ジャニー喜多川の性加害疑惑をBBCが報じたことがきっかけで白日の下に晒され、これまでその事実を否定し続けてきたジャニーズ事務所が認めた。新社長に就任した東山紀之は、「噂では聞いていた」「鬼畜の所業」などと語ったが、同事務所のタレントの広告起用をやめる企業が相次いでいる。
■被害者の立場を考えられない「想像力の欠如」
男性アイドルグループの元メンバーが自宅に女子高生を呼び出し、無理やりキスをして強制わいせつ容疑で書類送検されたことが話題になった。1993年に日本から海外に移住した私はこのアイドルグループのことを知らないし、芸能ネタには元々あまり興味はない。だが、「46歳の加害者が仕事を通じて知り合った未成年者に強制的な性的行為を行った」という事実に対し、ソーシャルメディアでは被害者のほうを責めたり、加害者を擁護したりする人が多いことには驚いた。これは加害者も認めている事実なのに。
特に多かった意見が「夜中に呼び出されて男の自宅に行くほうが悪い」というものだ。「高校生にもなっているのだから、男の自宅に行ったら何が起こるかわかっているはず」、「金を目当てで、(加害者を)罠にはめたのだろう」というものまであった。それ以外にも、「なんでもかんでもセクハラ騒ぎになる。これでは男は怖くて女に言い寄れないし、恋愛もできなくなる」といった内容の嘆きも目にした。
こういった見解は、被害者の立場になって状況や心理を考えることができない「想像力の欠如」が原因なのだと思う。SNSにあふれる被害者批判の根源にある視点の過ちのすべてを説明すると紙面が足りなくなるので、今回は、「大人と未成年者の間の性行為は、いかなる状況であれ、大人が加害者の犯罪である」という根本的な部分に絞って説明したいと思う。
アメリカでは「Statutory Rape(法定強姦/法定レイプ)」という単語がニュースでよく使われる。それゆえ、よほど社会問題に疎い人でないかぎりだいたいの意味は知っている。
通常「法定強姦」は、性行為を同意できる年齢に達していない子どもに対して大人が行う「強制」を伴わない性行為を意味し、同意がない強制的な性行為である「レイプ」とは分けて使われる。つまり、子どもがたとえ同意の意思表明をしたとしても、性行為を行った大人のほうが常に犯罪の加害者ということになる。特にStatutory Rapeという表現は被害者が思春期以降の年齢に対して使われ、それ以下の年少の場合には、Child Sexual Abuse あるいはChild Molestation(どちらも児童性的虐待)という表現がよく使われる。
「法定強姦」にならない「性行為の合意可能な年齢」はアメリカでも州によって異なるが、16歳から18歳の範囲である。「それなら未成年同士でセックスしても犯罪とみなされるのか?」という疑問はあるだろう。実際に、12歳のボーイフレンドと合意のうえでセックスした13歳の少女が「法定強姦」で有罪判決を受けたカリフォルニアの例もある。だがこれは非常に稀なケースで、全米から非難が押し寄せた。
「法定強姦」はもともとティーンの恋を罰するために作られた法律ではない。だから、多くの州には「ロメオとジュリエットの法」というものがある。シェイクスピアの原作ではロメオの年齢が明確ではないが、多くの説ではジュリエットは13歳、ロメオはその2~3歳年上のティーンだと解釈されている。
「法定強姦」の法律が生まれた理由は、大人と子どもの関係が根本的に対等ではないからだ。だから性行為を行った二人の年齢差が重要な要素になる。
未成年者には成人と同等の法的権利はなく、経済的にも社会的にも非力である。また、子どもの心身はまだ発達途中であり、肉体の成熟度、性や人間関係の理解においても子どもと成人は同等ではない。性行為がもたらす可能性がある心身の影響についても、子どもは自分で責任を取ることができる立場にない。
このような不平等な関係においては、大人は子どもを身体的にも心理的にも圧倒することができ、心理的に操作するのも容易だ。つまり、対等な関係になりえない大人と子どもの間では子どもは真の意味での「性行為の合意」をすることが不可能だという考え方だ。
ゆえに、大人による子どもへの性行為は、暴力や強制がなくても、たとえ子どもが言語で同意しても、真の意味での「同意」とはみなされず、法的な処罰の対象になるのだ。
こういった話題で具体的な例をあげても、「男はいつも女に責められる」という先入観のためなのか、被害者の視点で読んでもらえないことが多い。そこで、今回は被害者も加害者も「男性」の例で説明したい。
■カトリック教会による児童性的虐待スキャンダルの真相
私が住んでいるボストン周辺では、2002年に「カトリック教会による児童性的虐待スキャンダル」が大きな問題になった。
ボストン・グローブ紙の「スポットライト・チーム」が徹底取材したもので、『スポットライト 世紀のスクープ』という映画にもなった。
カトリック教会のボストン司教区は、政治家や富豪を含めた信者が多く、経済的にも大きな力を持っていた。司教区幹部はジョン・ゲーガンという神父が児童に対して性的虐待を行っていることを知りつつも、処分はせずに教区を移動させただけだった。その結果、ゲーガンは30年間放置され、6つの小教区で130人の児童が犠牲になった。
だが、児童に性的虐待を行った神父はゲーガンだけではなかった。神父による未成年の信者の性的虐待と、教会による隠いん蔽ぺいは蔓延していた。その後何年にもわたるメディアの追及により、ボストン司教区は、2011年に性的虐待を訴えられた神父のリストが250人に及ぶことを認めた。警察も、メディアの活躍で、ようやく重い腰をあげて加害者の神父らを逮捕した。
被害が広まった最大の原因はカトリック教会が子どもよりも神父を守ったことだが、その前に、「大人の神父と子どもの信者」という絶対の力関係が存在する。
カトリック教徒にとって神父は絶対の力を持つ。夫婦関係から思春期の問題まで、信者は神父からアドバイスを受ける。また、神父は信者が親しい者にも打ち明けない秘密を「懺ざん悔げ 」として告白する相手でもある。
71歳になってようやく児童への性虐待で有罪になったポール・シャンリー神父も表層的には立派な神父だったが、新米の神父だった頃から長年にわたって多くの少年を犠牲にしてきた。たとえば、1983年に子ども向けの「公要理教室」に通っていた6歳の少年を連れ出してレイプしたというものだ。
「6歳の子どもと高校生では立場がちがう」と思う人がいるかもしれない。冒頭の容疑者と女子高生のケースでも、「高校生にもなっていたら知識はあるはず。わかっていて行ったほうに落ち度がある」という反論が多かった。だが、ティーンの少年たちもシャンリーの犠牲になったのだ。たとえ身体が大きくなっていても、高校生は多くの意味でまだ子どもだ。大人ではない。
シャンリーが狙ったのは、家庭問題や思春期の悩みで脆ぜいじゃく弱な子どもたちだった。14歳の少年ダニエルに父親がおらず、母親に心臓疾患があると知ったシャンリーは、相談に乗るふりでダニエルを呼び出してズボンを脱がせ、性器を弄もてあそんだ。そのときの心理をダニエルはこう説明した。
また、ボストンに家出少年が集まることを知っているシャンリーは、救済の奉仕のふりをして弱い立場にあるホームレスの少年たちを狙った。表層的には慈悲あふれる神父として。カトリックでは同性愛は自然愛に反する罪だとみなされている。そこで、自分が同性愛ではないかと感じる少年たちは深く悩む。シャンリーはそういった少年らを選んでターゲットにした。
混乱している少年たちに「神父の自分がやることは神の意志である」と思い込ませ、自分を信用させ、ついに行為に及ぶというものだ。
自分の性的指向に疑問をいだき、ノイローゼになっていた17 歳の少年ケヴィンは、その日のミサを行った司祭のシャンリーから「私が相談に乗ってあげよう」と優しく語りかけられた。そして、ふたりきりになった司祭館で、「君がゲイかどうか実験してみよう」と説得されてシャンリーから性的な行為をされた。それまで性体験がまったくなかったケヴィンは「彼はひどいことをした。
14歳であっても17歳であっても、未成年の犠牲者たちは、驚き、凍りつき、恐れを抱いて抵抗できなかったのだ。
シャンリーはそれから何年にもわたってケヴィンをセックスの相手として利用し、彼にポルノ俳優になるよう薦めたりもしたという。
■大人は子どもを心理的に圧倒し、簡単に操作する
そこで、「嫌だと感じたのに、なぜケヴィンはシャンリーと性的関係を続けたのか?」と疑問に思う人がいるだろう。だが、これはよくあることなのだ。
大人である加害者のほうは、「誰にも言うな」と脅し、犠牲者のほうが「自分で求めたこと」だと思い込ませることに成功する。これは被害者が自分の認識を疑うようになる「ガスライティング」である(『ガス燈』というパトリック・ハミルトンの戯曲および映画化作品で描かれる心理操作から生まれた言葉)。心身ともにまだ未熟な性暴力の被害者は、よく理解できないままに、自分が体験したことが「汚いこと」だと感じ、自分が汚れてしまい、価値がなくなったと感じる。そのために加害者と肉体関係を続けることもある。「ロックスターの自殺が浮き彫りにする性暴力被害者の苦悩」で紹介したケースもそうだった。ジェンダーにかかわらず犠牲者の心の傷は深く、その傷が人生を徹底的に壊してしまうことも少なくない。犠牲者らの数えきれないほどある体験を読めば、彼らがその後何十年にもわたってどれほど悩み、苦しんだのかがわかる。
冒頭の件で「キスぐらいで騒ぐほうがおかしい」という意見も目にした。
だが、性的な知識も体験もない年齢での性的な体験による心の傷は、性交に達しなくても深いことがある。
初期に「スポットライト・チーム」に体験を告白した犠牲者のひとりパトリック・マックソーリのケースがそうだ。
パトリックが12歳のとき、父親が自殺した。その悲劇に打ちひしがれている母と息子を家庭訪問したジョン・ゲーガン神父は、母親に優しく悔みの言葉を伝え、アイスクリームを買いに少年を連れ出してやろうと提案した。
アイスクリームを買って戻る途中、車の中でゲーガンはパトリックの短パンの中に手を差し入れ、性器を弄んだ。パトリックは「僕は凍りついた。茫然自失した」とそのときの心境を語った。
「なんだ、触られただけじゃないか」と思う人がいるかもしれない。だが、犠牲者にとっては、それだけでも人生を破壊する大きな心の傷になる。
それ以降パトリックは精神状態が不安定になり、酒やドラッグで心の痛みをやわらげようとするようになった。ボストン・グローブ紙に告白した後も自殺未遂のような事件を起こし、最終的に29歳の若さでドラッグの過剰摂取で命を失った。
神父の児童性虐待と状況的によく似ているのがスポーツコーチによるアスリートの性的虐待だ。ある調査では、女子アスリートの31%、男子アスリートの21%が何らかの性的虐待にあっているという。
スポーツの狭い世界で生きるエリート選手にとって、自分の命運を決めるコーチは神に等しい存在だ。自然と父親に対するような敬愛の感情も抱く。そういったコーチがアスリートを心理的に操作するのは簡単なのだ。カナダやアメリカでも、マッチョとみなされているアイスホッケーやフットボールでコーチが少年アスリートを性的虐待していたことが何十年もたってから明らかになることが多い。
私が個人的に知るケースの犠牲者は少女だったが、「誰かに言ったら、この世界で生きられないようにしてやる。選手生命は終わりだ」と脅され、親にも打ち明けられなかった。
これらのケースでわかるように、ターゲットにされた子どもには、選択肢はないし、逃げ道もない。逃げ道がないところに「同意」などは存在しない。
もし性的に成熟している態度の未成年者がいるとしたら、すでにケヴィンやパトリックのように心を壊す体験をしているのかもしれない。家庭に悲劇や問題があるのかもしれないし、自暴自棄になっているのかもしれない。いずれにしても、未成年者は「性的に成熟しているように見えるから大人と対等」ということにはならない。
「赤子の手をねじる」というたとえがあるように、大人は子どもを心理的に簡単に圧倒し、操作できる。だからこそ、大人は子どもを利用するのではなく、守ってやらなければならない。
子どもを守るとはどういうことか?
まずは、子どもを性的対象として扱うのをやめなければならない。それを肯定するのも。
たとえむこうからアプローチされたとしても、大人は未成年者との性的関係を避けなければならない。「深夜に自宅のアパートに呼び込む」というシチュエーションを避けなければならないのは大人のほうだ。誘われた子どものほうではない。
そして、大人が子どもを犠牲にしたとき、ソーシャルメディアで加害者をかばったり、被害者の子どもを責めたりするのをやめなければならない。
それが、無事にここまで生きられたラッキーな大人の義務である。
(『アメリカはいつも夢見ている』本文から抜粋 [2018年5月2日cakes掲載])
文:渡辺由佳里