森羅万象をよく観察し、深く思考すること。そこに新しい気づきを得たとき、日々の生活はより面白いものになる――。
第1回 インプットは割りが悪い
【日常のルーチン】
朝起きたとき、あなたは何を考えるだろうか? なにも考えない? そういう人もいる。僕の奥様(あえて敬称)がそのタイプだ。僕は違う。目が覚めて、時刻を確認したあと、15分くらいベッドで横になったままあれこれ考える。それは、今日何をするか、どういう手順でどのように活動するか、と思いを巡らす。もちろん、だいたいは決まっていて、前日かそれ以前に考えてあるので、ほぼ予定どおりのことも多い。それでも、その日の天候や、自分の体調や、気分などで細かい点を変更する。
やることが決まっていても、どう動けば効率的に進められるか、また、なにか見逃していることはないか、どんな点に注意をして動けば良いか、など視点を変えて、もう一度検討しておく。
それらがまあまあまとまったところで、「さて、では起きようか」と躰を動かす。最初にすることは、ベッドの横で寝ていた犬を庭に出してやること。ドアのところで待っていると、彼は1分ほどで戻ってくる。
それから、温かいミルクティーを淹れて、書斎へ行き、パソコンの前に座る。24インチディスプレィ2機が起動し、30分くらいは世界の様子を見て回る。ちなみに、このミルクティーは少しずつ飲んで、飲み終わるのは夜である。途中にコーヒーを3度くらい淹れて飲むから、ミルクティーは朝と夜(夜にはもちろん冷めている)に分けて1カップを飲む習慣。
ばりばり仕事をしていた頃には、朝30分くらいで30通ほどメールを発信した。仕事関係のリプラィがほとんど。当時は1日に200通はメールを出していた。仕事の半分はメールを書くことだったといえる。
朝は犬の散歩が一番大事なイベントだ。担当の1匹を連れていくのだが、最近どういうわけか奥様がついてくるようになった。ウォーキングをしてダイエットしようとしているものと推測されるが、もちろん理由を尋ねるほど勇敢ではない。
犬の散歩は夕方にもう1回ある。それまでの間は、庭仕事、工作、どこかの修繕、ネット散策、読書、ドラマか映画鑑賞、短距離ドライブ、車の整備、といったところ。だいたいこれで日々過ごしている。作家の仕事はほとんどしていない。
【インプットとアウトプット】
このうちアウトプットといえる行為は、庭仕事、工作などである。そのほかは、ほぼインプット。インプットは楽だし、躰も心も休まる。
仕事で文章を書くのは、もちろんアウトプット。アウトプットしているからこそ対価が得られる。作家の仕事は、とにかく減らす一方で、もはや作家とはいえないほど、なにもしていない。基本的に人気者になりたくない病を患っている人間なので当然の帰着。
では、どうしてあっさりと引退し、断筆しないのか、というと、そういう決断をするほどのことでもないし、辞めることで目立ちたくない、という気持ちが強い。世の中というのは、不連続な行為に対して大勢が色めき立つ仕組みになっているから、できるだけ当たり障りのないよう、そうっとしておいたまま、少しずつ離れるのが得策といえる。熊に出会ったときの心得と同じだ。
自分のやりたいこと、憧れの生活に対して、自分が自由にできるお金が少ないと思う人は、とにかく働くしかない。働くのが最も安全で効率が高い解決策であり、自由を手に入れるための近道である。
でも、少しずつでも、自由に近づきたい。まずは、そう思うことが大事。近づきたいと思っただけで、なんとなく楽しい気分になれる。自由に近づくことは、別の言葉にすると「幸せ」だ。人が幸福感を感じるのは、自由に近づこうとしているときだ。逆に、不幸を感じるのは、不自由に近づいているときで、現状ではなく、少し未来にやってきそうな不自由を恐れて、気持ちが萎える。
インプットしているときは、ものを食べているときと似ていて、本能的な欲求を満たしているから幸福感が味わえる。だが、食べてばかりはいられない。すぐに満腹になり、食べられなくなる。インプットしすぎることに対して、躰が拒否反応を示す。
アウトプットしているときは、運動しているのと同じで、爽快感が得られる。楽しさは、たいていの場合、アウトプットによってもたらされる。
【インプットは贅沢な買い物】
同じような楽しみに見えても、実は大きな違いがある。自分で趣味的になにかを作り出す楽しみは、時間がかかるけれど、むしろ長時間そこから得られる楽しみが、量的にも質的にも多い。これに比べて、他者から与えられた楽しみを買うと、一時で簡単に楽しむことができるものの、短時間で終了し、その後はなにもない。楽しかったこともすぐに忘れてしまう。写真や動画を撮って、他者に見せびらかすことくらいしか余韻は得られない。
たとえば、創作を自分で行うアウトプットと、創作を買って楽しむインプットを比べてみよう。
旅行などでも、自分で計画した旅ならば、創作的な楽しみが味わえるが、用意されたパックでは、短い時間で終了し僅かな印象が残るだけだ。その差は何十倍も違うだろう。
つまり、インプットは金を失うということ。何故なら、人々にインプットをさせるために、あらゆる商売があれこれ手を尽くして商品を世に送り出しているからだ。そういうものが宣伝され、いかにもそこに人生の楽しみがあるように見せつける。大企業が成立しているのは、大勢にちょっとした楽しみを与えることで莫大な利益を上げているからだ。
税金が高いと文句をいっている人々が、みんなスマホを手にして、ゲームやイベントで時間と金を消費している。それが悪いとはいわない。ただ、皆さん、贅沢が好きなんだな、と感心するばかりである。大企業を育てるゲームに参加しているのだから。
そこから学べることがある。自分の楽しみを持って、自分で生産すること。つまり、アウトプットする。一生なにか作り続ける生活。それが、本当の楽しさを生み出すし、また金もかからない。ゆったりとして、のんびりと生きていける。そして、実は、この金をかけない生き方こそが、本当の贅沢なのである。
そういうことに気づいたのは、40歳になった頃だった。若いときには、仕事に夢中になっていたし、仕事の中に無理やり楽しみを見つけていたかもしれない。あるとき、ふと気づいた。それは、長い無意味な会議が終わって、夕焼けを見ながら自分の仕事部屋へ戻るため、まだ熱の残っているアスファルトを歩いたときだった。
いつもなら、嫌いな会議が終わって、これから自分の仕事に集中できる時間だ、と嬉しくなるところだったのに、そのときは、なんだかもうこのまま帰りたくなった。僕の仕事というのは研究だったから、ノルマというものはない。やりたいだけいくらでもできるし、やりたくなければいつでもやめられるものだった。このとき初めて、やりたくないな、と感じたのである。
文:森博嗣