早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。
【何度引っ越しても捨てないもの】
大抵引っ越しが趣味だと言うと驚かれる。確かに煩雑な手続きや大量の荷物を段ボールに詰め込む作業などは面倒だと感じてはいるが、それ以上に住処を変えることの新鮮さと喜びの方が上回ってしまうのだ。きっと前世はころころ住処を変えるような生き物だったのかなと思っている。加えて、物を捨てることは得意な方で、引っ越す度に要らないものがパンパンに詰まったゴミ袋を引きずって、何度も部屋とゴミ捨て場を往復する。過去に自分が載った週刊誌の見本誌や新聞など、「もう見返すことはないな」と思うものはほぼほぼ捨てた。正直もったいないなと思いつつも、映っている自分が自分じゃない気がして手放してしまった。
そんな私が大事にケースに閉まって、何度引っ越しても捨てないものがある。それは今までに何百枚も交わした契約書、もしくは出演同意書と呼ばれる書類だ。分厚いプラスチックケースの中に乱雑ではあるが、デビュー作の契約書から引退した日の契約書までほぼ全ての書類がしまってある。
補足程度に説明するが、私が現役の頃は撮影現場に行って、作品を取り始める前に記入していた。自筆で書くのは契約日、本名、現住所で、最後に印を押すことで契約が締結する。契約書の内容は大体どこも同じで、メーカーによっては声に出して全文を読んだり、締結中にビデオを回したりと様々だ。
引退して、一般企業に勤めてから色々な契約書を目にしたが、この契約書自体かなり杜撰なものだったと感じてしまう。出演者のリスクが多い割に、作品のタイトルやどのように発売されるのか(その日撮影した素材が何個の作品に分割されるかなど)、空欄や未定のままのものも多かった。そのあたりについては新法が成立したことで、だいぶ改善されたはずだ。その点で法律の強制力があって良かったと個人的には考えている。
【なぜ私は契約書をすべて大事に保管しているか?】
さて、私の話に戻すが、紛失や焼失を恐れて、一度全てデジタル化するか、そこまでしないまでも出演順にデータをまとめるかしようとしたことがある。しかしながら、いかんせん膨大な量のため途中で諦めてしまった。数年たった今でも大事に取ってある理由は、思い入れがあるからなんかじゃない。いつか作品の権利契約が切れた瞬間にすべての作品を削除するためだ。そのためにずっと保管してある。
「作品を消す」と表明すると、なぜかネガティブな方向の意見が寄せられることが多い。発売してからすぐならまだ理解ができる。そうではなく、発売してある程度の年数が経過して、かつ何度もセール価格10円、100円といった叩き売りを繰り返して、どう考えても “お得に買える機会” に何回も遭遇している状況で、なぜか「買えなくなるのは困ります」と言ってくる人たちが一定数存在する。これに関しては、その時に買わなかったのが悪いとしか言いようがない。
これよりも悪質なのは「作品を消すなんて。女優としての誇りがないのですか」という言葉である。つくづく思うのだが、「誇り」とか「好きな仕事」という言葉で本来持つべき権利や何かに異議を唱えようとする行為を封じ込めようとするのはなぜなのだろうか。
作品に出演する自由があるのならば、当然作品の発売を差し止める自由もあるはずだ。確かに「AV女優だった」という事実は何年たっても変わりはしないが、身も心も永遠にAV女優のままではない。引退した瞬間に芸名の〇〇ちゃんというのは誰かの記憶の中では生き続けるが、実体としては消え去るのだ。
【自分の作品なのにコントロールが利かないという歯がゆさ】
以前のエッセイでAV女優の出口は荒野だと表現した。セカンドキャリアの支援は名ばかりで、AV女優の経験は職務経歴書に記載できる内容ではない。
しかしながら消すと決断をしても、世の中から全てが消えることはない。それは経験した本人が一番理解していることで、各々がどうにか折り合いをつけていくしかない。そのことについて、ただの外野が意見をしたり、ましてや批判したりするのはお門違いだ。
消したい場面に遭遇しなくとも、自分の知らないところで作品が無限に増えていくのは居心地の悪さを覚える。毎年二次使用料としてある程度の金額、ただし普通の一本分の撮影に満たない額が、振り込まれてくる。一体それがどんなタイトルで、いつ発売されたかの情報もなく、ただ事務的にお金だけが振り込まれてくる。私の作品であるのに私のコントロールが利かないという歯がゆさを抱えるなんて、契約書を書いた時点では誰も教えてくれなかったし、もちろん私も含めて、誰も気にも留めていなかった。
私の作品の権利契約はまだ切れていない。契約書上の数字で言えば、あと三年ぐらいは何もできずに待つだけだ。
(第19回へつづく)
文:神野藍
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