時代は乱世です。何が起きるか予測がつかない。
「視点が変わる読書」第2回中流の陥落『滅茶苦茶』染井為人
梅雨が明けたばかりの猛暑の日、旧知の編集者S氏から電話があった。S氏は編集者といっても出版社の社員ではなく、契約で仕事をするフリーであり、仕事は編集に限らず、校正、インタビューのまとめと幅広い。いっとき同じ出版社で業務委託の編集者として席を並べていたことがあるが、その仕事ぶりには感心させられた。仕事が堅実であるからオファーが途絶えることがない。そこを仕事の質が落ちないよう量を調整しながら回していく。勤めていた出版社を辞めてフリーになったばかりの私は働き方の見本を見せつけられた気がした。
お互いその出版社を離れてからは年に数回のメールのやりとりだけの交流になっていたS氏からの突然の電話の内容は、「郷里の新潟に戻って、介護職に転職する」だった。
ど、どういうこと?
聞けば、コロナ禍で仕事が減ったものの、貯えでしのぎ、これから挽回しようと思った矢先、担当していた週刊誌のインタビューのまとめが頁削減のためになくなり、校正を回してくれていた編集者が会社を辞めてしまいと、不測の事態が重なって、毎月のレギュラー仕事が全てなくなってしまったというのだ。
「介護の仕事ってしたことあるの?」
「全然」
「たしか50歳超えてるよね。これから介護の仕事ってキツくない?」
「でも求人がいちばん多いんだよ」
「……」
結局「何かできる仕事がないか探してみるね……」と、あてのない約束をして電話を切るしかなかった。
コロナが5類に移行して様々な制限が解除され、人々はマスクなしで出歩くようになり、観光地は外国人客で溢れているが、かつての日常が戻ってきたわけではない。2020年~2022年のあのひどい状態を思い出してほしい。緊急事態宣言の措置が敷かれる中、外出の自粛が強要され、町から人の姿が消えた。飲食店は営業時間や形態に厳しい規制がかけられ、一時期東京では酒が呑めなかった。産業活動は停滞し、職や家をなくす人が続出した。
今現在、日本国内におけるコロナによる死者数は累計で約7万5千人、ワクチン接種後の死亡者は約2千人、この数を上回る多くの人が後遺症で苦しんでいる。
かくもコロナのダメージは大きく、その被害はいまだ拡大を続けているのだ。
『滅茶苦茶』は、2020年5月~10月、コロナ真っ只中の日本でもがき苦しむ三人の人物を描いている。
今井美世子は37歳。
二宮礼央は群馬県内一の進学校の二年生。中学までは学校一の秀才だったが、高校に進んでからは勉強についていけず、落ちこぼれている。父親は大手製紙会社の関東支部の課長で母親は専業主婦、公立中学に通う妹が一人いる。
戸村茂一は静岡県沼津市で三店舗のラブホテルを経営している。父親から受け継いだホテルは年々売り上げは落ちているものの、小さなテコ入れを繰り返し、妻と大学生、中学生の息子三人を養っている。
説明から分かる通り、三人は経済的弱者ではない。中流の中でも比較的恵まれた境遇にいる。しかし、そんな彼らだからこそはまってしまう陥穽がコロナ禍にはあったのだ。
染井為人の小説はミステリーに分類され、事件ありきではあるが、それに関わる人間を描くことに重きを置いている。作家自身、ウェブメディアのインタビューでこう話している。
「私自身はミステリーを書いているという意識はありません。ミステリーと言うとトリック、真犯人というイメージですが、私の作品にそういう要素はないと思います。私が書きたいのはいろいろな環境、境遇にいる人たちが考えていること、感じていることです。同じ環境にいてもそれぞれ考えていることは違ったりするもの。そういう人たちの気持ちを表現できればと思っています」(「フムフムニュース」2022年5月8日 主婦の友社)
言葉通り、染井は実にいろいろな環境、境遇の人間を描いている。
生活保護の不正受給を続けているシングルマザー、一家三人を惨殺した罪で死刑判決を受けた青年、引きこもりのユーチューバー、凶悪な行動で恐れられる半グレ集団、トラックでコンビニに突っ込んだ老人……負の要素の強い人物を描いてきた染井が『滅茶苦茶』で主人公に据えたのが、まっとうに生きる中流三人だった。
◾️マッチングアプリで、国際ロマンス詐欺の罠に
コロナ禍でリモートワークが多くなった美世子はそれまで社交で紛らわしてきた自身の孤独を自覚し、結婚相手を探そうと始めたマッチングアプリで、国際ロマンス詐欺の罠にはまる。
リモート授業が増えて登校することが少なくなった礼央はそれまで内に抱えていた学校や級友への不信が募り、不良に堕ちた小学校時代の級友と親交を深めた結果、殺人事件に巻き込まれる。
自分の営むラブホテルが性風俗事業にあたるとして、コロナ禍の事業者救済措置からはずされることを知った茂一は怒りのあまり、持続化給付金の不正受給に手を染める。
根が真面目である彼らは自分たちがはまった陥穽に自覚のないまま深くおちいっていき、気づいた時にはとんでもないところまで落ち込んでいた。
「ねえ、お金、返して。全部返して」
「おれは関係ない。
「一生懸命生きてるだけじゃねえか。働いて稼いで飯食って、ちっとも贅沢なんてしてねえぞ」
彼らの叫びは何処にも届かない。誰も助けてはくれない。
コロナで変わり行く社会の中、穴から抜け出そうと足掻く三人の姿を描きながら染井は、他人より少しでもいい思いをしたいと願う人間のエゴを暴き出した。
三人の落ちた穴は奥底で繋がっていた! 本来出会うはずもない三人が邂逅を果たすラストはタイトル通り「滅茶苦茶」だが、痛快でもある。
「コロナ禍になって以来、世の中が鬱々してるじゃない。人としゃべるな、おもてに出るなって。やっぱり無理が生じるんだと思う。わたしたちって結局、一人じゃ生きていけない生き物じゃない。それでも我慢、我慢でがんばってきたけれど、一向に出口が見えないから限界に達しちゃったのよ。そうなると、どこかに必ずしわ寄せが出るの。
美世子の言葉に礼央と茂一は頷く。
猛暑の衰えが全く見えない8月の終り、S氏と再会した。
幸い校正の仕事を紹介することができ、私以外の知人からも仕事を回してもらえ、S氏は新潟行と介護職への転職を免れたという。
神保町のビアレストランで6年ぶりに会ったS氏は以前よりやせてはいるものの、表情は晴れやかだった。
「まさか自分の身にこんなことが起るとは思ってもみなかったよ。お別れのつもりであちこち電話したら、状況が好転した。ありがとう。でもこの段階で危うさが発覚してよかった。もう少し歳をとっていたら、どうにもならなかっただろうね。校正は70代で現役の人もいるみたいだから、これからはしくじらずに勤めていくつもり」
滑らかに泡立つ黒生ビールを飲みながらS氏はそんなことを語った。
コロナが5類に移行されたからといってコロナ禍が終わったわけではない。私たちは以前よりも基盤が脆弱な社会に生きていて、頑張って生きていてもいつなんどき陥穽にはまるか分からない。
文:緒形圭子
<執筆者プロフィール>
緒形圭子 おがた けいこ
文筆家。
1964年千葉県生まれ。慶應大学卒。出版社勤務を経て、文筆業に。
『新潮』に小説「家の誇り」、「銀葉カエデの丘」を発表。
紺野美沙子の朗読座で「さがりばな」、「鶴の恩返し」の脚本を手掛ける。