8月の暑い夏の日。田園風景が広がる東急線「こどもの国」駅前に立つ筆者の前に一人の男が現れた。
猿を思わせる愛らしい風貌とは裏腹リングに上がれば、蛍光灯、画びょう、カミソリまで、目をそむけたくなるような凶器へ飛び込む。6mの高さからも笑みを浮かべてダイブをするなど常識では計り知れないファイトを繰り広げてきた。過激なデスマッチをする彼は、プロレスファンから圧倒的な支持を集める。入場テーマがかかると、会場中が葛西コール一色に染まるほど。無数の傷を負った彼を、いつしか人は「デスマッチのカリスマ」と呼ぶようになった。
2021年5月にはレスラー人生を描いたドキュメンタリー映画『狂猿』(川口潤監督)が公開されるなど、プロレス界の枠を飛び越えて多くの人たちの心を惹きつけている。昭和49年生まれのロストジェネレーションと言われた世代の彼が、「デスマッチのカリスマ」と呼ばれるようになった理由を知りたくて直接話を聞いてきた。
◾️プロレスラーになると決めたとあるチェックシート
子どもの頃からプロレスファンだった葛西純は、いつかプロレスラーになりたいという夢を持っていた。高校時代は柔道や街中にあるボクシングジムでトレーニングはしていたものの本格的には鍛えていなかったという。当時人気だった漫画「ビー・バップ・ハイスクール」に憧れて不良っぽい格好をしているファッション不良だった。
「プロレスラーになれるわけない」
葛西がそう思ったのは自身の身長が173cmしかなかったからだ。夢を諦めた葛西がどんな青春時代を送っていたのかを聞いてみた。
「その時キックボクシングとか、佐山聡(初代タイガーマスク)さんが作ったシューティング(現・修斗)のジムに入って、プロになれたらという感じで警備員の会社に就職して上京したんです。仕事とトレーニングジムに通う生活を送っていました」
当時は彼女を作ったり、デートしたりとか色気のある話は全くない。職場は男性ばかりで仕事が終わると仲間と飲みに行く。給料が入れば風俗通いをしていた。だが、その風俗通いが葛西に忘れていた夢を思い出させるきっかけになったという。
「たまたま雑誌で「HIV(AIDS)のチェックリスト」ってのがあったんです。見たら自分はほとんど当てはまったんです。もうヤバい。自分はエイズだって思い込んで頭の中真っ暗になりました」
もうすぐ自分はエイズで死ぬかもしれない。そうしたら子どもの頃に抱いていた夢が蘇ってきた。
「自分がやりたかったことってガードマンじゃない。上京して仕事して仕事仲間と酒飲んで、ジムで鍛えてなんて生活じゃなかった。もし検査(HIV)を受けて、陰性だったら自分のやりたいことやろうって決めたんですよ」
プロレスラーになる。身長が低くて諦めていた夢に飛び込むことを決意した。
「検査の結果が出るまで10日かかったんですけど、そのときは生きた心地がしませんでしたね。地獄でしたよ」
結果は陰性。葛西はその日のうちに警備会社へ辞表を出し、プロレスラーになるためのトレーニングをスタートした。
入門先に選んだのは大日本プロレス。当時も今もデスマッチをやるプロレス団体として人気があり、身長が低くてもやる気があれば入門を受け付けていた。だが、葛西が大日本プロレスを選んだのは他にも理由があった。
それは父への反発心。葛西の父はプロレスファンで、純少年と一緒にテレビでプロレス観戦をしていた。
「言わなくてもいいことを言っちゃう親父が子供心に嫌だった。もし自分がプロレスやるなら親父に「痛くない」と言われない試合やろうと思ってたんですよ。デスマッチ見て「痛くない」なんて言う奴いませんからね」
デビューした葛西は地元北海道帯広の試合で父を招待し、自分の試合を見せた。
「痛くないとは言いませんでした。勝ったと思いましたね(笑)」
父は、息子がこんな痛みの伝わる試合をするプロレスラーになるなんて想像もしていなかっただろう。

◾️デスマッチがやりたい思いで安定した生活を捨てる
大日本プロレスでデビューした後、葛西は危険な凶器攻撃を真っ向から受け止める果敢なファイトスタイルが人気を呼んでいた。そんな彼に転機が訪れる。故・橋本真也が立ち上げた団体「ZERO-ONE」への移籍だ。当時「準メジャー」と呼ばれ、新日本プロレスや全日本プロレスに並ぶ勢いのある団体へ行くことはファンから見れば出世である。しかし葛西は所属当時ストレスを抱えていたという。
「ZERO-ONEに行く前、膝の靭帯を切る怪我をしていたんです。
そんな時にZERO-ONEから「復帰したら是非うちのリングでやってみないか」と声をかけられたという。
「もう給料もらえるならどこでもみたいな感じだったし、デスマッチがやりたいとか、そういう気持ちがもう薄れかけていたんで行くことにしました」
当時のZERO-ONEは、橋本真也のネームバリューもあって上昇気流に乗っていた。橋本のライバルだった小川直也や、全日本プロレスを離脱してNOAHを旗揚げした三沢光晴、新日本プロレスから全日本プロレスへ移籍した武藤敬司などそうそうたるメンバーがリングに上っていた。その時葛西に与えられた場は前座であった。移籍当時の思いをこう振り返る。
「最初の頃は試合数も多いし、ギャラもきちんと出る。大きな声では言えませんけど、デスマッチと比べたら身体の負担は少ない。こんないいことはないなんて思いながらやってたんです。でも、次第にやっぱり物足りなさを感じてきたんですよ」
大日本プロレス時代は、デスマッチでメインベント張って歓声を浴びながら試合をしていた。しかしZERO-ONEのリングでは、猿のキャラに扮して試合をさせられた。
「デスマッチに対する恋しさというか、自分が本当にやりたいプロレスはバナナの皮で滑って転んでお客さんが笑うような試合じゃない。もっとドロドロしたものだし、痛みが伝わる試合だった。そんなデスマッチがやりたかった。その思いが強くなってきてストレスになったんです」
葛西はZERO-ONEを退団し、デスマッチへと帰っていった。この時の決意が葛西を「カリスマ」へと押し上げていく。

◾️「生きて帰るのが俺たちの仕事」その思いに至るまで
ZERO-ONEを退団後、葛西は大日本プロレスのリングへ上がり、プロレス団体「プロレスリングFREEDOMS」の立ち上げに参加するなどデスマッチファイターとしてのキャリアを重ねていく。身を削るような戦いを繰り広げてきた葛西は、ファンや関係者から「デスマッチのカリスマ」と呼ばれるようになった。
そのカリスマが自らの思いをリングで激白をしたことがある。それは2022年9月12日、国立代々木競技場第二体育館で行われた新日本プロレスのジュニアヘビー級でトップ選手エル・デスペラードとの一戦を終えた後であった。
マイクを握った葛西はデスペラードへ語りかける。
「お前よ、オレッちと試合をする前に、こう言ってたな? 『燃え尽きて、死んでもいい覚悟でリングに上がる』ってよ。バカ野郎!
世の中には死にたくて死ぬヤツなんていねぇんだよ。生きていたいのに、死ななきゃいけねぇヤツ、生きたいのに死んじまうヤツがゴマンといるんだよ。お前みたいに最高の人生を送っているヤツが死んでもいい覚悟でリングに上がるなんて言うなよ! 俺たちはいつ死んでもおかしくねぇリングに上がって、生きて生きて生きてリングを下りなきゃいけねぇんだろうが!
死んでもいい覚悟なんて捨ててしまえ! 死んでもいい覚悟なんていらねぇんだよ。そうすれば、お前はもっと強くなる」
その気持ちが生まれたきっかけは2009年11月20日、後楽園ホールで行われた伊東竜二(大日本プロレス)との一戦だった。ZERO-ONE在籍時に、大日本のエースとなった伊東から対戦相手として指名されるも、小腸に腫瘍が見つかり欠場を余儀なくさた。大病から復帰したものの、今度は両膝の靭帯を断裂してしまう。一方の伊東も重症を負い対戦は宙に浮いてしまった。
「あのときはコンディション悪くて引退も視野に入れてました。なんせプロレスだけじゃ食えなくてラブホテルで清掃のバイトをしていたんです。朝5時まで働いて、家帰って少し仮眠してから試合へ行くみたいな生活してて。こんな生活続けててもしょうがねえな。 引退するしかないんじゃないかなって、自分で思ってる時に実現した試合なんですよ。どうせ引退するなら伊東竜二とがっちりデスマッチやってから引退しようと思っていたんです。
でも実際に試合やったらめちゃくちゃ楽しくて。自分がプロレスとデスマッチを失ったらホントの意味で廃人になっちゃうなって思ったぐらいでしたね」
この試合は蛍光灯、サボテン、画鋲、パイプ椅子が飛び交い二人はおびただしい量の血を流した。クライマックスは高さ6メートルある後楽園ホールのバルコニーからのダイブ。葛西のダイブが机の上に寝転ぶ伊東に決まって勝利。この死闘は東京スポーツが制定する「プロレス大賞」で年間最高試合賞を獲得し、葛西はプロレス界の歴史に名前を刻んだ。
この試合の後から葛西は「生きてリングを降りるのがプロの仕事」と思うようになった。
「デスマッチって死の試合ですけど、スタントマンとか登山家でもそうじゃないですか。
生きて帰ってくるからかっこいいんだって。俺らもそうなんだよ。死ぬかもしれない、 大怪我するかもしれない状況に飛び込んでって、死ぬのは素人の兄ちゃんでもできる。でも生きて帰ってくるから俺らは かっこいいし、称賛されるんだなって気づいたんです」
プロレス観が変わっても葛西の試合は変わらない。いつでもイケイケドンドンのままだ。しかし試合に対する見方は変わった。あれだけ嫌がっていたコミカルな試合も受け入れるようになったという。
「葛西はコミカルやらせても面白いよなって評価をいただいて、オファーしてくる団体さんも結構あるんですよ。だからコミカルを求められて上がったリングではやりますよ。とことんお客さんを楽しませます」

◾️年齢イコール Level、48歳になっても日々成長
今年(2023年)デビュー25周年を迎えた葛西の身体は満身創痍。一時期は引退を考えるほど両膝の状態は悪い。試合中に右膝の内側副靭帯と前十字靭帯を断裂、半月板も損傷し、歩くこともできない状況に追い込まれたこともある。それでも現役を続ける葛西はTwitter(X)にどんなトレーニングをしたのか投稿し「日々成長」と綴っている。
「特別これをやってるとかってのは特にないですけど。ま、鍛練ですよね。やっぱりベテランになればなるほど、体のあちこちに「ここ痛い」「あそこ痛い」なんてのがくるし。昨日の試合で疲労溜まってるし、今日トレーニング休もうかなとか自分に甘くなってくるんですよね。
でもね、それをやっちゃうと、下からきている若い選手に追いつかれちゃう。トレーニングしてどんどん強くなってきてる中で休むと追いつかれちゃうし、追い越されちゃう。45過ぎてから気づいたんで遅いですけど」
苦笑しながら語る葛西。日々鍛錬する大切さに気づいたのはコロナ禍になってからだそうだ。
「コロナ禍に入る前に首のヘルニアと腰のヘルニアを同時にやっちゃったんです。会社に無理言って無期限で休ませてもらったんですよ、休んでる間、1~2ヶ月受け身取らないだけでなんか調子よくなってきちゃって。あ、これもう試合できるなと思った。で、試合しようと思って会社にそろそろ復帰させてくれと言おうかっていう時にコロナ禍になってしまって」
ようやく怪我から復帰できそうなのに試合ができない。このもどかしさを葛西はこう振り返った。
「もうプロレス以外の仕事を見つけるしかないなって、ほんと真剣に思った時があって」
プロレスができる身体なのにできない。しかも自分ではどうしようもない。家族との生活もある。プロレス引退を考えても当然だろう。しかし興行を再開できる状況になると葛西の所属団体FREEDOMSは日本で初めて有観客での試合を開催した。
「その時自暴自棄になってて、結構だらしない体で復帰しちゃったんですよ。 これじゃいかんと。自分の経験とキャリアに甘えてちゃいけないなとすごい思って。そっからですね」
年齢対しても考えが変わった。以前は40歳過ぎたら誕生日なんて嬉しくなかったが、今はレベルアップできたと思うようになった。
「常日頃から考えてるのは、昨日の自分よりも強くありたいっていうこと。痛いとこだらけですけど一日少しずつ昨日の自分よりも強くなると思って日々意識して鍛錬してます」

◾️「刺激がほしい」というのはマンネリズムとの戦い
現役レスラーとしてトップを走る葛西にはある口癖がある。
「刺激がほしい」
そんな言葉を試合後のコメントでも言うし、Twitter(X)でも投稿する。デスマッチだけで十分刺激的なのに、なぜさらなる刺激を求めていくのだろう。
「プロレスに対してもそうだし、デスマッチに対してもそうなんですけど、やりきった感がやっぱ出ちゃってるんですよね。 このやりきった感イコールマンネリですよ。マンネリとの戦いですよね。そのマンネリを打破した時に刺激を感じます。まだこういうやり方がある。試合をして新しい楽しさが味わえたとか、こんなやり方があったんだってのを感じた時に刺激を得られますね」
サラリーマンの生活でも似たようなことがあるかもしれない。朝起きて電車へ乗って会社で仕事をする。役職になるとデスクワークが多くなり、ルーティンばかりで刺激を忘れる。そんな同世代のサラリーマンへ贈る言葉を葛西に聞いてみた。
「サラリーマンの場合は、仕事以外で刺激を求めるのが1番いいんじゃない。生きてることに刺激を求める。仕事のやり方を変えるなんてなかなか難しいとは思うから仕事をやりながら夢中になれる趣味を持つとかがいいんじゃないかな? それがゲームでもいいし、アイドルの追っかけでもいいじゃないですか」
刺激を求める葛西。プレッシャーには無縁のように思えるが、実は試合前にはナーバスになるという。SNSで「すごい試合するんだろうな」「めっちゃ楽しみ」といった投稿を見るとプレッシャーがかかってしまい1週間前から眠れなくなることもあるそうだ。自宅にいると妻から「また試合で緊張して…。声かけづらい怖い顔してる」とよく言われるという。堂々と入場している姿から想像できないがどうやって気持ちを切り替えているのだろう。
「スイッチの切り替えみたいのはね、会場に入ってからですかね。試合用のメイクをして、コスチュームに着替えて、テーピングを巻いた後は完全に吹っ切れてます。
その時はプロレスラー・葛西純の世界に入ってますね。控室から入場通路へ続くドアを開けて、お客さんの声聞いたらナーバスとかプレッシャーとか全く感じないです」
最後に葛西純に同年代へ励ましの言葉を送ってほしいと聞いてみた。
「プロレス界でもそうなんですけど、一般社会でも若い人の勢いっていうのはすごい感じるときがあると思うんです。競技者である以上自分は、若い人に座を譲って一線を退くとか好きじゃない。
競走馬が一番目指さなくなったらつまんないじゃないですか。それと一緒で、キャリアを積んだ者にしかできない仕事、キャリアを積んだ者にしかできない試合っていうのが絶対あるわけなんで。 俺はもう生涯現役で命尽きるまで現役でやるし、死ぬまで若いやつに座を譲るなんてことは微塵も思っわない。そういう嫌なジジイで生きていくんで、皆さんも俺みたいな嫌なジジイになってください。男で生まれてきからにはそうであるのが俺はかっこいいと思うんで」
40代後半は社会人として折り返しにきている時期。でも、常に自分自身に鍛錬を課して、いつまでもランナーとして走り続ける。そんな人生もありなんじゃないだろうか。
文:篁五郎
◉葛西純(かさい・じゅん)
北海道帯広市(自称:ヒラデルヒア)出身。生年月日:1974年9月9日
デビュー:1998年8月23日 通称「狂猿」「クレイジー・モンキー」
プロレスリングFREEDOMS所属
過激なデスマッチで人気を誇る日本プロレス界切ってのハードコアレスラー。現在は団体や国を問わずリングに上がっている。その一方息子や娘を会場に連れて来ることがあるなど、子煩悩な一面も。葛西は息子を「ハッピーボーイ」と呼んでいて、売店にも訪れることもある。娘も「ジプシー嬢」と呼んでおり、度々Twitterに登場する。