早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。

その後、文筆家・タレント「神野藍」として活動し、注目されている。AV女優「渡辺まお」時代の「私」を、しずかにほどきはじめた。「どうか私から目をそらさないでいてほしい・・・」連載第17回。



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【傷口が突然開いた瞬間】



 沢山の傷を抱えて生きている。けれどそれは決して他人からは見えず、私だけが存在を認識しているものたちだ。それらの中には、何事もなく綺麗に治ったものやしっかりとした瘡蓋に守られているもの、そして今もなお傷口から真っ赤な液体が流れ出ているものまで様々だ。時間の経過とともに勝手にふさがるものが大半ではあるが、一部は傷口が閉じたり開いたりを繰り返しながら、じゅくじゅくとした患部が心に鈍い痛みを走らせてくる。



 そして、傷というものはその所有者である私でさえも、想像もしていなかった瞬間に存在に気が付くのだ。



 それは日曜日の夕方のことであった。その時間から外出して何かをする気力も湧かず、目当ての作品があるわけでもないのに何となくネットフリックスを開き、ただただ画面をスクロールしていた。何度も画面を行き来したところでようやく再生ボタンをクリックした。それは少し前に映画好きの友人が熱意を込めて薦めてきた『ラストナイト・イン・ソーホー』で、元々気になってはいたし、この時間から観始めるなら、脳みそや体力を使うような小難しい作品は避けたいという気持ちもあって、ちょうど良かった。



 基本的に映画を観るときは感情が揺れ動かされることはあっても、「このシーンはこういうメタファーで」なんて考えることはしない。考察している間に、映画に置きざりにされる気がして、一定の時期から鑑賞中に複雑な思考を巡らせることはやめていた。この日も同じで、何も考えずに画面を眺めて、「ホラー映画のカテゴリだけど、どこにその要素があるんだろう」なんて思いながら、じっとストーリーを追いかけていた。



 ふと、あるシーンを皮切りに、私の中で何かがはじけて涙が止まらなくなってしまった。きっとこの作品のこんな場面で突然泣き始める人は本当にごく僅かだろう。一緒に観ていた人は隣にいる私があまりにも静かに動かなくなっていったので、最初は寝ていると勘違いして顔を覗き込んできたのだが、すぐにそうではないと気が付き、そして狼狽えていた。しかしながら、付き合いがそれなりに長い相手だったのもあって、私が細かいことを説明するよりも前に、何かを察して「映画観るの辞めて、一旦休憩しよう。」と提案してきた。結局のところ、私がそれを断り、どうにか最後まで観たのだった。 



(今回はストーリーについての丁寧な説明はしない。内容が気になる方や最初に映画を観ておきたい方は、読み進める前に作品をチェックした方が良いかもしれない。)





【好きでもない男たちとセックスするということ】



 とあるシーンというのは、映画に登場する歌手を夢見るサンディが、「歌手になるためだから/みんなそういうことを理解してここにきている」と男たちに諭され、好きでもない男たちとセックスしなければいけないという内容のものだ。そしてセックスを求めてきた相手は全て顔のない存在として描かれる。

サンディは相手を顔のないものとして認識する、つまりは個々の人間として区別しないことで、どうにかやり過ごそうとしたのだろう。



 頭で何かを考えるよりも先に涙が出てきた。私の中で忘却という手段をとって塞いでいた傷口がぱっくりと開き、「ああ、こんなところにも自分じゃ分からなかった傷があったのだ」と気がついたのだった。



 その状況の全てが私に当てはまるわけではないが、そのシーンを観たことによって過去の心を殺してやりすごした経験が思い起こされたのだろう。そんな風にどうにかやり過ごしたことを、ふとしたきっかけで思い出すのは割とよくあることで、かつそれらは全て前触れなくやってくる。きっとこれまでは「やり過ごす」「忘れる」「考えないようにする」というのが自分なりの解決手段であったが、それらの突貫工事も時が経てばいずれ綻びが生じてくる。だからこそ、他のことに目がむき始めた今に、何かの拍子で再び炎症を起こして私のもとに現れる。それらは私に「逃げるな、考えろ」と言っているように感じてしまうのだ。



 少し前まではそんな状況やそんな状況に陥るような自分自身も許せなかった。そう思えば思うほど、傷の痛みは増していき、自分に対する評価は下がる一方で、負の連鎖から抜け出せなくなっていた。そういうときに、決まってぱっと出てくるのは「私は汚い」という言葉だった。





【どんなときでも最後に自分を味方するのは・・・】



 しかしながら、自分のことをぽつりぽつり書き始めてから、以前よりはそんな自分も肯定的に受け止められるようになったし、抱える傷一つ一つがどことなく愛しく思えるようになった。

荒療治かもしれないが、嫌でも毎週自分について考えないといけないというのは私には丁度良かったのかもしれない。ただし、完全に変化したわけではない。向き合い方を覚えただけで、今でも重苦しい感情の泥沼にはまることはよくあるし、ふとした瞬間に傷は化膿し始める。



 だからこそ、私は自分自身を救うために、愛するために言葉を綴っている。そうしないと色々な感情の波が押し寄せてきて、暗いところへと引きずり込まれてしまいそうだから。言葉として出力し続けないと、私は前に進めないし、私が至る所につけた傷や色々なものから受けた傷は修復されていかないのだ。どんなときでも最後に味方なのは私だけなのだ。



 毎週かなり個人的なことを書いている自覚はある。自覚があるからこそ、この文章を読んでくださっている方々には頭が上がらない。最近「エッセイの内容が変わってきたね」と言われることも多いが、それは私が前に進んでいる証拠かもしれない。たまに逆行したり、停滞したりするかもしれないが、それも楽しみに待っていてくれると有難いなと思っている。





(第18回へつづく)





文:神野藍





※毎週金曜日、午前8時に配信予定

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