業を詰め込んでいたおかげで、大学四年は卒論にだけ集中してればいいような、だいぶ楽な時間割であった。普段と変わらない教授の雑談がメインの演習が終わり、友人と帰っていた。そしていつも通り九段下の駅で東西線を下車し、友人と別れて乗り換えのホームへ向かって歩く。ポケットに入れていたイヤホンを取り出し、耳に着ける。顔周りの髪の毛が汗ばんで湿っていた。「早く涼しい家に帰りたい」なんて思いながら階段を降りる。ホームで電車の到着時間を確認しようと目線をあげたとき、ふいにソレは視界に入った。



 「なんでここにいるんだろう」



 こんな場所にいるような人じゃないのに。体調を心配してしまうぐらい白い肌に華奢な身体、目にかかるぐらいの前髪に、伸ばした襟足。見た目も取り巻く雰囲気も何一つあの頃と変わっていなかった。確実に心拍数は上がっているはずなのに、四肢の先端が驚くほどに冷たくなっていくのを感じた。身に着けていた帽子をぐっと深くかぶり直し、歩調を速めた。後ろから追い抜くときに、懐かしい香りが鼻孔をくすぐった。香りは恐ろしい。封じ込めていた記憶が頭の中にどっとなだれ込んできた。感情に飲み込まれそうになる前に、ちょうど到着した電車に飛び乗った。近くの空いている座席に腰かけても、心臓は変わらぬ速さで脈を打ち続けた。



 



 自分の心血を注ぎこんで、空虚な幸せと肥大した自己顕示欲に埋もれる世界。



 たまらなく嫌いだ。

あの頃の時間を思い返すだけで反吐が出そうになる。でもそんな街で人生のどん底を這いつくばりながらも、懸命に自分という存在に藻掻き苦しんでいた私のことがたまらなく健気で、愛おしく感じてしまう。





【行きずりの男とセックスするぐらいなら・・】



 大学二年生の冬。



 ほんとささいなことが始まりだった。たまたまマッチングアプリで知り合った人が駆け出しのホストで、実際にどういうものか気になり興味本位で着いていった。事前の知識もなかったので、見るもの聞くもの全てが新鮮だった。その人との関係はほんのわずか二週間ほどで終わったが、一度足を踏み入れた泥沼の深みへと沈んでいくのはいとも容易く、そこまで時間もかからなかった。



 この頃に自分の性的行為をお金に換え始めた。借金なんて理由ではなく、単純に「こんな稼ぎ方があるんだ」とホストクラブを通じて知ったのがきっかけだった。何となくこれまでも飲み会のタクシー代などは貰っていたし、そこまで貞操観念があるわけでもなかったので、あまり抵抗なく始めてしまった。



 マッチングアプリや行きずりの男とセックスするぐらいなら、対価をきちんと貰える方が得だと思っていたし、もちろん気持ち良いとか楽しいとは一度も思ったことがなかったが、きついことがあっても仕事だと思えば自分の気持ちの収拾はつけられた。職種はどうであれ、みんながそうやって自分なりに落としどころをつけて働いている。

そんな風に考えていた。





 ちゃんと一定の期間指名をして付き合いがあり、「担当」と呼ぶに値する男は一人だけだ。人形みたいに目鼻立ちは整っていて、六つ年上なだけあって雰囲気は落ち着いていた。ホストをはじめて一年経たないぐらいで、たまに飲みにくるぐらいのお客さんはいるものの、定期的に高額なお酒を卸す人はいないらしい。そういう理由もあって、シャンパンを一本卸しただけで感謝された。「こんな俺にごめんね。本当に無理しないで。」なんて健気な態度をとられたのを覚えている。





【「仕事を辞めてもずっと一緒にいようね」】



 それから彼は私を繋ぎ留めておくために言葉を尽くして、マニュアル通りの「仕事を辞めてもずっと一緒にいようね」なんてことを言いながら必死に愛を囁いた。初めのうちはそういう状況も楽しんでしまっていて、徐々にお店に通う頻度や使う金額が増えていった。それに伴って仕事の出勤日も増えていき、朝から晩までなんて日もあったけれど気が病むこともなく、家に帰り、お風呂に入ることにはその日接客した人の顔なんて全て忘れていた。ただそこまで馬鹿ではないので、一か月に稼いだ額全てを使ったり、いわゆる「掛け」で飲んだりはしなかった。結局は短期的な借金のようなものだし、あまり気持ちがよくなかったので、その日飲んだ分をその日のうちに全額清算するようにしていた。





 初めのうちは楽しかった。まだ二十歳でそこまで大人になりきれていなかったのもあって「そういう自分」にも陶酔していたし、何より全てが新鮮で、経験できることは経験しようと思っていた。しかしながら指名し始めて一か月半経った頃には、その男は私の全てを管理しようとしてきた。私のスケジュールや稼いだ額、メッセージのやり取りにいたるまで、全てだ。歌舞伎町ではよくある手法ではあるが、そうやって少しずつ窮屈な関係に押し込められていくうちにだんだん息苦しさを感じるようになった。



 ただ、「期待されること」に弱い私にとってこの世界は丁度よく収まりすぎてて、頭の中では「そろそろこんなところから抜け出さないと」と考えつつも、現状維持というぬるま湯に浸り続けていた。





【「AV女優ってどう思う?」】



 一月の終わり。



 一件のメッセージが入った。送り主は少し前に店を紹介してもらった人からだ。



 「提案程度のことで本当に興味があったらでいいんだけど、AV女優ってどう思う?」



 雷に打たれたかのような衝撃が私の中に走った。なぜかその時に「これだ、ここまできたら全部やりきって終わりたい」と思ってしまった。自分の中で感じた「終わりたい」の意味や、AV女優になったらどうなるなんてことは全て無視して、すぐに返信した。



 「その話、詳しく聞きたい」と。





(第10回へつづく)



文:神野藍





※毎週金曜日、午前8時に配信予定

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