そろそろ収束に向かいそうなジャニー喜多川のセクハラ疑惑騒動だが、ミョーな広がりも見せている。ジャニーズ事務所のタレントでも元タレントでもない芸能界の大物が、巻き込まれたりしているのだ。
まずは、山下達郎。
「ジャニーさんの功績に対する尊敬の念は今も変わっていません。私の人生にとって一番大切なことは、ご縁とご恩です。ジャニーさんの育てた数多くのタレントさんたちが、戦後の日本でどれだけの人の心を温め、幸せにし、夢を与えてきたか」
続いて、デヴィ夫人。
「ジャニー氏が亡くなってから、我も我もと被害を訴える人が出てきた。死人に鞭打ちではないか。本当に嫌な思いをしたのなら、その時なぜすぐに訴えない。代わってジュリー氏が謝罪も済ませているのに、これ以上何を望むのか」
こうした擁護的発言が、ジャニーズ憎しの人たちからいちゃもんをつけられた。
なお、筆者がここベストタイムズで6月に書いた記事(「ジャニー喜多川告発騒動」に見る後出しじゃんけん的「ミートゥー」運動の悲哀)への批判も見かけた。記事のタイトルや著者名を含め、あらかた忘れてしまったが、次の文章が引用され「強者の論理」などと指摘されていた気がする。
「ジャニー騒動の場合は、一方の当事者が少年だったりもするので、状況がやや異なるが、彼が手がけたアイドルたちのなかに彼を悪く言う者はほとんどいない。告発者が圧倒的に少ない以上、大半のケースがある意味ウインウインだったという推測も成り立つわけだ」
注目したいのはその批判者が「強者の論理」を悪いことのようにとらえていること。
実際、20年ほど前に「週刊文春」の関連記事をジャニーズ事務所が名誉毀損だと訴えた裁判でも、判決はビミョーな落としどころになった。わかりやすくいえば、セクハラと思われる事実も一部認定されたが、文春も損害賠償金を支払ったというかたちだ。
にもかかわらず、ジャニーズ憎しの人たちはそこを都合よく拡大解釈。セクハラの事実が認定されたのだから、もっといろいろ悪いことをやらかしていたのだろうなどと想像して叩き続けている。
また、彼らの根底にあるものは個人的な好き嫌いの感情でしかない。要は、ジャニーやジャニーズ事務所のような存在が気に入らないのだ。
その個人的感情を世の中的な善悪論にすりかえる際、彼らは主語を大きくしたがる。たとえば、この騒動でジャニーズ叩きの急先鋒となっている松谷創一郎という人はこんなコメントをしていた。
「ジャニーズとしてはファンが一番怖い。会社側はそこに甘えてもいるし、ファンもいいと思っている。社会はこれでよしとしません」
いやいや、あなたがよしとしないだけだろう、と思わずツッコんでしまったが、こういうのは昔からある手口だ。太宰治の小説「人間失格」にも「これ以上は、世間が、ゆるさないからな」と言われた主人公が、
「世間というのは、君じゃないか」
と気づく場面があったりする。つまり、こういうのは「強者のフリをした論理」であり「強者の論理」よりもよっぽど卑怯だともいえる。
一方、筆者は善悪にあまり興味がない。この騒動についても、最大の当事者であるジャニーはすでに故人だし、前述した存命中の裁判でもビミョーな結果となった。当事者や関係者たちの意見もさまざまで、もはや善悪を決めるのは無理だろう。
納得できない人は今のジャニーズ事務所を訴えるなどすればいいし、あとはもう、好き嫌いだけで語っていい話なのだ。おそらく、山下やデヴィもそれに近いスタンスなのではないか。好きなものを好きだといい、できれば守りたいというだけに見える。
しかし、彼らを叩いている人たちにはそこがわからない。
そこで生まれるのが「忖度」という発想。悪を擁護するのは、何か事情があってそうしているのだろうという、自分を納得させるためのものだ。
ちなみに「忖度」という言葉が広まったのは、数年前のモリカケ騒動がきっかけだった。あのときも勝手に善悪を決めたがる人たちが、大嫌いな安倍晋三首相(当時)を叩くために動き、納得できないものを「忖度」だとして騒ぎまくった。それがあの暗殺事件にもつながったかと思うと、問題は根深い。
なお今回、山下達郎に噛みついた松尾潔は昨年、日本共産党の機関紙「赤旗」に登場して、候補者を絶賛したりしていた。また、今回の騒動が勃発してすぐ、そこに飛びつくように結成された「PENLIGHT(ペンライト)ジャニーズ事務所の性加害を明らかにする会」は実質的にフェミニストの集まりだ。左翼もフェミも好き嫌いを善悪にすりかえ、嫌いなものを悪として叩くところが共通しているし、顔ぶれもかなり重なっている。「アベガー」も「ジャニーガー」も同じ穴の狢なのだ。
そこで、こうした勢力を警戒する声も上がっている。
そういえば、山下やデヴィの発言にも、芸能への愛情や理解が垣間見える。
「芸能というのは人間が作るものである以上、人間同士のコミュニケーションが必須です。(略)人間同士の密な関係が構築できなければ、良い作品など生まれません」(山下)
「ジャン・コクトーがジャン・マレーを愛したように、そのような特別な世界、関係性というものはある。(略)昨今の流れは偉大なジャニー氏の慰霊に対する冒涜、日本の恥である」(デヴィ)
という具合だ。密なコミュニケーションも特別な関係性もときに衝突や軋轢を生むが、それも産みの苦しみというやつである。そもそも、人間だって生き物なのだから弱肉強食が前提であり、それが過激になりすぎないようにと設けられているのが法律だ。
その範囲内でギリギリのところを攻め、弱肉強食の世界の美しさや哀しさを劇的に浮かび上がらせる――。そういうところもまた、芸能の醍醐味であることを改めて確認しておきたい。
文:宝泉薫(作家、芸能評論家)