早稲田大学在学中にAV女優「渡辺まお」としてデビュー。人気を一世風靡するも、大学卒業とともに現役を引退。
【自分の身体の所有者は私であるはずなのに】
時々思うのだ。
自分の身体の所有者は私であるはずなのに、様々な選択権は私ではなく、どこか別のところに依存していると。
先日友人の招待で現代アートの展示を訪ねたときに、衝撃的なものを目にした。それは一つの映像作品で、現実の会場で奇抜な演出があるわけでもなく、淡々と一つの映像が流れているだけなのにその作品の前で立ち止まり、目を奪われ、数分間作品の前から動けなくなってしまった。
とても不思議なことだが、映像の途中から見始めてストーリーもまだちゃんと掴めていないのにもかかわらず、「私はこの作品をちゃんと見なければいけない」と直感的に思った。その作品は百瀬文さんが制作したもので、堕胎罪の意識が残る日本人女性と中絶禁止法が成立したポーランド人女性の往復書簡を元にストーリーが構成されている。
内容としては(これはあくまで私がその作品を見た解釈ではあるが)、性別によって分かれる命に対する決断の重さや、自己の身体や人生であるはずなのに赤の他人によって蹂躙され、侵害される恐怖を描いたものだと認識している。実際に見てほしい気持ちが強いので、あまり詳細な解説は書かないが、私が作品の中で「正面から思い切り殴られた」と表現するのが正しいぐらいに衝撃を受けたシーンがある。
それは映像の中で女性がトイレに腰かけているところから始まり、水たまりに溜まった透明な水が真っ赤に変化する。
【生殖を目的としない、数えきれないほどの射精】
セックスをすれば一定の確率で妊娠する。それは義務教育で保健体育を履修した誰もが知っていることで、それぞれの状況に応じて、その確率を下げようと手段をとったり、むしろ逆に確率を上げようと手を尽くしたりする。
私は初めてセックスをしたあの日から今日にいたるまで、きっと普通の人と比べると多くの人と関係を結んできた。人数で計算しても相当だが、射精された回数で考えると、数えることを途中で放棄するのが妥当というくらいの数だ。そしてその大半というよりもほぼ全てが生殖を目的としていない射精であった。
よくよく考えると、その回数分だけ形になるはずだった何かを殺してきたのだと思ってしまう。ただ、形になる前のものだから深く考えたことはないし、現実として形にならなかったという事実を自分自身の間から流れてくる血を見ることで理解をし、むしろその血を見てどうしようもなくその死が嬉しくて安堵してしまうのだ。
それは避妊を失敗した恐れなどは関係なく、毎月の儀式みたいなものだ。でもそれは決して一回限りの相手や仕事相手、きちんと関係性を築いているパートナーにさえも話したことがない。同じくらいの不安感や責任感を持って、この奇妙な安堵感やそこに至るまでの感情を共有できると思わないからだ。
もちろん何度か話したことはある。「まあそんなものか」と思ってしまう答えが返ってくるので話すことをやめた。それは年齢や責任を取れる取れないとかの問題ではなく、身体の所有者か否かで踏み越えにくい溝が存在していると思っている。それはもはや私が諦めているからなのかはわからない。セックスは二人の人間がいないとできないはずなのに、小さな死を感じるときは不思議なことにいつだって孤独だ。いつもそう思っていた。しかしながら、冒頭の作品を見て、そんなやるせなさを感じるのは私だけではないと感じて、正直なところ胸を撫でおろしてしまった。
【どうやったら自分の身体を守れるのか、または傷つけられるのか】
私はきっと同じ世代の女性たちと比べたら、どうやったら自分の身体を守れるのかも、傷つけることができるのかも知っている。己の精神と肉体の両方に密接な仕事をしていたからこそ人一倍手入れが必要だったのもあるし、嫌でも向き合わなければならなかったのもある。精神に依拠した話がこれまで多かったが、私が肉体に対してどう接してきたのかについてはこれから数回に分けて考えていきたいと思う。
あまりにも赤裸々すぎるのかもしれないが、今の私―存在する精神と肉体の両方を切り取って、今紡げる言葉に残しておきたいのだ。
(第23回へつづく)
文:神野藍
※毎週金曜日、午前8時に配信予定