パンデミック、ウクライナ戦争、安倍元総理の暗殺、ChatGPTの衝撃・・・予測もつかない出来事が絶えず起こっている世界で、私たちがよく観察し、深く考えるべきこととはなんだろう。森先生の日常世界にそのヒントがたくさんひそんでいるようだ。

ふと自分の足元を見つめ直したくなる「静かに生きて考える」連載第36回。





第36回 期待どおりなんて、期待していない



【テレビのレポータほど無駄なものはない】



 テレビを見ないのでよく知らないのだが、今も同じだろうか?



 雨の中へ出ていって、「激しい雨が痛いほど打ちつけています」とわかりきったレポートをする。どうしてその場所まで出向いて、わざわざライブで中継しなければならないのか、まるで意味不明。正直、テレビで「中継」をする価値のある情報なんて、ほぼ存在しないと僕は確信している。天気なら、ライブカメラを方々に設置しておけば済む話だ。見たい場所は、人それぞれで違うのだから。



 もっと馬鹿馬鹿しいのは、料理を紹介するとき、スタッフがわざわざ一口それを食べて感想を語るシーン。全然意味がわからない。何を期待して皆さんは見ているのだろうか?



 食べた人は、料理の専門家でもない。たとえ専門家だったとしても、料理の美味しさは極めて個人的な感覚であり、言葉にして伝えられるものではない。もしそんなに美味しいのなら完食してからコメントしてほしい。また、一度でも良いから、食べたあとに「まあ、こんなものですかね」「期待したほどではありません」くらいのコメントを聞きたい。

その正直さを認められ、のちのち信頼を得られる可能性がある。



 一言でいってしまえば、「大袈裟」なのだ。もっと大変で重要なものがあるはずなのに、大したことのない映像を見せる。雨や風の強さを伝えるならば数字を示すことが最も的確なはず。料理の美味しさについても、もう少し合理的な伝達手段を考えた方が良い。一個人の感想よりも、AIに評価させる方が信頼できる。人間はあまりにお上手が多いし、空気を読みすぎるから、本当のところがわからない。



 ニュース番組で、キャスタが画面に現れる必要はあるのか? 何故、ニュースの対象や場所の映像だけにしないのか。無関係で無駄なコンテンツを紛れ込ませているとしか思えない。



 アナウンサだけではない。コメンテータなる人物がスタジオにいて、本当にどうでも良いような平凡なコメントを聞かされる。もう少し「逆らった」「意に反した」意見を述べる人がいても良いはず。

それなら、まだ存在価値があるだろう。



 街角で市民の声を拾う場合、賛成と反対の双方を取り上げるようになってきたのは、まあまあ好ましい。あとは、子供の声をきくときにもそれをしてほしい。子供たちの、「楽しかったぁ」「美味しかったぁ」「可愛かったぁ」という一辺倒の声は、大人たちに付託しすぎで白けるし、子供らしくない。動物に触れ合う機会があったら、「臭かった」という声が出ないはずはない。「疲れた」や「ゲームの方が面白い」くらいはいってほしい。





【うんうんと頷きたいだけの視聴者か】



 このようにテレビが全然新鮮味のない声を聞かせ続けるのは、そんな当たり障りのない、聞き飽きたような言葉を期待している人たちがテレビを見ているからだろう。そういうものに価値を見出している人がいるらしい。期待どおりのコメントを聴いて、「そうだそうだ」と頷きたい人たちが少なくないのだ。



 そうでない人は、テレビからは既に離れていて、もっと新鮮で役に立つ情報を別のメディアに求めているはず。だから、テレビを見ている「大衆」というのは、既に本当の大衆ではない。その総数は、視聴率の数字を見ても明らかである。



 しかし、日本人にはなにかと同調したがる傾向が昔からあったのも、たぶん事実だろう。むしろ、最近ではそれが薄れて、さまざまな声が聞かれるようになった。テレビに見られる「意外性なきコメント」は、昔ながらの風習が残っている、いわば「伝統芸能」と見るべきかもしれない。



 悪いわけでは全然ない。みんなが同じ気持ちになることを日本人は好む。ばらばらよりも一様であることに価値を見出す。同調したい、気持ちを一つにしたい、そういう欲求がある。そうした方が良い場合も、たしかにある。たとえば、一致団結して力を合わせることが求められる場面では、その方が有利だろう。



 欠点としては、気持ちを一つにできない人を、裏切り者のように扱う排他性である。かつては、飲み会に出ない人は上司から注意を受けた。個人主義の人物は集団から爪弾きにされた。

今では、そういったものはパワハラという犯罪になる。時代は、少しずつ良い方向へ変化している。



 僕はもともと、同調しない人間だ。若いときからそうだったから、周囲と摩擦があった。ただ、個人で活動できる職業に就いたため、大きな問題にならなかっただけだ。これは幸運だった。ことあるごとに同調圧力に反発し、個人の自由を主張してきた。作家になっても、幾度もそれを書いた。ようやく最近になって、同じような考え方が広まってきた、と実感できる。



 ただ、「同調したい」という欲求も、尊重している。そこを間違えないでほしい。反発しているのは、すべての人に当てはめようとする圧力に対してだ。

個人の考え方は、ばらばらで良い。だから、コメンテータの発言に、うんうんと頷きたい人は、テレビを見て安心して下さい。その程度で安心できるのだから、素晴らしい(半分くらい皮肉かな)。





【思い知らせてやりたい症候群】



 必要がないのに出てくるレポータとか、当たり前でつまらない発言しかしないコメンテータを、僕は馬鹿馬鹿しいと思うし、そういう習慣をやめれば良いのにと考える。でも、それを見たい人、聞きたい人がいるのは知っている。その人たちの存在まで否定しているのではない。



 馬鹿馬鹿しいからなくせ、というのはやや問題がある。たとえば、芸術というのは、多くの場合、馬鹿馬鹿しいものだ。役に立たない。やめれば、いろいろ節約になるだろう。でも、それを楽しむ人たちがいる。音楽だって、ダンスだって、馬鹿馬鹿しいな、つまらないことをしているな、と感じる人がいる。

でも、そういうものが存在することを否定することは正しくない。「好きな人はやれば」と微笑むのが正しい。



 ただ、「芸術なんて馬鹿馬鹿しい」とか「ダンスなんてつまらないな」という意見の存在も、同じように否定してはいけない。発言も意見も自由だ。自分が嫌いなものは、嫌いだと発言すれば良い。「やめてほしい」と訴えても良い。そして、そういった意見に対して「楽しんでいる人がいるんだから黙ってろ」「みんなと同じように楽しめないなんて悲しくなる」と反論するのもまた悪くはない。この発言も自由だ。



 だが、発言を集めて、自分たちは多数だといわんばかりに、少数の個人の人格を攻撃するのは間違っている。だから、炎上しそうになったら、「まあまあ、こちらの意見が多そうだということはわかったから、これくらいでやめておきましょう」と両手を広げて、終了宣言する人がいれば、「わりと良い社会だな」くらいで終わるだろう。



 徹底的に攻撃して、相手に辛い思いをさせてやろう、意見が間違っていることを思い知らせてやろう、と考えるとしたら、その考えが正しくない。それは、現代のネット社会の病理の一つだともいえる。この症状が出てしまうと、多数だった意見の正しささえも霞んでしまう結果となるだろう。



 本来、意見には正しいも間違いもない。意見は個人のものであり、その人にとっては正しいけれど、誰にとっても正しいわけではない。正しさなんてものは、所詮その程度のものである。





【短い夏もそろそろ終わり?】



 庭園内では、もう暑さのピークは過ぎた感じがする。暑さというのは、20℃を超えるくらいのことで、最高でも25℃くらい。もちろんクーラなんてものはない。クルマに備わっているけれど、つけたことがない。最低気温は15℃以下で、夜は掛け布団と毛布を被って寝ている。各国の暑さがニュースで伝えられているけれど、どうもピンとこない。暑かったら外に出なければ良いのに、と思う程度。満員電車に乗って、コンクリートとアスファルトの道を歩く毎日は過酷だから勤務時間を夜間にシフトする方が良いのではないか、などと心配する程度。せっかく、リモートで仕事ができるようになったのに何故?







文:森博嗣





<告知>



✳︎森博嗣先生の連載エッセィ「静かに生きて考える」は、第36回が最終回となります。読者の皆様には大変ご好評いただきまして誠にありがとうございました。本連載は、2024年1月に書籍化され発売予定でございます。未発表原稿(第37~40回)を書籍に収録いたします。どうぞお楽しみに!(「静かに生きて考える」連載バックナンバは10月31日までご覧になれます)



✳︎また、森博嗣先生には10月2日より(隔週月曜日、午前8時配信)、新連載エッセィをスタートしていただきます。タイトルは、『日常のフローチャート  Daily Flowchart』。次回連載シリーズにも、皆様ご期待くださいませ。

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