◾️「俺は、こんな風には書けない」

 



 詩人・向坂くじらと知り合ったのはたしか5年ほど前のことで、それからは観客として詩の朗読を聞いて感動したり、時には彼女が出演する朗読ライブの裏方スタッフをしたりと、彼女の表現を鑑賞する機会がなんだかんだ年に一度くらいある。10歳ほど年下の友達である彼女のことを、表現者として尊敬してもいる。



 よく広告などで「待望の」という表現を目にするが、だから私にとって彼女の初エッセイ集『夫婦間における愛の適温』はまさに「待望の一冊」だった。



 本書の発売日、私は近所の焙煎店のテラス席で珈琲豆の焼き上がりを待ちながら、先刻届いた本をワクワクしながら読み始めた。



 



「なにより気持ちいいのは、頭の中で考えていたことにすらっと一本の線が通るときだ。混沌とした事象が、ぱちぱちっと音を立てるようにつながって、自分の考えがとても自然に、スムースに感じられる。」



(本書収録「俺は論理的に話したいだけなんだけど、彼女はすぐ感情的になって」より引用)



 



 といった、ひとつひとつの言葉があるべき場所に収まった、流れるような文の美しさに、「うわあ、巧いなぁ」と思わず感嘆の声を出しながら、4編のエッセイと、息継ぎのように挟まった1編の詩を読み終えたところで、焼き上がった珈琲豆を店員さんが持ってきたので一旦本を閉じた。



 そうして息をついた時、それまで素晴らしい文章を読む愉悦に浸っていた自分が、同時に「俺は、こんな風には書けない」という敗北感を感じてもいることに気がついた。



 



 最初に書いた通り、向坂くじらの作品にはこれまで何回か触れてきた。彼女がギタリストのクマガイユウヤと組んでいる朗読ユニット「Anti-Trench」のパフォーマンスを初めて観た時には、心底感動して、本人に長文のメッセージを送ったりもした。それでも今回のように「敗北感」を感じたりはしなかった。



 今になって考えると、私は自分を「詩人ではない」と思っていて、観客という安全な立場から作品を受け取っていたから、無邪気に感動だけできていたのだろう。舞台の下から観ているだけの人間は、舞台の上の人間が発した「言葉」を、真正面からひとりの人間として受け止めたつもりでも、作品の「凄まじさ」に打ちのめされる必要はない。自分自身が作品を創らない以上、「俺にはこの作品は創れない」という単なる事実に打ちのめされる必要はなく、むしろ「自分には創れないから観に来て良かった」と満足する材料になるだけだ。



 



◾️「文章力」なるものの、いくつかの側面

 



 ところが作品が詩ではなく文章となると話は変わってくる。

私自身が曲がりなりにも、文章を書くことを仕事にしているからだ。



 私は基本的に「裏方」のライターで、普段はインタビューや対談の記事をまとめたり、文章を書き慣れていなかったり単純に多忙だったりする著者と打ち合わせて書籍の元原稿を制作したり、これまた多忙な編集者の代わりに原稿のリライトをしたり……といった仕事をすることが多い。



 だから文章の分野でも、私はあくまでも「裏方」であり「表現者」ではない。今年に入ってからは、ベストタイムズ上で何本コラムを書かせてもらったり企画を持ち込んだりしているが、それでも自分をエッセイストやコラムニストだとは思わない。自分の表現したいことではなく、取材対象者・クライアント・読者それぞれの立場の共通項を探して文章にするインタビューライターの仕事は性に合っているし、誇りにしている記事はいくつもある。



 じゃあなんで「表現者」である向坂くじらのエッセイに、裏方ライターである私が敗北感を抱いたかというと、第一には、私たち裏方ライターの商売道具である文章力でも「こりゃ敵わん」と思ったからだ。



「文章力」というのも雑な言い方だが、「いい文章を書ける能力」と言い直したところで大差ないので簡単のため「文章力」のまま進めることにして、それには「文の美しさ」「面白さ」「読みやすさ」「表現力」「淀みなさ」「つながりの良さ」「無駄のなさ」……のような様々な評価軸がある。一人のライターがすべての能力を兼ね備えていることは稀で、多くの場合は優れたいくつかの能力があり、その他の能力も及第点なら仕事が来る。私自身は「読みやすさ」、とくに「ある程度難しい内容を、読みやすい文章にまとめる能力」が高いらしく、おかげで研究者のインタビュー記事なんかをよく任されるが、一方で無駄な言葉が多く、つっかえるような読感がたまにあることを欠点だと自認している。



 どの業種でも同業他社の分析・評価をするものだろうが、それはライターも同様だ。私も、書籍やインターネットで他の人が書いた文章を読むたびに「ふむふむ。このライターさんは一つひとつの文は美しくて、相手の人となりを描くのがうまい。

一方で文同士のつながりが少し唐突だな」とか「文の面白みには欠けるが、安心感があるな」とか、単純に「レベル低いな。これでライターかよ」とか思ったりしている。このような評価を通じて自分の能力の相対的な位置を見定めて、「あの人の文章の美しさは見習いたいな(でも、読みやすさでは俺のほうが上だし、自分の良さを伸ばしていこう)」みたいに切磋琢磨するわけだ。



 で、向坂くじらに話題を戻すと、彼女のエッセイはリズムがよくて楽しくすらすら読めてしまうが、だからといって砕けすぎてしまうことなく、語調には品があり美しい。置かれている場所に不自然さを感じる言葉がひとつもない。それでいて不意に突き刺すような、印象的な言葉を放り込む。



 つまり、どの軸で文章力を評価してもレベルが高い。だから「彼女の文章の良さは○○だ」と一言で評価できない。なんなら自分の自信がある能力(私なら「読みやすさ」)でも彼女のほうが上を行っていたりする。



 身近な友達にこれを見せつけられたら、悔しがらないと嘘だ。「まあ、僕は読みやすさ特化なんで」と半身になっていたことが恥ずかしい。



 



◾️「寄る辺ない自分」を描こうとする美しさ

 



 でもまあ、ただ文章が巧いだけだったら、感心こそすれど敗北感を抱くまでではなかっただろう。

そもそもプロに対して「巧い」というだけの感想は失礼だ。例えば音楽なら、ライブが終わった後のミュージシャンに、いい大人が「巧かったです」とだけ感想を伝えたら侮辱と受け取られても仕方ない。その上で観客の心を何かしら動かすことができなかったなら、少なくともその観客との関係においてライブは失敗だった、ということになる。



 



 それでは彼女の文才の他に、何が私に「俺は、こんな風には書けない」と思わせたのか。それは、自分自身の思索に真摯に向き合い、決して単純ではないひとまずの結論とそこに至るまでの過程を、できる限り文章で描こうとする勇気だ。



 例えば日常で起こしたちょっとした失敗や、家族や友人と噛み合わないやりとりをする様子の場面では、エッセイの登場人物としての自分を客体化して描き、リズムよく読ませる。



 けれども「エッセイの中の自分」が一旦何かを考えはじめると、書いている自分もその時点に戻って丁寧に思索を追いはじめ、思索のバトンはいつのまにか、文章を書いている現在の自分へと渡される。



 



「寛容にふるまうことを考える。単に心の中に寛容さを持つということだけでない。他人に対してそのようにふるまうということを。」



「わたしは生徒に(中略)「これを書けてよかった」と思う、あの時間に辿りついてほしいと思っている。けれどもそれ以上に、本心ではいやなことを、わたしの命令のために黙ってやらせてしまいたくない。その両者はどちらが見せかけというのでなく、同時にわたしの中で起こっている。」



(本書収録「「そっちでいくのかよ」」より引用)



 



「思索の前の自分」と「思索の後の自分」の間にたしかにいたはずの「寄る辺ない自分」にもう一度同化して、思索の痕跡を一歩一歩確かめる。

そうして描かれた文章は端正で、私にはこの上なく心地いい。と同時に、「俺もこういう風に書けたら」と一抹の悔しさを覚える。



 



 本来、人間の思考はとりとめなく混乱しているので、特に自分の思考を真正面から見つめるのは恐ろしい。だから多くの文章では、思索のプロセスをなかったことにして、思索の末に辿り着いた見栄えのいい結論だけが書かれがちだ。このコラムもそこから逃れられたとは言いがたい。



 けれども向坂くじらは、蝶の美しさではなく、蛹の中で起こっているメタモルフォーシスの様子こそを描こうとする。「分かってもらえないかもしれない」という不安から、思索する自分を茶化したり装飾に逃げたりせずに、「たとえ理解してもらえなくても、受け止めてはくれるはずだ」と読者を信頼して、エッセイを送り出す。そこには「最初の読者」である編集者への信頼もあるのだろう。



 きっとこれまでも、同じ詩人として向坂くじらを知っていた人たちは、いま私が感じているのと同じような清々しい嫉妬心をもって彼女に接していたんだろう。私もその秘密を共有する仲間入りが出来たと思うとなんだか嬉しいし、本書をこれから読む人たちが同じように心かき乱される姿を想像すると、にやにやを禁じ得ない。



 



文:甲斐荘秀生

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